第5話 休めない仕組みを、最初に捨てる
第5話 休めない仕組みを、最初に捨てる
朝食のあと、ルーカスはアリスを執務室へ呼んだ。窓辺には薄桃色の撫子が飾られ、開いた窓から湿った土と洗濯石鹸の匂いが入ってくる。アリスが椅子へ座ると、ルーカスは机の「確認中」の場所から一枚の書類を取り出した。
「アリス。辺境伯家の筆頭内政官として、ここに残ってほしい」
書類の表題は、雇用契約書となっていた。勤務は朝八時から夕方六時まで、昼休憩は一時間、七日に一度は休日とする。職務は行政手続きと物資管理の改善であり、私室の片づけや夜会の接待は含まれない。
「報酬は、月に金貨八枚ですか」
「足りないか」
「多すぎます。王宮では、衣食住を与えられていましたから」
「それは報酬ではない。食べさせて、住まわせて、仕事をさせるのは、飼っている馬にもすることだ」
アリスの指が契約書の上で止まった。王宮で十年働いても、給金を受け取ったことはない。必要な衣服や食事は与えられていたため、自分には十分だと思っていた。
「私は、そこまでの仕事ができるか分かりません」
「昨日だけで、止まっていた橋の修繕と薬草の購入が動いた」
「それは、皆様が働いてくださったからです」
「ならば、皆が働ける仕組みを作った仕事に金を払う。契約には、何もしない日にも同じ額を払うと書いてある」
アリスは休日の文字を指でなぞった。何もしない日に報酬を受け取ることが、どうしても理解できない。ルーカスは羽根ペンを渡すと、自分の分の契約書へ先に署名した。
「不要になったら、どうなりますか」
「三か月前に通知する。あなたから辞める場合も同じだ」
「その日のうちに、出ていけとは言われないのですね」
「言わない。そもそも、人をその日の気分で捨てる者とは契約できない」
ルーカスの声はいつもと変わらなかった。廊下では、マルタが昼食用の豆をざるへ移している。豆がころころと転がる音を聞きながら、アリスは自分の名前を書いた。
その日から、アリスには小さな執務机が与えられた。ルーカスの机と向かい合わせではなく、窓を挟んだ斜めの位置に置かれている。立ち上がれば互いの顔が見えるが、座っている間は相手の書類をのぞけない距離だった。
「机を並べないのですか」
「あなたは、私を監視するために雇われたのではない」
「ですが、仕事をしているか確認できません」
「私は領主だぞ」
「領主だからこそ、確認が必要です」
ルーカスは口を閉じ、自分の机へ戻った。アリスの椅子には、マルタが縫った深緑色の座布団が置かれている。中に詰めた羊毛が片側へ寄っていたため、アリスは両手で形を整えてから座った。
最初に改めたのは、緊急報告の受付だった。これまでは、誰もがルーカスのもとへ直接駆け込んでいたため、本当に急ぐ案件ほど、声の大きな者の後ろへ埋もれていた。アリスは玄関脇に受付机を置き、赤、青、白の三種類の札を用意した。
「人命や火事、敵襲は赤です。今日中に判断が必要なものは青、それ以外は白にしてください」
受付を任された若い書記が、赤い札を光へ透かした。彼は昨日、数字の二を水鳥のように描いた青年である。今日も前掛けに林檎ジャムの染みがついていた。
「お腹が減ったという相談は、何色ですか」
「食事の時刻まで待てるなら白です」
「マルタさんが怒っている場合は?」
「赤にしてもよいでしょう」
厨房から鍋の蓋を閉める大きな音が聞こえた。書記は赤い札を一枚、自分の胸ポケットへ入れる。ルーカスは笑いをこらえながら、橋の修繕報告を青い札の箱へ置いた。
次に、アリスは備蓄倉庫のすべての棚を調べた。小麦、豆、塩、薬草、防寒具について、これ以下になれば買う最低量と、これ以上は買わない上限量を決める。荷物を出し入れした者が、日付、品名、数量を簡単な台帳へ記す仕組みも作った。
「字の書けない者は、どうすればいい」
片方ずつ色の違う長靴を履いた荷運び人が尋ねた。アリスは品物ごとの絵札を用意し、数量は丸印で記録するよう説明する。一つなら丸を一つ、五つなら大きな丸を一つにすればよい。
「俺の女房は、丸を描くと芋になるぞ」
「芋でも、数が分かれば構いません」
「それなら俺も書ける。字より芋のほうが得意だ」
男は笑い、自分の名前の代わりに長靴の絵を描いた。左右の色まで塗り分けたため、誰の印かはすぐに分かった。アリスは上手に描けていると言い、台帳の最初の記録を任せた。
奥の棚を調べていたとき、荷運び人の足が木箱へ当たった。箱の前には古い毛布が積まれ、長い間動かされた形跡がない。毛布をどけると、同じ大きさの箱が壁際まで二段に積まれていた。
「これは何でしょう」
アリスが蓋を開けると、中には羊毛の外套が入っていた。油紙に包まれていたため傷んではいない。数を調べると、全部で百二十着あった。
「こんな外套、見たことがないぞ」
倉庫係が首をかしげた。台帳では、毎年冬になるたび、同じ外套を百二十着購入している。しかし兵士へ配られた記録は、最初の年の一度しかなかった。
「去年も購入代金が支払われています」
