第十五章 払った代償
力は消えた。帰り道も消えた。
そして、店を守るその灯りまで、消えようとしていた。
玄が目を覚ましたのは、店の休憩室だった。
嵐は去っていた。窓の外は噓のように、晴れていた。だが玄の体には嵐の爪痕が深く残っていた。全身が鉛のように重い。胸の奥を探っても、いつも脈打っていた力の核の熱は、もうほとんど感じられなかった。
砕けたのだ。完全に。
彼は自分の手のひらを、見つめた。試しに、指先に、力を込めてみる。何も起きなかった。電灯は弾けなかった。覇王の力はもう、どれだけ念じても引き出せなかった。あの嵐の夜、ひとつの屋根を支えるために、彼はそれを使い果たしたのだ。
もう、帰れない。
あちらの世界へは、二度と。玉座へも故郷へも。彼の唯一の望みだったものが、いま永遠に、手の届かぬものになった。
不思議と、心は凪いでいた。
彼はただの、黒木玄になった。力を持たぬ、ひとりの店員に。だがそれを悲しいとは思わなかった。むしろ、肩の荷が下りたような、奇妙な軽さすら感じていた。帰るべき場所への執着が、彼をずっと縛っていたのかもしれなかった。
だが世界は玄を休ませてはくれなかった。
休憩室の外が騒がしかった。玄は重い体を引きずって、店へ出た。そこには青ざめた顔の、ひかりとミンがいた。
「玄さん……」ひかりの声が震えていた。「店長が」
玄の、心臓が跳ねた。
真壁が倒れたのだ。
嵐の夜、無理をしすぎた。もともと、体を病んでいた。それを押して、避難してきた人々の世話を、最後まで続けた。その無理が限界を超えたのだ。真壁は病院に運ばれ、そのまま入院した。
医者によれば、長年の過労の蓄積だという。すぐに命に関わるものではない。だがこれまでのように店に立ち続けるのは難しいと、告げられた。
玄は病院へ、見舞いに行った。
白い病室のベッドで、真壁はひとまわり小さく見えた。点滴の管がその細い腕につながっている。化粧気のない顔は、いつも以上に、青白かった。それでも玄を見ると、彼女はいつもの顔で笑った。
「あら、お見舞い? 珍しいわね」真壁はかすれた声で言った。「私のことより、店のほうは大丈夫なの」
玄は何も言えなかった。店は大丈夫ではなかった。だがそれを病人に告げることは、できなかった。
「……心配は無用だ」彼は嘘をついた。「店は俺たちが守る」
真壁は玄の顔をじっと見た。長年、人を見てきた目だった。彼女は玄の嘘を見抜いているようだった。だがそれを責めなかった。ただ、その手で玄の手を、そっと握った。
「玄くん。あんた、変わったわね」真壁は言った。「初めて来たときは、目が凍ってた。誰のことも信じてない目。でも今は違う。人を心配する目になった。それだけでもあんたを雇って、よかった」
玄の胸が締めつけられた。
守れなかった。この人すら。彼は自分の無力を噛みしめた。真壁は倒れる最後の瞬間まで、人のために尽くした。その人を玄は守れなかった。病室を出るとき、玄は固く拳を握った。だがその拳にはもう、何の力も宿っていなかった。かつて山を砕いたその拳が、いまはただ、力なく震えるだけだった。
店の、大黒柱が倒れた。
その報せはすぐに聖の耳にも届いた。
彼は待っていたかのように、動いた。倒れた店長。失われた、玄の力。聖の監視カメラは、あの嵐の夜に玄が力を使い果たす瞬間を、捉えていた。聖はすべてを見抜いていた。
「店長が倒れた今、この店を続けるのは、不可能だ」
聖は店にやってきて、冷ややかに告げた。
「店長の治療には、金がかかる。店は人手を失い、もう回らない。買収の話を受けるしかあるまい。それが皆のためだ。あの女の、治療費にもなる」
その言葉は正論だった。残酷なほどに。
