第九話 嵐の前の心地よさ
「それでは出発いたします。到着まで一時間ほどかかりますので、その間はごゆっくりお寛ぎください」
若い女に連れられ、ドキドキしながら箱馬車の中に乗り込んだ。
革張りの座席に向かい合って座る。
前方には女、後方には俺、そして御者が馬を歩かせる。
「パカパカパカ」という蹄の音が周辺に鳴り響き、余韻を残して消えていく。
(この女は誰なんだ……? 正田の知り合いなんだろうけど、どういう関係なんだろう)
次から次へと疑念が浮かび、解消されないまま、時間だけが過ぎてゆく。
どこに向かっているのかも皆目見当つかない。
質問したいことが山ほどあるけど、聞いてもいいのかな。
この人、微笑みながら丁寧に話すんだけど、目だけは冷たくて怖い。
まあでも……少しくらいなら質問に答えてくれるかも。
「あの……」
「はい。何でしょうか」
「今……どこに向かってるんですか?」
俺は伏目がちに弱々しく尋ねると、若い女は瞬きもせず、涼しい顔でこう答えた。
「霞が関です」
「霞が関……」
『霞が関』という言葉を初めて聞いた。
どこなのか何があるのか知らないが、とりあえず頷いた。
「それから俺何も持ってきてないんですけど、大丈夫ですか?」
「はい。全て用意がございます」
「えっと……あと…俺はこれから何をするんですか?」
「それは後ほど分かることです。詳しくは担当の者から聞いてください」
「はい……」
何というか、言葉に優しさがない。
正田のように無駄を嫌う性格なのか?
どうしよう、俺、こんな人がわんさかいたらやっていける自信ないぞ。
思い切って家を出たはいいけど、やっぱり来ない方がよかったか?
もういっそのこと米穀屋の夫婦に頼み込んで、拾ってもらった方が幸せだったのかも。
って、夫婦からしたらいい迷惑だけどな……。
不安が徐々に募る中、箱馬車の窓から景色をぼんやり眺めた。
憧れの地――東京は、俺が住んでいた村と違い、夜なのに随分と賑やかだった。
整備された道沿いに置かれたガス灯が光り、その明りの下を楽しそうに歩く人々の様子が瞳に映る。
なんというか凄く鮮やかで、ここが日本だとは思えなかった。
遠くには見たこともないくらい高い西洋風の建物もあり、入ってみたくもなった。
(東京ってすごい……!)
窓から外を眺めている時間だけは現実を忘れられた。
俺が人生で目にしたことがない物で溢れかえるこの場所に興奮を抑えられなかったんだ。
しかしそれも長くは続かないことを知る。
「そろそろ到着いたしますので、降りる準備をしてお待ちください」
若い女が落ち着き払った声を出した。
景色に気を取られていた俺はすぐに居住まいを正し、こぶしをぎゅっと握った。
◇◇◇
霞が関にあるらしい目的地は坂道の多い場所だった。
そして、周囲から隔てられるように大きな塀が連なっていた。
明らかに平民とは異なる、格式高い人々が住んでいそうな家屋ばかりで、俺は肩身が狭かった。
こんな立派なところに、自分なんかの居場所はない気がしてならないんだ。
先を進む最中、道沿いに並ぶ石塀から煙の焦げたような匂いが漂い始めた。
鼻をつまみたい気持ちを必死で抑えていたところ、箱馬車が門構えの前で立ち止まった。
門の左右には暗闇でも目立つ、白い羽織物を着た若い男が二人、険しい顔で佇んでいる。
門には『内務省・重要書類保管庫』という文字が書かれているが、漢字なんて読めない俺は首を傾けた。
(なんて読むんだ?)
唯一分かることと言えば、平民は立ち入れない場所ということだけだ。
「到着いたしました。それではお降りください」
若い女の次に俺も降り、びくびくしながら男たちの間を通り抜け、門を越えた。
『内務省・重要書類保管庫』と書かれた平屋を横切ると、裏側には古寺があった。
その中に入り、藁草履を脱いでから廊下を渡る。
見えてきた引き戸を開けると、小さな畳の間に繋がった。
若い女が「こちらがあなたのお部屋です。ご自由にお使いください」と促した。
さらに続けて、
「座布団は押入れの中に、着替えは畳の上に置いてあります。厠と内風呂は廊下を奥に進んだ先にあります。食事はこちらに三食分お持ちいたします。今晩の夕食もすぐにお持ちいたしますので、少々お待ちください。以上になりますが、他に疑問点等はございますか?」
と淡々と説明した。
俺は「あ…ないです」と首を横に振った。
「明朝、七時に担当の者がこちらに来て、今後の流れをお話いただきます。その際は、どうぞよろしくお願いいたします」
「はい……分かりました」
「それでは失礼いたします」
若い女はお辞儀をした後に襖を丁寧に閉め、そそくさと離れていった。
俺は畳の上で胡坐をかき、息を吐く。
(疲れたな……)
移動中は座っていただけなのに、体が鉛のように重い。
嘆息しながら、女が言っていたことを反芻した。
(三食の飯が食えて、湯船にも浸かれる)
飯なんてほとんど一食か二食だったし、風呂なんてもう何年も浸かってない。
体洗うのもここ数日なかったから全身が匂ってしかたなかった。
だからこんなに嬉しいことはないと思えた。
それにボロボロの着物と取り換えられるのも有難い。
俺は早速、着古した着物を脱ぎ、新しい衣服に袖を通した。
(はあ。最高の気分だ)
こんな生活が一生続けばいいのに、なんて思うが、そんなうまい話はないよな。
これから一体何をさせられるんだろう。
正田曰く「社会をよくするための活動」らしいが、さっぱり分からん。
まあ考えたところで俺の弱い頭じゃあ予想することなんて無理だろう。
どうせ明日には判明することだし、今日はもうゆっくりするのが賢明だ。
静寂の時間。誰にも神経を研ぎ澄ませる必要のない空間。
こんなに緊張せず、のんびりできるのはいつぶりだろう……。
畳の上に仰向けで大の字になり、深く息を吸い、吐いた。
自分だけの心地よい時間を堪能する。
「今日くらいは、穏やかに眠れますように」
そう願いながら、ゆっくりと目を瞑る。
穏やかな呼吸音に耳を傾けていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
箱馬車に揺られ、東京の街並みを始めて見た音在暗之助は興奮しっぱなし!
ですがそれも束の間で、すぐ現実に戻されてしまいました。彼らが到着したのは……内務省・重要書類保管庫!?
どれほど大きな組織か判断できない音在は、その場所で安らぎのひと時を過ごします。
さて明日の朝、謎に包まれた組織の正体が明かされるのです。一体何が待っているでしょうか。
第九話もよろしくお願いいたします!




