第4話 人を迷わせない棚
第4話 人を迷わせない棚
翌朝、アリスが食堂へ入ると、ルーカスはすでに窓際の席で報告書を読んでいた。紺色の上着は椅子の背へ掛けられ、灰色のシャツの袖は左右で違う高さまでまくられている。食卓には焼いた腸詰め、半熟の卵、薄切りの黒パンが並んでいたが、ルーカスの卵だけは殻を割られないまま冷めていた。
「おはようございます。食事中に仕事をしないという昨日の話を、もうお忘れですか」
アリスが向かいへ座ると、ルーカスは報告書の陰から片目だけを見せた。手元の杯には蜂蜜を入れた山羊乳が残っているが、表面には薄い膜が張っている。厨房の入口では、料理人のマルタが腕を組み、アリスへ任せたという顔をしていた。
「これは食事中の仕事ではない。仕事中に食事を置かれただけだ」
「同じことです」
「橋の修繕隊から、昨夜の報告が届いた。亀裂は予想より深いらしい」
ルーカスはそう言いながら、卵の殻を匙で割った。勢いが強すぎて殻の欠片が中へ落ち、彼は指で取り出そうとして黄身まで崩してしまう。アリスは自分の卵をきれいに半分へ割り、塩を少し振った。
「今日は、閣下のお仕事を一日観察させてください」
「食べ方まで記録するつもりか」
「殻を入れずに卵を食べる方法については、マルタさんへお任せします。私が見たいのは、どの仕事を、どのような順番で処理なさっているかです」
マルタが吹き出し、鍋の蓋を落としかけた。ルーカスは卵の殻を皿の端へ寄せ、報告書を畳む。山羊乳を一息で飲み干したものの、上唇についた白い跡には気づかなかった。
朝食後、アリスは小さな帳面と炭筆を持ち、ルーカスの執務室へ入った。昨日まで床を覆っていた書類は広間へ移され、人が歩けるようになっている。しかし、大きな執務机の上には、新しく届いた報告書がもう二つの山を作っていた。
ルーカスは右手で羽根ペンを持ち、左手で書類を押さえる。署名を終えると、右奥に置かれた印章へ手を伸ばした。そのたびに袖口が開いたインク壺へ触れそうになり、アリスは帳面へ短い線を書き加えた。
「今、何を書いた」
「印章の位置が遠い、と書きました」
「私は困っていない」
「今朝だけで三度、袖をインクで汚しかけています」
ルーカスは右の袖口を見た。そこには、すでに小さな青黒い点がついている。彼は炭筆を持つアリスの手元を見たが、反論せず、次の書類を取った。
ほどなく若い兵士が入ってきて、北門の警備について報告を始めた。報告の途中で会計官が入り、その後ろへ倉庫係と橋の修繕担当者も並ぶ。机の前には五人が立ち、誰が最初に来たのか分からなくなった。
「北門の柵が一部、壊れています」
「待ってくれ。今は橋の報告を聞いている」
「私は薬草の支払いについて、印章をいただきに参りました」
「その書類はどこに置いた」
「こちらです。いえ、これは毛布の購入でした」
会計官は抱えていた紙束を机の端へ置き、一枚ずつめくり始めた。待っている兵士は体重を右足から左足へ移し、倉庫係は欠伸をかみ殺している。修繕担当者の靴についた泥が乾き、絨毯の上へ小さく落ちた。
アリスは、机の前に立つ五人の順番と滞在時間を帳面へ記録した。一人目の報告が終わるまで、残りの四人は何もできない。さらにルーカスは報告を聞くたび、背後の壁に掛けられた地図を確認するため立ち上がっていた。
「地図を机の横へ移してもよろしいでしょうか」
「壁へ掛ける場所なら、そこしかなかった」
「大きな地図を移すのではありません。よく確認する北部だけを写し、こちらへ置きます」
アリスは使われていない譜面台を物置から運ばせ、北部の地図を載せた。ルーカスが椅子を少し右へ向ければ、立たずに川や街道を確認できる。机の右手前には印章と印肉を置き、蓋を開けたインク壺は左奥へ移した。
