第十六章 闇夜をさまよう魂
あなたは誰かに必要とされたことが、ありますか。
死にゆく男の問いに、覇王はようやく、答えを見つけた。
玄は夜の街をあてもなく歩いた。
力を失い、店も店長も失いかけた男が、行く当てもなく足を動かしていた。月のない夜だった。街の灯りはまばらで、彼の影を頼りなく地に落とした。
歩きながら、彼はずっと考えていた。
俺は何者なのか。覇王ヴェルグ。世界を恐怖で従えた、最強の王。だがその力はもうない。では力のない俺はただの空っぽの抜け殻なのか。
いや、と彼は思った。
力を失ってからのほうが、彼は多くのものを得ていた。ひかりの笑顔。ミンの信頼。真壁の言葉。佐々木の、煮物への、ささやかな喜び。それらは力では決して手に入らなかったものだ。むしろ、力を手放したからこそ、彼の手にこぼれ落ちてきたものだった。
彼は川沿いのベンチに腰を下ろした。
暗い川面を見つめる。ふと、あの男の最後の問いがよみがえった。死にゆくガレスが、玄に投げかけた、あの問い。
あなたは生まれてから今日まで、ただの一度でも、誰かに本当に必要とされたことがありましたか。
あのとき、玄は答えられなかった。その沈黙が答えだった。
彼は暗い水面に、自分の過去を映してみた。
生まれたときから、彼は恐れられていた。母の温もりも友の笑いも知らなかった。彼に向けられたのは、いつも恐怖と、服従だけ。人々は彼を避けた。近づく者は皆、何かを奪おうとする者か、命じられて仕方なくそばにいる者だった。誰一人、彼を彼自身として見なかった。
だから、彼は心を閉ざした。
必要としなければ、失わない。愛さなければ、傷つかない。求めなければ、裏切られない。そう信じて、彼は誰のことも、心の内に入れなかった。それは身を守るための、鎧だった。だがその鎧は同時に、彼を世界から切り離す檻でもあった。
彼は強かった。そして、誰よりも孤独だった。
ガレスが彼を裏切ったのも、当然だった。十五年そばにいて、一度も人として見られなかった男。その絶望が刃となって、玄を貫いた。玄は自分がその絶望を生み出したのだと、今ならわかった。彼は誰にも必要とされていなかった。世界を従えながら、ただの一人にも本当には求められていなかった。だからこそ、最も近くにいた男にすら、裏切られたのだ。
だが今なら。
玄は目を閉じた。
今の俺はどうだ。ひかりは玄さん助けてと、泣いてくれた。ミンはゲンさん優しいと、笑ってくれた。真壁はあんたを雇ってよかったと、言ってくれた。佐々木は玄が見つけたから生きられたと、感謝してくれた。
俺は必要とされている。
その事実が胸の奥の凍った場所を、ゆっくりと溶かしていった。
ガレスの問いに、玄はようやく、答えを見つけた。生まれてからずっと誰にも必要とされなかった俺が、この世界で初めて、誰かに必要とされている。それは玉座を得たどんなときより、ずっと深く彼を満たしていた。
そして、彼は悟った。
本当の強さとは、何だったのか。
それは人を力で従えることではなかった。誰よりも高い場所から、見下ろすことでも、なかった。本当の強さとは、誰かに必要とされること。対等な誰かをその手で、守ること。それだったのだ。
真壁はそれをずっと体現していた。
彼女は命じる前に、自ら動いた。いちばん前で、いちばん汚れた。だからこそ、皆が彼女を慕い、彼女のために働いた。彼女の強さは力ではなかった。人に必要とされ、人を守る。その、温かい強さだった。
ひかりもそうだった。
彼女は特別な力など、持っていない。ただの、二十歳の娘だ。だが彼女の笑顔は強盗に怯えた夜でさえ玄の心を温めた。彼女は玄を化け物ではなく、不器用な新人として受け入れた。その何気ない優しさが、玄の凍った心を、いちばん最初に溶かしたのだった。
力ではない。地位でもない。人を思うその心こそが、人を本当に動かす。
玄は長いあいだ、それを理解できなかった。だがこの店で、彼はそれを肌で学んだ。真壁から。ひかりから。ミンから。佐々木から。彼らは誰一人、力を持たない。だが誰よりも強かった。互いを必要とし、互いを支え合うことで。
俺もそうなりたい。
玄は立ち上がった。
胸の中の、長年の凍りついた問いが、溶けて流れ去っていくのを感じた。彼はもう、空っぽの抜け殻ではなかった。力はない。だが守りたいものが、ある。守りたいと、願う心がある。それこそが彼の、新しい力だった。
だがと彼は足を止めた。
守りたいと願うだけでは、店は守れない。聖の侵略を止めるには何が必要なのか。
力ではない。彼一人の力ではどうにもならないことを、もう思い知った。ならば。
その答えはすぐそばにあった。
仲間だ。
ひかり。ミン。真壁。佐々木。沢渡。常連の客たち。この店を必要としている、すべての人々。彼らの力をひとつに、束ねるのだ。一人では無力でも、皆が力を合わせれば。聖が振りかざすのは、効率という巨大な仕組みだ。ならば、こちらが束ねるのは、仕組みが切り捨ててきた人と人とのつながりだ。機械には決して真似できない、温かな網の目。それを武器に、戦う。覇王が一人で振るう剣ではない。皆が互いのために差し出し合う、無数の手。それこそが聖の冷たい効率を打ち破る、唯一の力になりうると思えた。
だがそのためには。
玄は奥歯を噛んだ。最も難しい一歩が必要だった。彼が生まれてから一度も、したことのないこと。
頭を下げて、人に、頼むこと。
助けてくれ。力を貸してくれ。この店をともに守ってくれ。たったそれだけの言葉が、覇王には世界で最も重い言葉だった。あちらの世界で、彼は一度もそれを口にしなかった。頼むくらいなら、奪うほうがずっと楽だったからだ。
だが奪う力はもうない。
残されたのは頼むという道だけ。そして玄は初めて気づいた。頼むことは弱さではなかった。それは相手を対等の仲間として信じることだ。お前の力が必要だと、認めることだ。それは誰かを見下してきた者には、決してできなかったことだ。
俺は皆を見下していた。だから、頼めなかった。
だが今の俺は違う。ひかりやミンや真壁や佐々木を、対等の大切な存在として見ている。だから、頼める。胸を張って、頭を下げられる。
覇王の誇りがそれをずっと拒んできた。頼むことは弱さをさらすことだ。だがもう誇りにしがみついている場合では、なかった。守りたいものがあるなら、頭を下げることなど、なんでもない。
玄は夜明け前の空を、見上げた。
東の空がわずかに、白み始めていた。長い、闇夜が明けようとしていた。彼の中の、長い闇もまた。
歩きながら、玄は心の中で、もう一度ガレスに語りかけた。
ガレス。お前の問いに、俺はようやく答えられる。俺は誰かに必要とされたことが、あるのか。ある。今はある。そして俺も誰かを必要としている。お前を人として見られなかった俺は、もういない。遅すぎたかもしれん。だが俺は変わった。お前が命と引き換えに投げかけてくれた、あの問いのおかげで。
胸の奥のあの凍った場所は、もう凍ってはいなかった。そこには温かな血が確かに通っていた。
彼は店へ向かって、歩き出した。今度はもうあてのない足取りではなかった。為すべきことを見つけた者の、確かな足取りだった。
空が明るくなっていく。新しい一日が始まろうとしていた。そして、覇王ヴェルグではなく黒木玄としての本当の戦いが、ここから始まろうとしていた。力ではなく、人の心を束ねる戦いが。




