第2話 国境で拾った、片づけられない領主
第2話 国境で拾った、片づけられない領主
レイモンド王国を出て五日目の昼、アリスはクラウス帝国との国境を越えた。初夏とはいえ山から吹き下ろす風は冷たく、旅用の濃紺のワンピースの上に、擦り切れた茶色の外套を羽織っている。街道の脇には青紫の野薊が咲き、細い茎を揺らすたび、綿毛が乾いた土の上を転がっていった。
朝に食べたのは、宿でもらった固い黒パンと、小さな林檎一つだけだった。昼になれば国境の町で何か温かい物を食べようと思っていたが、門を抜けた先に並んでいたのは食堂ではなく、十数台もの荷馬車だった。馬の汗、干し草、破れた小麦袋からこぼれた粉が混ざり合い、風が吹くたびに白い埃が舞っている。
「前へ進まないのですか」
アリスが最後尾の御者に尋ねると、赤い鼻の男は手綱を握ったまま肩をすくめた。荷台には玉葱の袋が積まれ、その上に小さな黄色い蝶が止まっている。御者は蝶を追い払う気力もないらしく、腰に下げた水筒を振って残りを確かめた。
「朝からずっと、このままだ。倉庫には荷物が入らない。中の荷物は出てこない。向こうでは小麦が届かないって、配給所の女たちが騒いでいる」
「倉庫が満杯なのですか」
「知らんよ。聞いたところで、みんな辺境伯様へ聞けと言うだけだ。その辺境伯様が、どこにいるのかも分からん」
御者が指した先では、兵士が一人、紙束を抱えて走っていた。途中で一枚落としたが、気づかないまま倉庫へ入っていく。アリスは足元まで飛んできた紙を拾い、泥を払った。
伝票には、小麦二十袋、北部第三配給所行きと書かれていた。受取欄は空白で、右上には赤い印が二つ押されている。片方は至急を示す印らしいが、もう片方の意味は分からない。
アリスは紙を持って倉庫へ向かった。入口には空の木箱と壊れた荷車が置かれ、人一人が横向きにならなければ通れない。中では荷運び人たちが腕を組み、積み上げられた麻袋を眺めていた。
「それを北部へ運べと言われたんだ」
「俺は西の村へ運べと聞いたぞ」
「伝票はどこだ」
「さっき兵士が持っていった。いや、別の兵士だったかもしれん」
男たちは互いの顔を見たあと、同時に倉庫の奥を振り返った。そこには小麦、豆、乾燥肉、毛布、薬草が、届いた順に積まれている。小麦袋の上に鉄製の鍋が置かれ、その隣には片方だけの長靴まで転がっていた。
アリスの指先が、無意識に動いた。小麦と豆を分け、通路を作り、行き先ごとに札を付ければよい。そう考えた瞬間、エドワードに「何でも数えて記録するところが不快だ」と言われた声が、耳の奥によみがえった。
ここは自分の国ではなく、自分の職場でもない。頼まれていないのだから、口を出すべきではない。アリスは拾った伝票だけを兵士へ渡して立ち去ろうとしたが、倉庫の外から女の怒鳴り声が聞こえてきた。
「小麦はまだなのですか。配給所には、朝から子どもが並んでいるんですよ!」
灰色の頭巾をかぶった女性が、空の籠を腕に掛けて立っていた。籠の底には、萎れた葉玉葱が二本だけ入っている。女性の後ろでは、頬にそばかすのある少女が、空腹を紛らわせるように野薊の茎を靴先で押していた。
「倉庫にはあるんだ! だが、どれを運べばいいか確認が取れていない!」
兵士が叫び返したとき、倉庫の反対側から大きな音がした。荷車の車輪が溝にはまり、積んでいた薪が道へ崩れ落ちている。一人の男が泥だらけの外套を脱ぎ、御者と一緒に荷車を押し始めた。
「せーので押す。馬の手綱は引くな。車輪が余計に食い込む」
男は背が高く、黒髪を首の後ろで短く束ねていた。白いシャツの袖を肘までまくり、革靴もズボンの裾も泥にまみれている。外套を地面へ投げたせいで、内ポケットから折れた羽根ペンと干からびた焼き菓子が転がり出た。
荷車が溝から抜けると、三人の兵士が一斉に男のもとへ駆け寄った。それぞれ別の報告書を差し出し、相手の声を押しのけるように話し始める。
