第八話 孤独な着岸
「ガラガラガラ」
震える指で家屋の引き戸を慎重に開けた。
両腕の中には売れ残った大量の野菜が収まり、歩くたびに右に左によろついた。
心臓はバクバクとうるさくて、心音が耳に強く反響する。
(これだけ余ったんじゃ言い訳もできない……)
床座にはすでに夕飯を食べ終わった両親がいる。
母さんの料理を手伝うことができなかった上、俺としたことが夕飯の時間にも間に合わなかった。
これは一番やってはならない行為だ。
馬鹿だ、俺は……大馬鹿者だ。
「父さん、母さん! 本当にごめんなさい!」
二人の顔を見ることが心底怖くて、絶対に目を合わせられなかった。
俺は抱えていた野菜を投げ捨ててから頭を土間の床につけた。
「もう二度とこんなことはしません。これからは時間通りに全ての野菜を売り、そして時間通りに帰り、母さんの料理を手伝います。だからどうか許してください」
「……」
「……」
父さんと母さんは黙ったままだ。
視界が涙でぼやけ、それがぽたぽたと床に落ちる。
次第に涙の水たまりができ始めていた。
「ごめんなさい」と何度謝っても、二人は一言も発さない。
とうとう俺は腹を決めて、ゆっくりと頭を上げる。
「――え!?」
信じられなかった。
床座にいるはずの両親――いや、もはや人間ではない化け物が二匹、凄まじい形相で俺を睨み付けている。
今にも襲いかかり、骨の髄まで食われそうな佇まいだった。
それに彼らの周りには、黒い煙が舞っている。
「あっ……どっ……!」
声にならない声を上げ、四つん這いの状態で家から出ようとした。
しかし両親の周りを舞う煙が徐々に俺をも覆い、息ができない。
「ゲホッ、ゴホッ!」
い、息が吸えない、苦しいよ……。
誰か……助け、て……。
――おい、お……きろ。
(――ん? 誰だ……?)
――おい、……ぶか?
(――誰かが俺を呼んでる……?)
「おい起きろって! 着いたぞ!」
(――こ、ここは……?)
「何寝ぼけてんだよ、東京だ! もう着いたんだから早く起きてくれ」
――東京……あ!
そうだ。
俺は一昨日家を飛び出し、正田の指示のもと、東京に行くための舟に乗り込んだんだ。
舟が動く間はやることがなさすぎてずっと寝てた。
ここ数年、時間を持て余したことなんてなかったから違和感だらけだった。
「お前……涙を拭けよ。寝ている間ずっと悪夢にうなされているようだったが……大丈夫か?」
ガタイのよい男からの思いも寄らない一言に俺は目を見張った。
実際に頬に触れると本当に涙を流していたんだ。
汚れた着物の袖で目元を幾度か擦り、水滴がついた袖を見つめると、驚くことに腕が小刻みに震えている。
(なぜだか震えが止まらない)
涙なんかも流して……。
でも俺……おっさんが言うように怖い夢を見ていたような気がするんだ。
黒いモノが体を覆い、飲み込まれそうになった。
あれは一体何だったんだろう。
「さて……お前も落ち着いたようだし、そろそろ降りてくれるか?」
「はい。すみません」
俺は小舟から身を出した。
ぬかるんだ草っ原の上に立ち対岸を眺めるが、真っ暗で何も見えない。
「ここが……東京か」
ポツリと独り言ちた。
憧れの地にいるという実感はまだ湧きそうにないが……。
小舟に乗るガタイのよい男が俺を見上げながら「もう行くからな」と言った。
最後に、
「坊主……負けんなよ」
と、言葉に力を込めた。
俺は社会の荒波に飲まれるなよ、などという意味に解釈し、感謝の意を伝え深く頭を下げた。
ついに男は腕を引き、櫂を動かした。
彼の後ろ姿をじっと眺め、「どうかお気をつけて」と心で航路の安全を願った。
周りを見渡し、人影がないかを確かめる。
だがいくら待っても――といっても数十秒くらいだが――人一人来る気配はない。
(誰もいないじゃないか! あの金持ち……まさか嘘ついたなんてことはないよな?)
「――お前はこのまま川を下り、東京まで行く。目的地に着いたらお前を待つ者とともにその場所へ行け」
一昨日の晩、正田は確かにこう言ってたんだ。
嘘なんかじゃない。
そもそもあいつがホラを吹くようにも思えないし。
だから逆に俺がその者をここで待つ。きっと来てくれるはずだから……。
木の幹に背を預け、目を閉じた。
すると、遠くの方から馬車の音が聞こえてきた。
次第に馬の足音が大きくなり、俺は上半身を捻ってそちらに視線を向けた。
三十三尺ほど先で箱馬車のようなものがゆっくりと止まり、その中から若い女が一人、手に明りを持ちながら降りてきた。
雨で湿った草上を歩き、俺の側で立ち止まる。
「あなたが音在暗之助様ですか?」
女の冷徹そうな目がきらりと光り、俺は唾をゴクリと飲んだ。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
音在暗之助が悪夢を見るところから八話が始まります。親の皮を被った化け物とその周りを覆う黒い煙。
なぜ彼はあんな夢を見てしまったのでしょうか。
小舟を漕いだガタイのよい男と別れ、正田朔久から指示された通り、ある者を待っていました。すると箱馬車から女性が降りてきて……。
第九話もよろしくお願いいたします!




