第3話 捨ててよい書類など、一枚もありません
第3話 捨ててよい書類など、一枚もありません
三時間後、アリスは約束どおり食堂の椅子に座っていた。長い机の中央には、鶏肉と蕪を煮込んだ鍋が置かれ、湯気と一緒に月桂樹の香りが立ち上っている。アリスが二杯目の煮込みをよそってもらうと、向かいに座ったルーカスは黒パンをちぎる手を止めた。
「足りなければ、三杯目もある」
「結構です。二杯もいただけば十分です」
「その割には、鍋を見ている」
アリスは黙って煮込みを口へ運んだ。鶏肉は匙で崩れるほど柔らかく、蕪には塩気のある汁が染みている。王宮の夜会に並んでいた雉料理より質素だったが、空腹の腹へ入った温かさは、こちらのほうが長く残った。
「残った煮込みは、明日の朝に麦を入れて食べるんです」
料理人のマルタが鍋をのぞき込みながら言った。白い前掛けには蕪の葉が一本つき、袖口には小麦粉が残っている。ルーカスは、アリスに三杯目を勧めれば朝食が減ると気づいたらしく、空になった自分の器を静かに置いた。
「閣下の分は、別に取ってありますよ。遠慮したふりをしても、明日は大盛りです」
「ふりではない。領主として、食料の配分を考えていただけだ」
「では領主として、床へ落とした靴下も拾ってください。洗濯係が、また片方だけだと怒っていましたよ」
ルーカスは椅子の下を見た。いつ落としたのか、黒い靴下が一枚、机の脚に引っかかっている。アリスは煮込みでむせそうになり、口元を布で隠した。
食事のあと、アリスは執務室へ戻ろうとした。しかし廊下の時計は八時を回り、使用人たちは灯火を消し始めていた。ルーカスは執務室の鍵を自分のポケットへ入れ、客室の場所を指さした。
「続きは明日だ」
「まだ三時間で分類の準備をしただけです。入口付近の書類しか確認しておりません」
「だから、明日やる。今夜すべて片づくとは思っていない」
「では、せめて明日の作業計画を作らせてください」
「寝台の中で頭の中だけで作れ。灯りは使うな」
アリスが口を開く前に、ルーカスは自分の部屋へ歩いていった。ところが十歩ほど進んだところで戻ってきて、廊下の椅子に置き忘れた上着を拾う。片づけについて命令した本人が衣服を置き去りにしたため、アリスは何も言わず、その背中を見送った。
翌朝、アリスは鳥の声で目を覚ました。客室の窓辺には白い鈴蘭が飾られ、昨夜リタから受け取った黄色い布の包みが枕元に置かれている。木の櫛で髪をとかすと、欠けた歯の部分に髪が引っかかったが、アリスは急がず少しずつほぐした。
食堂では、昨夜の煮込みに大麦を加えた朝食が用意されていた。蕪はほとんど形を失い、鶏肉の細い繊維がとろみのある汁に混ざっている。ルーカスは灰色のシャツを着て、片手でパンを食べながら、もう片方の手で報告書を読んでいた。
「食事中に仕事をなさるのですか」
「急ぎの報告かもしれない」
「文字を読みながらでは、何を食べたか分からなくなります」
「腹に入れば同じだろう」
「では今朝の煮込みに、何が入っていたかお答えください」
ルーカスは匙を持ったまま鍋を見た。大麦と鶏肉までは答えたが、蕪が出てこない。厨房の入口で聞いていたマルタが、両手を腰へ当てた。
「閣下。昨日、あれほど立派な蕪だと説明しましたよ」
「煮込めば同じ色になる」
「次から閣下の分だけ、生のまま出しましょうかね」
ルーカスは報告書を畳み、食卓の端へ置いた。アリスも鞄から帳面を出しかけていたが、彼の視線に気づいて手を止める。二人は無言で大麦の煮込みを食べ、マルタは納得した顔で厨房へ戻った。