「辺境伯様、北部への小麦が止まっています」
「西門の検査台帳に署名をお願いします」
「薬草商が代金を受け取るまで動かないと申しております」
男――辺境伯ルーカスは、額の汗を手の甲で拭いた。報告書を一枚受け取り、途中まで読むと、別の兵士から声をかけられる。読みかけの紙を脇へ挟み、次の紙へ手を伸ばしたところで、最初の一枚が泥の上へ落ちた。
「一人ずつ話せ。まず小麦だ。いや、薬草が先か。病人が待っているなら、そちらを……」
ルーカスは言葉を止め、こめかみを指で押さえた。腰に下げた革袋から乾いた薄荷の葉を取り出し、口へ入れる。昼食代わりなのかもしれないと気づいたアリスは、自分の鞄に残っている黒パンを思い出した。
「失礼いたします」
アリスが声をかけると、兵士たちが一斉に振り返った。旅埃のついた服を着た見知らぬ女が割り込んできたため、ルーカスも訝しげに眉を寄せる。アリスは拾った伝票を差し出し、倉庫を指した。
「北部第三配給所へ送る小麦二十袋の伝票です。道に落ちていました」
「助かった。どこで拾った?」
「倉庫の前です。それから、差し出がましいことを申し上げてもよろしいでしょうか」
「すでに十分差し出がましい顔をしている。言ってくれ」
思いがけない返事に、アリスは一度口を閉じた。ルーカスの顔は疲れていたが、追い払うつもりはないらしい。背後では少女の腹が鳴り、灰色の頭巾の女性が自分の腹ではないという顔で籠を持ち直した。
「荷物が不足しているのではありません。届いた物、運ぶ物、確認する物が同じ場所に置かれているため、動かせなくなっています」
「解決できるのか」
「色の違う布と、床へ線を引ける物を貸してください。あと、倉庫の事情を知る方を三人、私の指示に従わせてください」
ルーカスはアリスの靴から頭まで眺めた。濃紺のワンピースは裾に泥がつき、茶色の外套には宿で落としきれなかった小麦粥の染みが残っている。どう見ても帝国の役人には見えない。
「あなたは何者だ」
「今朝、この国へ入ったばかりの旅行者です」
「ずいぶん頼りない答えだな」
「でしたら、三十分だけお貸しください。役に立たなければ、すぐに出ていきます」
その言葉を口にした途端、アリスは木の櫛が入った鞄を強く握った。ここでも役に立たなければ置いてもらえないと、当たり前のように考えている自分に気づいた。しかし、ルーカスはその言葉を詳しく問いたださず、泥のついた手を差し出した。
「三十分だ。私はルーカス・クラウス。この町と北部一帯を預かっている」
「アリスと申します。では辺境伯様、最初のお願いです。皆様から一度離れて、何もなさらないでください」
周囲が静かになった。ルーカスは断るかと思われたが、自分の手に集まった書類を見下ろし、小さく息を吐いた。やがて報告書をアリスへ渡し、倉庫の壁際へ移動する。
アリスは倉庫の床に、石灰で三本の線を引いた。入口に近い区画は今日運ぶ物、中央は明日以降に運ぶ物、奥は内容の確認が必要な物と決める。赤、青、黄色の端切れを用意してもらい、行き先ごとに袋へ結ばせた。
「北部第三配給所は赤です。西の村は青、診療所は黄色にします。伝票がない荷物は動かさず、こちらへ置いてください」
「この豆はどこだ?」
「伝票を確認します。誰かが覚えているという理由だけでは運びません」
「毛布の上に鍋が載ってるぞ」
「鍋は備品です。食料と分けてください。それから、その長靴の持ち主を探してください」
片方だけの長靴を持ち上げると、荷運び人の一人が黙って手を挙げた。朝から片足だけ靴下で働いていたらしく、穴の開いた踵が見えている。男たちが笑い、張りつめていた倉庫の空気が少し緩んだ。
三十分後、北部行きの小麦が倉庫から運び出された。一時間後には荷馬車の列が半分になり、二時間後には、人が通れる道ができていた。灰色の頭巾の女性は小麦袋を載せた荷車へ乗り、少女と一緒に配給所へ戻っていった。
「お姉ちゃん、ありがとう!」
