第十三章 お前は何も守れない
「お前は生まれてから一度も、何も守れなかった」
その言葉は刃より深く、覇王の古傷をえぐった。
数日後、聖は玄をひとりで呼び出した。
場所は川沿いの、人気のない遊歩道だった。夜風が川面を渡り、二人の間を冷たく吹き抜けていく。遠い空の端に、分厚い雲が重く垂れこめていた。天気が崩れる兆しだった。
「真壁という女は、まだ迷っているようだな」聖は川を見ながら言った。「だがもう、時間の問題だ。あの女は疲れている。じきに、私の手を取る」
「店長は売らん」玄は低く返した。
「ほう。お前が止めるのか」聖は振り返った。「どうやって。力で、私を消すか。だがそれではあの店は守れんぞ。買収を仕掛けているのは、私だけではない。私を消したところで、効率という流れは、止まらない」
玄は唇を噛んだ。聖の言う通りだった。これはひとりの敵を倒せば終わる、単純な戦ではなかった。
「いいことを教えてやろう」聖は玄に、近づいた。「お前がなぜ、あの女を守りたいのか。なぜ、あの娘や留学生や、老人に執着するのか。私にはわかる。お前は寂しいのだ」
玄の肩がわずかに強張った。
「お前は生まれてから一度も、誰にも必要とされなかった」聖の声は静かだった。それゆえに、残酷だった。「だから、あの店で必要とされている気になって、舞い上がっている。哀れなものだ。だが考えてみろ。お前がそばにいることで、彼らは危険にさらされている。私に、狙われている。お前があの店にいなければ、彼らはもっと、安全だったかもしれん」
「黙れ」
「お前は守っているつもりで、滅ぼしているのだよ、ヴェルグ」聖はとどめを刺すように、言った。「思い出せ。お前がこれまでに、何かを守れたことがあったか。お前の手は壊すための手だ。お前が触れたものは、すべて、壊れていった。あの世界の城も、軍も民も。お前は生まれてから今日まで、ただの一度も何も守れなかった」
その言葉が玄の最も深い古傷をえぐった。
彼は生まれたときから、武器だった。
あちらの世界で、彼は戦のために造られたと言われていた。誰が造ったのか、彼自身、知らない。物心ついたときには、すでに、剣を握らされていた。泣けば、叱られた。笑えば、奇異の目で見られた。お前は感情を持つな。お前はただ、強くあれ。そう育てられた。だから彼は感情を胸の奥に、固く封じた。封じなければ、生きていけなかった。
守るという行為は、誰かを大切に思う心から生まれる。だが大切に思う心を、彼はずっと封じてきた。封じた者に、守れるはずがない。聖の言葉はその急所を正確に突いていた。
俺は武器だ。
武器は壊すためにある。守るためではない。
その声が頭の中で、何度も聖の声と重なって響いた。捨ててしまえ。最強の道具に戻れ。その囁きは甘く、そして恐ろしく楽だった。
守れなかった。確かに、その通りだった。彼は何ひとつ、守ったことがなかった。奪い、壊し、従えてきただけだ。守るという行為は、彼の人生に、存在しなかった。ガレスすら、彼はつなぎとめられなかった。最も近くにいた男にすら必要とされず、最後にはその剣で貫かれた。
俺に、守れるのか。
その疑念がいったん芽生えると、玄の心を急速に蝕んでいった。
聖は満足げに、笑った。
「私とお前は同じ場所から来た」聖は最後に言った。「誰にも愛されず、ただ役目のためだけに造られた。私は勇者として、お前は魔王として。憐れな二つの道具だ。道具に、家族など似合わん。温もりなど、お前を惑わせるだけだ。捨ててしまえ。そうすれば、お前はまた、最強の道具に戻れる」
「考えておくことだ」そう言い残し、聖は去っていった。
玄はひとり、暗い川面を見つめ続けた。
店に戻っても玄の様子はおかしかった。
