第十四章 嵐の夜、灯りを消すな
街じゅうの灯りが、消えた。
ただ一軒、その店の灯りだけが、嵐の闇にともり続けた。
夜になると、台風は本性を現した。
風は唸りを上げて、街を叩いた。雨は横殴りに、窓を打った。看板が軋み、街路樹がしなった。人々は家に閉じこもり、街から人影が消えた。
だが玄の店の灯りは、消えなかった。
こんな夜こそ、店を開ける。それが真壁の信念だった。電池が切れた者。明かりを求める者。家に食べ物のない者。嵐の夜にこそ、行き場をなくした人が、この灯りを頼ってくる。店内には玄とひかりと真壁が、いた。ミンも心配して、残っていた。
夜半、ふいに街全体が、闇に沈んだ。
停電だった。
強風で、どこかの電線が、切れたのだ。街灯も信号も家々の灯りもいっせいに消えた。世界が墨を流したような、闇に包まれた。
だが玄の店は自家発電の装置に切り替わり、灯りを保った。
嵐の闇の中で、その店だけが光の島のようにともっていた。
その灯りを目指して、人々が集まってきた。
暗闇に沈んだ街で、その一点の光は、夜の海の灯台のようだった。家の中でうずくまっていた人々が、窓からその光を見つけ、傘も差さずに駆けてくる。電気の止まった家で怯えていた者たちが、その灯りに希望を見出した。光があるところには、人がいる。人がいるところには、助けがある。停電の闇はそれを痛いほど、人々に教えていた。
濡れそぼった親子。停電で心細くなった老人。スマートフォンの充電が切れ、連絡の取れなくなった若者。皆が嵐の中をこの灯りを頼りにやってきた。店はたちまち、避難所のようになった。真壁は温かい飲み物を、配った。ひかりは子どもをあやした。玄は濡れた人々に、タオルを渡した。
この灯りはただの店ではない。
玄は改めて、それを肌で感じた。これは嵐の夜の、最後の砦だ。人々の命と暮らしを、つなぎとめる灯火だ。聖の言う、間違えない無人の店に、これができるか。倒れた者を見つけ、震える子をあやし、不安な夜をともに過ごす。それは人にしかできないことだった。
店の隅では佐々木が若い母親に、温かい茶を勧めていた。停電で泣き出した赤ん坊を、見知らぬ老婆が、あやしていた。ミンは言葉の通じぬ旅行者に、身振り手振りで道を教えていた。誰もが見知らぬ者同士だった。だがこの灯りの下では、皆がひとつの輪になっていた。
非効率で、不便で、無駄が多い。聖なら、そう言うだろう。だがこの温もりは機械には生み出せない。玄はその光景を見ながら、確信した。守るべきものは、ここにある。たとえ、それが自分を弱くするとしても。
そのときだった。
ひときわ、強い風が吹いた。
めき、と嫌な音が頭上で鳴った。
古い建物の屋根の一部が、暴風に煽られて軋み始めたのだ。鉄骨が悲鳴を上げた。天井の一角がたわみ、いまにも崩れ落ちそうだった。その真下に、避難してきた親子がいた。逃げる間はなかった。
「危ないっ」
玄は考えるより先に、駆け出していた。
彼は親子を突き飛ばすようにかばった。そして、崩れ落ちてくる鉄骨と瓦礫を、その背と両手で受け止めた。
常人なら、潰されていた。
だが玄は胸の核に、ありったけの意識を集中させた。戻りきった、覇王の力。それをいま、解き放つ。守るために。
彼の全身から、目に見えぬ力が、ほとばしった。崩れかけた屋根が、彼の頭上でぴたりと止まった。見えない手が何トンもの重量を、支えていた。玄の足が床に、めり込んだ。腕の筋が千切れそうに、軋んだ。歯を食いしばる。口の端から、血が滴った。
「玄さんっ」ひかりが悲鳴を上げた。
玄の腕が震えた。屋根の重みは想像を絶していた。鉄骨が骨に食い込むように、彼の肩を押し潰そうとする。汗と雨と血が彼の顔を伝った。視界が明滅した。だが彼は退かなかった。退けば、背後の親子が潰される。
