第7話 片づけるのは、命の通り道
第7話 片づけるのは、命の通り道
アリスが筆頭内政官となって四か月が過ぎ、辺境領には秋の終わりが近づいていた。領主館の庭では紫色の野菊が冷たい風に揺れ、朝になると葉の縁へ白い霜がついている。アリスは厚手の深緑色のワンピースを着て、木の櫛で髪をまとめると、毛織りの肩掛けを羽織って食堂へ向かった。
食卓には、焼いた黒パンと茸入りの卵焼き、湯気の立つ山羊乳が並んでいた。ルーカスはすでに席へ着いていたが、パンを一口も食べず、北部の地図を広げている。『食事中に仕事をしないこと』と書かれた紙は、山羊乳の杯の下へ敷かれていた。
「注意書きを敷物にしてはいけません」
アリスが紙を引き抜くと、杯が傾き、山羊乳が少しこぼれた。ルーカスは布で地図を拭きながら、北部の村で魔獣が三頭確認されたと告げる。昨年は同じ時期に十五頭まで増え、討伐隊に十二人の負傷者が出ていた。
「今回は、早めに兵を増やす。武器と防具も追加で購入する」
「また外套のように、必要のない物を買うおつもりですか」
「魔獣は台帳を見せれば帰ってくれる相手ではない」
「では、魔獣がどこへ来たのかを、先に台帳で確認しましょう」
アリスは卵焼きを半分に切り、ルーカスの皿へ戻した。食べ終わるまで地図を返さないと告げると、彼は茸を苦手そうによけ始める。厨房の入口からマルタが見ていたため、最後には茸も残さず食べた。
朝食後、アリスは資料室から過去十年分の魔獣襲撃記録を運ばせた。机には入りきらず、広間の床へ北部の大地図を広げる。襲撃場所を赤い印、負傷者の出た場所を黒い印、家畜が襲われた場所を黄色い印で記していった。
古参文官のエルンストは、毛糸の上着を着込み、眼鏡を鼻先まで下げて記録を読み上げた。若い書記は地図へ印をつけていたが、赤い染料を袖でこすり、白いシャツへ大きな染みを作る。彼は前掛けを着ければよかったとつぶやき、林檎ジャムの染みが残る古い前掛けを取りに走った。
「九年前、北西の放牧地で四頭。七年前は旧採石場で六頭です」
「昨年は、川沿いの三つの村に集中しているな」
ルーカスは地図の上へ膝をついた。剣を置く場所がなく、腰から外して野菊を挿した花瓶の隣へ立てかける。アリスは十年分の赤い印を見比べ、同じ場所を指でたどった。
「街道沿いに多いように見えますが、村の中心には入っていません」
「見張りが追い払ったからではないか」
「では、なぜ毎年この三か所へ集まるのでしょう。何か、魔獣を引き寄せる物があるはずです」
一行は、その日のうちに北部へ向かった。馬車の窓から見える森は赤茶色に染まり、道端には白い野菊と枯れた薊が残っている。途中の宿で出された昼食は、塩漬け肉と豆を挟んだ固いパンだった。
旧採石場へ近づくと、風に混じって鼻を刺す匂いがした。谷のくぼみには、傷んだ穀物、野菜の皮、家畜の骨が山積みになっている。村々で処分に困った物を、長年そこへ捨てていたのだった。
「魔獣は、これを食べに来ていたのですね」
アリスが布で鼻を覆うと、案内役の村長が帽子を胸へ抱えた。ほかに捨てる場所がなく、冬になれば雪に埋もれるため問題ないと思っていたという。ルーカスは家畜の骨のそばへしゃがみ、土についた大きな足跡を確かめた。
「人の食べ物を覚えた魔獣が、雪で餌を失い、村へ下りてくるのか」
「おそらく。討伐隊を増やすだけでは、毎年ここへ食事を用意しているのと同じです」
「ならば、食堂を閉めよう」
ルーカスは周辺の村長を集め、廃棄物を採石場へ捨てることを禁じた。穀物や野菜くずは囲いのある堆肥場へ運び、家畜の死骸は村から離れた場所で深く埋める。魔獣の通り道には見張り台を移し、火と音で森へ追い返すことになった。
次にアリスは、討伐隊の補給記録を確認した。兵士が包帯を使い切るたび、二里離れた倉庫まで戻っていたことが分かる。武器は余っているのに、飲み水と薬が戦う場所の近くにない。
「これでは、兵士は魔獣より荷物と戦っています」
「補給所は、父の代から同じ場所だ」
「魔獣の出る場所が変わったのに、補給所だけが昔のままなのですね」
アリスは襲撃場所の近くへ、小さな補給所を三つ設けた。箱には包帯、止血薬、火傷薬、飲み水、乾燥肉を入れる。文字を読めない兵士にも分かるよう、包帯には腕、止血薬には赤い雫、火傷薬には炎の絵を付けた。
「この炎、踊っている女に見えないか」
荷運び人が札を横へ傾けた。描いた若い書記は、今度こそ炎だと言い張る。鍛冶屋まで呼んで確認した結果、炎と踊る女の中間だという結論になり、札の周囲を赤く塗ることで決着した。
魔獣が現れたのは、初雪の降った朝だった。鐘が三度鳴り、兵士たちは決められた持ち場へ向かう。アリスは毛皮の襟がついた外套を着て、村の避難所を確認して回った。