少女が荷車から身を乗り出し、摘んだ野薊を振った。紫色の花から綿毛が一つ飛び、アリスの外套へつく。アリスはそれを払わず、指先でそっと押さえた。
ルーカスは壁際で、冷え切った焼き菓子を半分に割っていた。片方を口へ入れようとしたが、黒く焦げた裏側を見て顔をしかめる。アリスと目が合うと、何事もなかったように焼き菓子を革袋へ戻した。
「礼をしたい。望みはあるか」
「一晩の宿と、温かい食事をお願いします」
「金や職を要求しないのか」
「まず、スープが飲みたいです。できれば豆ではなく、肉の入ったものを」
ルーカスは初めて口元を緩めた。領主館へ戻れば、鶏肉と根菜の煮込みがあるという。アリスは黒パンを一つ持っていると答え、二人はそれを半分ずつ食べながら町を歩いた。
辺境伯の領主館は、古い石造りの建物だった。門の脇には白い鈴蘭が咲き、洗濯場では使用人がシーツを干している。風に膨らんだ一枚がルーカスの顔へまともにかぶさり、洗濯係の女性が青ざめた。
「申し訳ございません、閣下!」
「よく乾きそうだから、そのまま続けろ」
ルーカスはシーツを避け、何事もなかったように玄関へ進んだ。アリスは笑わないよう唇を結んだが、肩がわずかに動いた。王宮では、国王の手袋が床へ落ちただけで、使用人が一日中叱られていた。
玄関には磨かれた長椅子が置かれ、花瓶には鈴蘭が一輪だけ飾られている。そこまでは整っていたが、廊下を奥へ進むにつれて、棚から紙がはみ出し、椅子の上に帳面が積まれ、燭台の隣に食べかけの干し肉まで置かれていた。干し肉には歯形が残り、端が革のように乾いている。
「こちらが執務室だ」
ルーカスが扉を開けた瞬間、内側に積まれていた書類が崩れた。紙の束が彼の胸へ倒れかかり、さらに机の上から帳面が滑り落ちる。ルーカスは両腕で受け止めようとしたが、半分は廊下へ散らばった。
部屋の奥には大きな机があるらしい。しかし天板は書類と地図に覆われ、椅子には三着の外套が重ねられている。窓辺では茶色く枯れた植木鉢に、小さな白い花が一つだけ残っていた。
「お恥ずかしいところを見せた」
「こちらは、何年分でしょうか」
「父の代からだから、五年分ほどだ。急ぎの物は私が確認している」
ルーカスはそう言いながら、廊下へ落ちた報告書をすべて拾おうとした。一枚ずつ内容を読み始めたため、拾う手がすぐに止まる。アリスは彼の隣へしゃがみ、一番上の書類を裏返した。
「今、すべて読む必要はありません」
「だが、急ぎの報告かもしれない」
「ですから、急ぎかどうかを先に分けます。全部を同時に読もうとするから、どれも最後まで読めないのです」
アリスの胸の奥で、長く使っていなかった歯車がかみ合うような感覚がした。目の前には紙の山があり、その下にはまだ届いていない人の声がある。放置して外へ出ることなど、できそうになかった。
「まず三時間、私に預けていただけますか」
「三時間で、これを片づけるつもりか」
「片づけません。何があるのか分かる状態にします。捨てるかどうかを決めるのは、そのあとです」
ルーカスは執務室とアリスを交互に見た。それから廊下の時計を確認し、長針の位置を指で示す。時刻は午後四時を少し過ぎていた。
「分かった。ただし、三時間後には夕食を取る。あなたも一緒にだ」
「作業が途中でもですか」
「途中でもだ。今夜は鶏肉と蕪の煮込みだそうだ。温かいうちに食べなければ、料理人が鍋を持って追いかけてくる」
アリスは冗談なのか判断できず、近くにいた使用人を見た。使用人は真剣な顔でうなずいている。ルーカスは床の書類をまとめ、今度は中身を読まずにアリスへ差し出した。
「三時間、あなたに任せる。その代わり、食事の時間は私に従ってもらう」
アリスは紙束を受け取った。三時間後に食事をするという条件が、なぜ仕事を任せることと同じ重さで語られるのか分からない。それでも鶏肉と蕪の煮込みを想像すると、朝からほとんど空だった腹が、小さく音を立てた。