朝食後、アリスは領主館で働く者を広間へ集めてもらった。古参文官のエルンスト、倉庫係二人、若い書記三人、使用人四人が並ぶ。エルンストは六十歳を過ぎた小柄な男で、茶色い上着の肘には同じ色の布が何度も当てられていた。
「先に申しておきます。書類を廃棄する箱は作りません」
アリスが説明すると、若い書記が驚いて顔を上げた。彼の腕には、すでに「捨てる物」と炭で書かれた木箱が抱えられている。アリスは文字の上へ布を貼り、「確認が必要」と書き直した。
「片づけとは、何でも捨てることではありません。この領地の事情を知らない私には、何が不要か決める権利がないからです」
「ですが、五年前の食事の献立までありますよ」
若い書記が、染みのついた紙を持ち上げた。そこには鹿肉の煮込み、豆、黒パンと書かれ、端に脂の跡が残っている。エルンストは紙を受け取ると、曲がった眼鏡を押し上げた。
「その献立は捨ててはいかん。流行病が始まった頃の療養所の記録だ。何人分の食事を用意したか、その裏に書いてある」
紙を裏返すと、確かに小さな数字と患者の名前が並んでいた。若い書記は慌てて紙を両手で持ち直す。アリスは、四つの机にそれぞれ違う色の布を広げた。
赤は命に関わる書類、青は期限のある書類、黄色は収支に関わる書類、白は内容の確認が必要な書類と決めた。書類を見つけた者が勝手に判断せず、内容を一行で読み上げ、エルンストかルーカスが置き場所を決める。誰か一人の記憶に頼らないよう、分類した者の名前も簡単に記録した。
「北部の鍛冶屋から、蹄鉄代の請求書です」
「黄色だ。未払いなら青も付けてくれ」
「料理人から、胡椒を増やしてほしいという申請です」
「白でよい」
「三年前の閣下の靴下の購入記録が出てきました」
「それは捨てて構わないだろう」
ルーカスが言うと、洗濯係の女性が首を振った。購入記録には六足とあるのに、現在残っているのは七枚だけだという。片方の靴下が次々となくなる理由を調べる必要があるため、結局その紙も白い机へ置かれた。
作業が進むにつれ、広間の机に書類の山ができた。窓から入る風が紙をめくるため、使用人たちは庭から丸い石を拾い、文鎮代わりに載せていった。石の一つには土と小さな苔がつき、鈴蘭の匂いに湿った土の匂いが混ざった。
昼前、若い書記が厚い帳面の間から、半分に折れた紙を見つけた。紙の端には水染みがあり、赤い封蝋は割れている。エルンストが文面を読むと、手の甲に浮いた血管が強くなった。
「北部のグラン橋からの修繕願いです。三か月前に提出されています」
「グラン橋なら、冬に石炭を運ぶ道だ」
ルーカスが紙を受け取り、日付を確認した。橋脚に亀裂があり、雪解け水によって拡大している。夏のうちに修繕しなければ、秋以降は大型の荷車を通せないと書かれていた。
「なぜ私のところへ届かなかった」
「前任の書記長が急に辞めた時期です。机の引き出しから、こちらの帳面へ挟まれたのでしょう」
エルンストは自分の上着の裾を握った。ルーカスは誰かを責める代わりに、橋の修繕費と職人の手配について矢継ぎ早に指示を出した。しかし、その横で別の書記が赤い机から声を上げた。
「診療所からの嘆願書もあります。熱冷ましの薬草が不足し、子ども用の分まであと八日だそうです」
「いつの書類だ」
「二週間前です。こちらに二通、同じ内容の物があります」
さらに、戦死した兵士の家族へ支払われていない補償申請が七件見つかった。夫を亡くした女性が三度提出したものもあり、最後の一通には、冬までに支給されなければ家を手放すと書かれている。ルーカスは立ったままそれを読み、紙の端を親指で何度もこすった。
昼食を知らせる鐘が鳴ったが、誰も手を止めなかった。マルタが籠に入れたチーズと黒パンを運んできても、ルーカスは見向きもしない。彼は赤い机の書類をすべて自分の執務室へ運ぶよう命じた。