森から現れた魔獣は八頭だった。猪に似た太い体と黒い角を持ち、雪を蹴り上げながら採石場へ向かった。しかし食べ物の山はなく、見張り台から鳴らされた鐘と火矢によって、群れの半分は森へ引き返した。
残った四頭にはルーカスの率いる討伐隊が対応した。兵士は補給所からすぐに矢と飲み水を受け取り、負傷者にはその場で止血が行われる。昨年のように、包帯を探して走り回る者はいなかった。
「南の避難所、人数の確認が終わりました!」
若い兵士が報告へ来た。アリスは名簿へ印をつけ、次の避難所へ向かおうとする。朝から雪の中を歩いていたため、外套の裾は濡れ、靴の中まで冷えていた。
「アリス様、少しお休みください」
避難所を任された女性が、温かい麦粥の器を差し出した。粥には刻んだ胡桃と蜂蜜が入っている。アリスは討伐が終わってからいただくと答え、名簿を鞄へ戻した。
最後の避難所には、老人が一人来ていなかった。アリスは兵士を呼ぼうとしたが、皆が討伐へ出ていると聞き、自分で老人の家へ向かった。膝まで積もった雪へ足を取られながら、村の外れまで歩く。
老人は、飼っている鶏を置いて避難できず、小屋に残っていた。アリスが事情を説明しても、三羽の鶏も一緒でなければ行かないと首を振る。結局、アリスは籠へ鶏を入れ、老人と一緒に避難所へ戻ることにした。
「こいつらは、毎朝卵を産む。置いてはいけん」
老人は籠を抱え、何度も中をのぞいた。一羽だけ白い鶏が暴れ、籠の隙間から首を出す。アリスは鶏の頭を押し戻そうとしたが、手袋をくちばしでつつかれた。
避難所へ戻った頃には、討伐終了の鐘が鳴っていた。負傷者は四人で、いずれも軽傷だった。前年の三分の一で済んだという報告を聞いたアリスは、名簿へ最後の印をつけようとした。
炭筆が、指の間から雪の上へ落ちた。拾おうと腰をかがめたが、地面が斜めに傾いて見える。遠くから自分を呼ぶ声が聞こえたところで、濡れた外套が雪の上へ広がった。
次に目を開けたとき、アリスは領主館の客室にいた。暖炉では薪が燃え、枕元の小さな花瓶に白い野菊が挿されている。寝台の横には、泥と煤で汚れたルーカスが椅子へ座っていた。
「討伐は、どうなりましたか」
アリスが起き上がろうとすると、ルーカスが毛布を肩まで掛け直した。彼の左頬には細い傷があり、黒い上着の袖も裂けている。机には冷めた麦粥が置かれ、表面の蜂蜜が固まっていた。
「終わった。魔獣は退けた」
「負傷者は」
「四人だ。皆、自分で歩ける」
「村の被害は」
「壊れた柵が二枚。鶏が一羽、逃げた」
「白い鶏ですか」
「白い鶏だ。さっき厨房で豆を食べていた」
アリスは毛布の上で指を組んだ。討伐は成功し、被害も少なかった。それでも胸の中に残るものがあり、成果を一つずつ数えなければ、寝台へ沈んでしまいそうだった。
「私は、役に立ちましたか」
ルーカスは、すぐには答えなかった。代わりに卓上から黄色い布の包みを取り、アリスへ差し出す。倒れたときに鞄から落ち、木の櫛の欠けた歯へ布が引っかかっていたという。
包みを開くと、木の櫛の欠けた部分に細い布が巻かれていた。引っかかった髪を傷めないよう、ルーカスが不器用な手で結んだらしい。結び目は大きく、左右の長さも揃っていなかった。
「これは、役に立つから持っているのか」
「いいえ。髪をとかすだけなら、新しい櫛のほうが便利です」
「では、なぜ捨てない」
「大切な人からもらった物だからです」
ルーカスは木の櫛をアリスの手へ載せた。その指先には、剣を握ったときにできた新しい傷がある。アリスは櫛を握ったまま、ルーカスの顔を見られなかった。
「ならば分かるだろう。私は、その質問を二度としなくてよい場所を作りたい」
「私は、人です。櫛とは違います」
「そうだ。だから、もっと大切に扱わなければならない」
扉の外で何かが倒れ、鶏の鳴き声がした。白い鶏を捕まえようとして、使用人たちが廊下を走っているらしい。いつもならアリスは、誰が捕まえるか指示を出そうとしただろう。
しかし今は寝台から動かなかった。ルーカスが冷めた麦粥の器を持ち、厨房で温め直してもらおうと立ち上がる。アリスは、彼の上着の裾を指先でつまんだ。
「ここにいていただけますか」
「粥が冷えている」
「冷めたままで構いません。半分ずつ食べましょう」
ルーカスは椅子へ座り直した。固まった蜂蜜を匙で混ぜると、麦粥から甘い匂いが立った。二人で一つの器を空にする間、逃げた鶏は廊下を三度も往復した。
アリスは木の櫛を枕元へ置いた。布の巻き方は不格好で、以前より少し使いにくくなっている。それでも、ほどいて直そうとは思わなかった。