ひかりがいつものように明るく話しかけても、玄はそっけなく応じるだけだった。ミンが賄いを分け合おうとしても、彼は首を振った。真壁が心配そうに見ても、目を合わせなかった。
彼は皆から、距離を取り始めた。
聖の言葉が頭から、離れなかった。俺がそばにいることで、皆が危険にさらされている。俺は守っているつもりで、滅ぼしているのかもしれない。ならば、離れるべきだ。彼らを巻き込む前に。
それは優しさのようでいて、その実、逃げだった。
守れないかもしれない、という恐怖。失うかもしれない、という恐怖。その恐怖から、玄は目をそらそうとしていた。誰も愛さず、何も守らなければ、何も失わずに済む。かつての空っぽの強さへと、彼は後ずさりしようとしていた。
翌日からの玄は、まるで、別人のようだった。
彼は必要以上に、口をきかなくなった。レジに立っても、機械のように淡々と、客をさばいた。かつて佐々木の煮物を丁寧に袋へ入れていた手は、いまはただ事務的に動くだけだった。佐々木が話しかけても、玄は短く頷くだけで、目を合わせなかった。老人は寂しそうに、首をかしげて帰っていった。
ミンが心配して、彼の背中に声をかけた。
「ゲンさん、ゲンキ、ナイ。ダイジョウブ?」
「……問題ない」
玄は振り向きもしなかった。ミンの、傷ついたような沈黙が、背中に刺さった。だが彼はあえてそれを無視した。近づけば、巻き込む。離れていれば、誰も傷つかない。そう、自分に言い聞かせ続けた。
だがその理屈の裏で、彼は本当はただ恐れていた。失うことを。もう一度、誰かに必要とされなくなることを。先に離れてしまえば、失う痛みを味わわずに済む。それは臆病者の、自己防衛だった。覇王と呼ばれた男の、最も醜い、弱さだった。
「玄さん」その夜、ひかりが思いきったように、声をかけた。「最近、変ですよ。何か、あったんですか」
「……何もない」玄は目をそらした。「お前には関係のないことだ」
ひかりの顔が傷ついたように、こわばった。玄はその顔を見て、胸が痛んだ。だが彼はあえて冷たく、背を向けた。これでいい、と自分に言い聞かせた。距離を取れば、彼女を巻き込まずに済む。
だが本当に、これでいいのか。
その問いに答えが出ないまま、夜は更けていった。
外では風が強くなり始めていた。窓硝子がかたかたと、鳴った。雲はいっそう厚く、空を覆っていた。
翌朝、街に、大型の台風が接近しているという警報が出された。
数十年に一度の大きな嵐が、この街をまっすぐに目指していた。
店には台風への備えで、慌ただしい空気が流れた。真壁は水や保存のきく食料を、多めに発注した。停電に備えて、懐中電灯や電池の在庫も、確かめた。嵐の夜こそ、こういう店が頼りにされる。それを彼女は長年の経験で知っていた。
「玄くん」真壁がてきぱきと指示を出しながら、言った。「嵐の日は人手がいる。あんた、入れる?」
玄は一瞬、迷った。
離れるなら、今だ。嵐を口実に、シフトを抜け、距離を取る。そうすれば、皆を巻き込まずに済む。だが嵐の夜に、ひかりや真壁をふたりだけにする。それもまた、彼にはできなかった。守れないかもしれない。だが見捨てることも、できない。彼の心は二つの恐れの間で、引き裂かれていた。
「……入る」玄はようやく、そう答えた。
真壁は頷いた。その目には玄の異変を案じる色が、まだ宿っていた。
窓の外で、風は刻一刻と、強さを増していた。空は昼でも暗く、不穏な灰色に染まっていた。何か大きなものが、近づいてくる。それはただの嵐ではないのかもしれなかった。
遠く、向かいの青い灯りが、嵐の前の暗がりの中でいっそう冷たく輝いて見えた。聖はこの嵐を待っているのではないか。玄の胸に、嫌な予感がよぎった。守れないかという古い恐れと、それでも守りたいという新しい願いが、激しくせめぎ合っていた。