「落ち着かないな」
ルーカスは印章を右手前へ置き直された机を見た。これまでと違う位置に物があるため、無意識に元の場所へ手を伸ばしてしまう。その指先が空をつかむたび、アリスは帳面へ印をつけた。
「一週間で慣れます。それでも使いにくければ戻します」
「あなたは、自分が決めた場所に従えとは言わないのだな」
「使う人が迷う配置では、整っていても意味がありません」
ルーカスは新しい位置の印章を取り、決裁書へ押した。今度は袖口がインク壺へ近づかず、体をひねる必要もない。彼は何も言わなかったが、次の書類にも同じ動きで印章を押した。
昼前になると、領主館の裏庭から金槌の音が聞こえ始めた。古い本棚の棚板を取り外し、大工が高さを調整している。庭では白い鈴蘭に交じって薄桃色の撫子が咲き、削られた木の匂いが花の香りを覆っていた。
アリスは、書類棚を部署ごとに分けなかった。各部署から届いた書類が同じ机で混ざるのは、どの段階まで進んだか分からなくなるからである。棚を「未確認」「確認中」「決裁済み」「発送待ち」の四つに分け、処理が進むたび、書類そのものを次の棚へ移すことにした。
「会計の書類と兵の書類を一緒にするのですか」
若い書記が、墨のついた指を前掛けで拭きながら尋ねた。彼の前掛けには、昨日食べた林檎ジャムの染みも残っている。アリスは同じ内容の札を四枚用意し、それぞれの棚へ取り付けた。
「同じ棚には置きますが、赤い紐は軍務、黄色は会計、青は領民からの申請です。誰の担当かではなく、今どこまで進んでいるかを、最初に分かるようにします」
「では、閣下に見ていただきたい書類は、すべて未確認の棚へ?」
「いいえ。閣下の決裁が必要かどうかは、先に担当者が確認します。蕪を十個買う書類まで閣下へ持っていかないでください」
若い書記がうなずく横で、マルタが厨房から顔を出した。昨日、蕪の仕入れを増やしてほしいと申請したばかりだったらしい。ルーカスは遠くから二人の話を聞き、今夜も蕪が出るのかと小さくつぶやいた。
棚が完成すると、報告の方法も変えた。急ぎでない相談は、担当者が要点を書いて「確認中」の棚へ置く。口頭で報告する者には番号札を渡し、ルーカスの机の前で一日中並ばなくてもよいようにした。
午後、ルーカスは誰にも遮られず、一時間続けて橋の修繕計画を確認できた。机の前で待つ者はおらず、部屋に聞こえるのは羽根ペンが紙を擦る音と、庭でシーツを干す音だけだった。洗濯係がシーツを強く振るたび、窓から石鹸と日なたの匂いが入ってくる。
「静かすぎる」
ルーカスが顔を上げた。報告に来る者がいないため、自分だけ仕事から外されたように見えるらしい。アリスは「確認中」の棚から三通の書類を取り出し、机へ置いた。
「仕事が減ったのではありません。待ち時間と中断が減ったのです」
「先ほどから、誰も困った顔で駆け込んでこない」
「困る前に、行き先が分かるようになったからです」
ルーカスは机の端に置かれた番号札を一枚つまんだ。青い札には、倉庫係が描いたらしい不格好な鳥の絵がついている。アリスは鳥ではなく数字の二だと説明したが、ルーカスはどう見ても水鳥だと言い張った。
執務室の次は、領主館の備蓄倉庫を整えた。そこでは文字を読めない荷運び人が、薬草と香辛料の箱を取り違えることがあった。アリスは木札に小麦の穂、薬瓶、剣、上着の絵を描かせ、色と組み合わせて棚へ付けた。
「俺は字が読めないが、絵なら分かる」
昨日、片方だけの長靴を捜していた荷運び人が、小麦の札を見て笑った。今日は両足とも長靴を履いているが、左右で革の色が違う。彼は薬瓶の絵札を指し、これなら新しく来た者にも教えられると言った。
「この剣は、魚みたいだな」