聖はそれを施しのような顔で差し出した。店長を救う道。皆を救う道。そう言いながら、その実、彼は玄の守りたいものすべてを奪おうとしていた。優しさの仮面をかぶった、最も冷たい刃だった。だからこそ玄は、それに抗う言葉を持てずにいた。聖の論理は数字の上ではどこまでも正しかったからだ。
真壁の入院は長引きそうだった。治療には金が要る。店はもう、立ち行かない。聖の提示する買収は、その、すべてを解決する。店長は楽になり、治療費も賄える。誰の目にもそれが最も合理的な道だった。
さらに、聖は追い打ちをかけた。
彼はこの店の建つ土地が、災害時の再開発の対象になっていると突き止めていた。嵐で損傷した建物。それを口実に、聖は行政と手を組み、店の土地ごと買い上げる手続きを進め始めた。店は取り壊され、跡地には無人の巨大な物流拠点が建つという。
店じまいの噂は、常連客にも広まった。
佐々木が煮物を買いに来て、それを知ったとき、老人はしばらく言葉を失った。
「この店がなくなる、のかい」佐々木の声は震えていた。「わしは……ここがあったから、なんとか、生きてこられた。毎晩、ここの灯りを見て、まだ世間とつながっていると思えた。ここがなくなったら、わしはどこへ行けばいい」
その言葉が玄の胸に重く突き刺さった。
この店が消えれば、消えるのはただの一軒の店ではない。佐々木のような者にとって、それは世界と自分をつなぐ最後の糸だった。聖はそれを効率の名のもとに断ち切ろうとしている。
すべてが玄の手から、こぼれ落ちていく。
力はもう、ない。店長は倒れた。店は奪われようとしている。守ると決めた、あの灯りが消えようとしていた。彼は何ひとつ、守れていなかった。
ひかりは泣いていた。
「私、この店が好きだったんです」彼女はしゃくり上げた。「店長もお客さんや玄さんも、ミンくんも。ここが第二の、家みたいで。なのに、なくなっちゃうなんて」
ミンもうつむいていた。彼にとってもこの店は異国でただひとつの居場所だった。それが失われようとしている。
玄は二人の姿を見ていた。
胸が引き裂かれるようだった。聖の言葉がまた、よみがえった。お前は何も守れない。その通りだった。彼は力を失ってまで、嵐から人々を守った。だがそれでも肝心のこの灯りそのものを、守れずにいる。
その夜、玄はひとり、暗い店の中に立ち尽くしていた。
力もなく術もなく、ただ無力だった。覇王と呼ばれた男が、いまは消えゆく灯りを前に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
すべてを失おうとしていた。
彼はこれまでの自分を、振り返った。
あちらの世界では、すべてが力で解決した。立ちはだかる者は、砕けばよかった。奪いたいものは、奪えばよかった。だが今、彼の前にある敵は、力ではどうにもならなかった。聖を殴り倒しても、店は戻らない。行政を脅しても、土地は守れない。真壁の病は力では癒せない。
力こそがすべてだと、彼は信じてきた。
その力が消えた今、彼は初めて、本当の意味で無力だった。そして皮肉なことに、その無力の中で、彼はようやく気づき始めていた。本当に必要だったのは、力ではなかったのかもしれない、と。
だがでは何が必要なのか。
その答えはまだ闇の中だった。彼は答えを探す前に、すべてを失おうとしていた。
窓の外、向かいの青い灯りだけが、勝ち誇るように輝いていた。やがて、こちらの温かい灯りは消え、街はあの冷たい青に覆い尽くされるのだろう。
絶望が静かに彼を包んでいった。
その夜、玄は生まれて初めて泣いた。声を殺して、たったひとりきり、暗い店の片隅で。それは力を失った悲しみの涙ではなかった。守りたいものを守れない。守りたいものを守れない、そのどうしようもない無力さに対する、人間としての涙だった。