アリスは請求書を並べた。納入した商会の名前は毎年違うが、責任者の署名は同じ筆跡に見える。さらに受領印は、二年前に辞めた前任管理官のものだった。
ルーカスは一枚ずつ請求書を確認した。外套を納めていないのに、納めたように装って代金を受け取った者がいる。前任管理官が複数の商会名を使い、架空発注を繰り返していた可能性が高かった。
「私の父の代からだ」
ルーカスは箱の縁に手を置いた。指先に積もった埃がつき、灰色の線を作る。彼はすぐに警備兵を呼び、前任管理官の居場所と商会の口座を調べるよう命じた。
「外套はどうしますか」
「今年の冬に兵士へ配る」
「すべて配れば、また保管場所が空になります。今後三年間は新しく買う必要もありません」
「浮く金額は、いくらだ」
アリスが計算すると、金貨四百枚近くになった。橋の修繕を終え、診療所へ一年分の薬草を送っても、まだ残る。ルーカスは金額を聞くと、埃のついた手で髪をかき上げた。
数日後、橋の修繕費が正式に支払われ、診療所には二台の荷車で薬草が届けられた。領主館の玄関には、診療所から礼として届いた薄紫の桔梗が飾られた。花に添えられた手紙には、熱を出していた子どもたちが薬を飲めたと書かれている。
午後になると、子どもを連れた女性が領主館を訪れた。少女は黄色いワンピースを着て、片手に焼いた胡桃を三つ握っている。母親に背中を押されると、そのうち一つをアリスへ差し出した。
「お薬を送ってくれて、ありがとう」
「私は、書類を見つけただけです」
「でも、見つけてもらえなかったら、お薬は来なかったよ」
少女は残りの胡桃を一つルーカスにも渡した。最後の一つは自分の口へ入れようとしたが、殻を割っていないことに気づく。ルーカスが机の文鎮で割ってやると、中身は半分つぶれた。
「閣下、強すぎます」
「食べられれば同じだ」
「卵のときも、そうおっしゃっていました」
少女が笑い、ルーカスもつぶれた胡桃を一緒に食べた。アリスは自分の胡桃をすぐには割らず、木の実の温かさが消えるまで手の中で転がした。
その夜、領主館の灯りが一つずつ消えたあとも、アリスの机だけは明るかった。契約には夕方六時までと書かれていたが、備蓄台帳の空欄が気になった。今日のうちに終わらせれば、明日は別の仕事ができる。
ろうそくが半分まで短くなった頃、廊下から足音がした。アリスは書類を伏せ、灯りを消そうとする。しかし入ってきたのはルーカスではなく、寝間着の上に毛糸の肩掛けを羽織ったマルタだった。
「見なかったことにして差し上げます。ただし、明日の朝は、きちんと食堂へ来てくださいよ」
「あと少しで終わります」
「少しという人ほど、朝までやるんです」
マルタは欠伸をし、机へ蜂蜜入りの山羊乳を置いた。温かかったはずの乳は、話しているうちに表面へ薄い膜を作る。アリスは飲むと約束し、マルタが出ていくと、再び台帳を開いた。
翌朝、アリスが執務室へ入ると、自分の机の中央に紙が置かれていた。太い文字で、『本日の最優先業務。朝食を食べること』と書かれている。その下には、『食べるまで、筆記用具の使用を禁止する』と付け加えられていた。
机の引き出しを開けると、羽根ペンも炭筆もなくなっていた。インク壺まで片づけられている。アリスが振り返ると、ルーカスは自分の机で報告書を読みながら、知らない顔をしていた。
「私の筆記用具を、どこへ移しましたか」
「朝食後に返す」
「契約書に、筆記用具を取り上げてよいとは書かれていません」
「夕方六時以降に働いてよいとも書かれていない」
アリスは反論せず、食堂へ向かった。朝食は、焼いた黒パン、山羊乳、玉葱とチーズを入れた卵焼きだった。卵焼きの端は少し焦げていたが、ルーカスの皿だけではなく全員の皿が同じだったため、彼のせいではないらしい。
食事を終えると、アリスは羽根ペンを返してもらった。すぐに小さな紙へ一文を書き、ルーカスの机へ置く。紙には、『領主の最優先業務。仕事を部下へ任せること』と記した。
「私は任せている」
「昨日、警備兵の勤務表を夜中まで作っていました」
「急ぎだった」
「副隊長に任せられます」
「あなたも備蓄台帳を倉庫係に任せられただろう」
二人は机越しに見つめ合った。先に目をそらしたのは、同時だった。若い書記が書類を届けに入ってきたが、二人の机に置かれた紙を見て、何も言わずに退出した。
数日後、ルーカスの机には別の紙が増えた。『昼食のパンをポケットへ入れたままにしないこと』。アリスの机にも、『休憩中に帳面を開かないこと』という紙が置かれた。
やがて若い書記や倉庫係も、無理をしている者の机へ注意書きを置くようになった。『水を飲むこと』『荷物を一人で持たないこと』『熱がある日は帰ること』。字の書けない荷運び人は、水差しや寝台の絵を描いた。
領主館では、休むことも仕事の一部として扱われるようになった。アリス一人が倒れるまで働く必要も、ルーカス一人がすべてを抱える必要もない。最初に捨てたのは古い書類でも余分な外套でもなく、誰か一人が休めない仕組みだった。