その瞬間、玄の脳裏に、ひとつの問いがよぎった。聖の言葉だ。お前は何も守れない。
違う、と玄は奥歯を噛んだ。
今、俺は守っている。この腕で。この力で。生まれて初めて、誰かを守れている。たとえ一度きりでも。たとえ、命と引き換えでも。それは玉座を取り戻すことより、ずっと価値のあることに思えた。
「来るな」玄は絞り出した。「皆を外へ。早く」
真壁とひかりが、人々を店の外の安全な場所へ、誘導した。最後の一人が出ていくのを、玄は屋根を支えたまま、見届けた。
全員、無事だ。
その安堵が胸に広がった、そのとき。
胸の奥で、何かがひび割れる音がした。
力の核が限界を超えていた。あまりに大きな力を、一度に解き放ちすぎたのだ。まだ、この体に、馴染みきっていない力を。核に、亀裂が走った。激痛が全身を貫いた。視界が真っ白に、染まった。
それでも玄は屋根を支え続けた。
最後の人影が扉の外へ、消えるまで。
そして彼自身も、力を振り絞って瓦礫の下から、転がり出た。次の瞬間、支えを失った屋根が、轟音とともに崩れ落ちた。玄がほんの一秒前まで、立っていた場所に。
玄は雨の中に、倒れ込んだ。
胸が焼けるように、痛かった。いつも脈打っていた力の核の熱が、急速に失われていくのがわかった。砕けた核から、力が雨に溶けるように流れ出していく。
帰るための、力が。
玄は朦朧とする意識の中で、それをぼんやりと悟った。これで、もう、帰れない。あちらの世界へは、二度と。覇王の力はいま、ひと組の親子を守るために、使い果たされた。
不思議と、後悔はなかった。
帰りたかった。あちらの世界へ。玉座へ。それはずっと、彼の唯一の望みだった。だがその望みと引き換えに、彼はひと組の親子を守った。店を守った。皆の、命を守った。
天秤に、かけるまでもなかった。
かつての彼なら、迷わず、自分の帰還を選んだだろう。だがいまの彼は違った。あの灯りの下の、温もりの輪。あれを守れるなら、玉座など惜しくはなかった。覇王ヴェルグは、戦場の玉座をついに自らの意志で手放したのだ。
そのとき、雨の向こうに青い光が、見えた気がした。
オムニグリッドの、監視の目。聖の張り巡らせた、無数のカメラ。その一つがいま、力を使い果たした玄の姿を、確かに捉えていた。
雨に倒れた玄に、ひかりが駆け寄った。
「玄さんっ、玄さんっ」
彼女は彼の体を抱き起こした。びしょ濡れの体は、氷のように冷たかった。玄の唇から、血がにじんでいた。だが彼は薄く笑った。
「……皆は無事か」
「無事ですっ。みんな、無事ですっ」ひかりが泣きながら頷いた。「だから、しっかりして。お願いだから」
駆けつけた真壁が、玄の頭をそっと膝に抱えた。降りしきる雨の中、彼女は自分の上着を脱いで、玄にかけた。
「馬鹿な人ね」真壁の声も震えていた。「自分のことより、人を守るなんて。でも……ありがとう。あんたは立派な、うちの店の人間よ」
その言葉を玄が聞いていたかどうかは、わからない。だが彼の閉じた瞼の端から、雨ではない温かいものがひとすじこぼれ落ちた。生まれて初めて流す、安堵の涙だった。その涙が何を意味するのか、彼自身にもまだわからなかった。
玄はその涙をぼんやりと見上げた。誰かが自分のために泣いている。かつて、彼の死を悲しむ者など、ひとりもいなかった。なのにいま、この娘は彼のために、こんなにも泣いている。
それだけで、十分だった。
彼はこれ以上ないほど満たされた気持ちで、静かに目を閉じた。意識が遠のいていく。最後に見えたのは、崩れた屋根の向こうの、自分たちの店の灯りだった。嵐の闇の中で、その灯りはまだ、消えずにいた。
守れた。今度こそ、確かに、この手で守りきれたのだ。
その思いを胸に、玄の意識は闇へと沈んでいった。