別の男が武器の札を見て首をかしげた。絵を描いた若い書記は、自分には剣にしか見えないと反論する。結局、鍛冶屋に本物らしい剣を描いてもらうことになり、魚に見える札は干物を保管する棚へ回された。
夕方には、誰が見ても物の場所が分かるようになった。小麦を取りに来た者は、倉庫係を捜さず、自分で目的の棚へ向かう。使い終えた台車も床に描かれた四角の中へ戻され、入口を塞がなくなった。
アリスは一日の記録を帳面へ書き終えると、次の倉庫の場所を尋ねた。領主館の外には、軍用の防具を保管する大きな倉庫があるという。まだ空が明るいため、今からでも確認できると考え、外套を取りに廊下へ出た。
玄関の扉を開けると、ルーカスが立っていた。片手には湯気の立つ木の器を持っている。中には白い豆、細く切った人参、燻製肉の入ったスープが注がれ、胡椒の匂いが夜風に流れた。
「どちらへ行く」
「軍用倉庫です。日が沈むまで、中の配置だけでも確認します」
「今日は終わりだ」
「まだ改善できる場所があります」
「明日のあなたに残しておけ」
アリスは外の空を見た。西の雲は橙色に染まっていたが、完全に暗くなるまで一時間はある。明日になれば、別の書類や問題が増えるかもしれない。
「明日は、別の問題が起きるかもしれません」
「起きれば、皆で処理する」
「間に合わないかもしれません」
「私の領地は、あなた一人を使い潰さなければ回らないほど貧しくない」
ルーカスはスープの器をアリスへ差し出した。木の器は両手で持たなければならず、受け取れば外套も帳面も持てない。アリスはしばらく器を見つめたあと、両手で受け取った。
スープの表面には薄く脂が浮き、燻製肉の香りが鼻へ届いた。匙ですくうと、底から柔らかな白豆がいくつも出てくる。玄関脇の長椅子へ座って一口飲むと、塩気と一緒に熱が喉から腹へ落ちた。
「閣下は召し上がったのですか」
「食べた」
「何が入っていましたか」
「豆、人参、肉だ。今日はきちんと見た」
ルーカスは胸を張ったが、厨房の窓からマルタが顔を出した。器には玉葱も入れたはずだと大声で告げる。ルーカスは聞こえないふりをして、玄関の柱に寄りかかった。
食事を終えたアリスは、空の器を厨房へ返した。客室へ向かおうとしたところで、廊下の奥を歩くルーカスの背中が見える。彼は上着の内側から執務室の鍵を出し、音を立てないよう扉へ差し込もうとしていた。
アリスは先回りし、執務室の扉の前へ立った。ルーカスは鍵を持ったまま動きを止める。昼間より整った廊下には、彼の靴音と遠くで皿を洗う音だけが残った。
「何のつもりだ」
「閣下の仕事も、明日の閣下へ残してください」
「橋の修繕費を確認するだけだ」
「私は倉庫の配置を確認するだけでした」
「領主と客人では違う」
「体が一つしかない点は同じです」
二人は扉の前で向かい合った。ルーカスは右へ進もうとし、アリスも右へ動く。次に左へ進もうとすると、アリスも同じ方向へ動いた。
「通してくれ」
「閣下こそ、お部屋へお戻りください」
「命令だと言ったら?」
「明日から、誰もが迷わず働ける領地を作るのではありませんか。領主が最初に決めた規則を破れば、誰も守りません」
ルーカスは鍵を見下ろし、長く息を吐いた。やがて鍵をポケットへ戻し、自室の方向へ歩き始める。しかし廊下の途中で振り返り、アリスが執務室へ入らないか確認した。
アリスも客室へ向かったが、同じ場所で振り返った。ルーカスもまだこちらを見ている。二人は互いに相手を疑ったまま、後ろ向きに数歩進んだ。
「前を向かないと、転びますよ」
「あなたもだ」
二人は同時に前を向き、それぞれの部屋へ戻った。廊下の灯りが消され、執務室には誰も入らなかった。仕事をしないことを二人で守ったのは、その日が初めてだった。