「今日中に全部確認する。橋の予算、薬草の購入、補償金の支払いも、私が決裁する」
「何件あるとお考えですか」
「数えている時間が惜しい。夜を徹してでも終わらせる」
「全部で百二十七件です。今から一件五分で確認しても、十時間以上かかります」
「ならば、五分もかけなければよい」
ルーカスは執務机から印章を持ってきた。赤い机の一番上にあった書類を開き、内容を読み終える前に印章を押そうとする。アリスはその手から印章を抜き取った。
「何をする」
「閣下が倒れたら止まる仕組みは、仕組みとは呼べません」
「だが、私が確認しなければ進まない」
「金額と危険度によって、決裁できる者を分けます。薬草の通常購入まで領主の印章を必要とするから、すべてがここで止まるのです」
アリスは橋の修繕をルーカス、薬草の購入をエルンスト、金額の確定している補償金を会計官へ振り分けた。ルーカスは納得しきれない顔をしていたが、エルンストが長く仕えてきた自分を信用できないのかと尋ねると、ようやく印章を三つ用意するよう命じた。
「これで、閣下は橋の修繕に集中できます」
「分かった。ところで、あなたは昼食を食べたのか」
「今は関係ございません」
「朝、自分で言っただろう。食事をしながら仕事をしてはいけないと」
アリスは白い机へ手を伸ばし、聞こえなかったふりをした。するとルーカスは、その書類の上へ黒パンとチーズの載った皿を置く。パンの端には、マルタが塗った林檎のジャムが少しだけ染みていた。
「食べ終わるまで、書類は読めないな」
「紙にジャムがつきます」
「では、早く皿を持ったほうがいい」
アリスは皿を持ち上げ、紙に染みがないか裏まで確かめた。ルーカスも橋の書類を持ったまま食堂へ行こうとしたため、今度はアリスが彼の前へ立つ。二人は互いの手元を見て、しばらく黙った。
「閣下も、書類を置いてください」
「橋の修繕は急ぐ」
「五分で黒パンを食べても、橋は落ちません」
「あなたも同じ五分で食べるのか」
「もちろんです」
食堂へ向かう二人の後ろで、エルンストが小さく咳払いした。若い書記たちは笑いをこらえながら、分類を続けている。窓辺では風に揺れた鈴蘭が一輪、白い机へ花を落とした。
その日の夕方、橋の修繕隊が出発し、診療所へ薬草の購入許可が届いた。補償金の七件も、翌朝には支払われることになった。広間にはまだ多くの書類が残っていたが、どの机に何があり、次に誰が処理するのかは分かるようになっていた。
アリスは、捨てる書類を一枚も決めなかった。それでも、三か月間埋もれていた人々の声が動き始めた。書類は場所を取る紙ではなく、その向こうで返事を待つ誰かの暮らしだった。
帰り支度をする使用人たちの中で、ルーカスだけが赤い机へ戻ろうとした。アリスが彼の印章を持ち上げると、ルーカスは足を止める。代わりに彼は、黄色い机からアリスの帳面を取り上げた。
「それは私物です。お返しください」
「それは、あなたにも当てはまるのではないか」
ルーカスは、先ほどアリスが言った言葉をそのまま返した。アリスは答えず、白い机の書類へ手を伸ばした。ルーカスも答えを求めず、彼女の帳面を抱えたまま食堂へ向かった。
廊下には、夕食の玉葱スープの匂いが流れていた。今日こそ靴下を落とさないよう、ルーカスの上着のポケットには洗濯係が縫い付けた小さな紐が見えている。アリスはそれを指摘せず、彼の後ろを歩いた。
相手の無理は止められるのに、自分の無理だけは仕事だと思ってしまう。その点で、二人はよく似ていた。もっとも、そのことを素直に認めるには、二人とも書類の山より手ごわかった。




