第三十八話 一筋の雫
物部による観察眼指南の後は、地下稽古場の掃除を行った。
俺は昨日以上に疲労した体で雑巾がけをし、地下全面を拭き終えた頃には気力が無に等しかった。
「音在くーん……大丈夫う?」
感応の間延びした声が背後から聞こえる。
あいつも相当疲れてるだろうに、気を遣わせてしまって申し訳ない。
一応「お、おう」と返事をしてから食堂に行き、飯を食った。
箸を持つ手が震えて米がぽろぽろと落ちるので、なかなか口まで運ぶことができなかった。
そのため、通常の二倍、いや三倍の時間をかけて完食し、その場を離れた。
◇◇◇
風呂に入り、あとは寝るだけとなった。
男寮に行こうかと思ったが、同じ時間帯に風呂にいた東が休息室に向かう姿を目撃し、ついていくことに決めた。
「あいつの影、匂い、そして鏡の中の姿を確かめる」
観察眼指南で学んだことをあいつで実行したかった。
飯を食ったことで気力はわずかにも戻ってきたから、なんとか試せそうだ。
俺は壁伝いに通路を渡り、引き戸から中に入る。
(でけえ部屋だ)
休息室は寮のように横幅があり、まるで和洋折衷が織り交ざったような空間だった。
右奥の一角には障子に囲まれた畳の間があり、残りは板張りの床で、中央には巨大な観葉植物が置かれている。
その植物を囲むように背もたれ付きの、ひらがなの『し』のような形の長椅子が四つ配置されていた。
「すげえや……」
俺は唖然とした。
こんな場所がすぐ近くにあったとは夢にも思わなかったから。
興奮冷めやらぬ中、壁に寄りかかりながら東を探すが、見た限りあいつの姿はない。
ということは……。
「畳の間にいんのかな」
障子に遮られた目先の一角に意識を向けながら、入ろうか入るまいか迷っていた。
(学んだことを実践したいけど……)
そういえば俺、入門式当日に「知らない人です」呼ばわりされてから、あいつとはろくな会話をしてない。
話せる機会を伺ってはいたけど、なんとなく話しかけずらかったし、あまり東に近付くと耳鳴りが煩わしくて嫌だったのもあった。
「どうしよう」
なんか気まずいな。
どんな声かけをしたらいいかも思い当たらない。
「まあでも……ちょっと覗くだけだから」
思い切ってそう決意してみたら、心臓の鼓動が突如、早くなった。
緊張から唾をゴクンと飲み込む。
「よしいこう」
徐々に畳へと近付いていく。
彰子で見えないけど、きっと東がいる。
俺は畳の間の側まで来ると、わななく腕を伸ばして障子に触れた。
(東、入るぞ)
障子をそおっと右に動かす。
中には――やっぱり東がいた。
背を丸めた彼が腰を捻り、こちらを向く。
束の間、彼の手に収まる何かが光ったかと思うと、即座にそれを隠した。
双方の視線が合わさった時。
東の瞳から、一滴の雫が左頬を流れ落ちた。
――え、なんで……?
俺は目をしばたたせる。
「お前、泣いてるのか?」
◇◇◇
頬と耳を赤らめた男を前に、俺は呆然と口を開く。
「ど、どうしたんだよ?」
憂いを含んだ声で尋ねた。
「別に何もないですよ」
と、東が強がりながら片手で涙を拭った。
「え、でも泣いてる」
「これは……欠伸が出ただけです」
「でもほっぺも耳も赤いし」
「熱いだけです」
「……」
(絶対嘘だろ)
この赤茶髪は何としてもはぐらかそうとするが、俺は騙されないぞ。
どっからどう見ても泣いてるじゃねえか。
「そもそも何の用ですか?」
急に東が話を切り返してきた。胸に収まる何かをぎゅっと握っている。
「いや……ここで休もうかと思って」
咄嗟に嘘をついた。
正直に「お前を追ってここまで来た」とは当然言えないからな。
「僕が使ってるので出て行ってください。一応忠告しておきますが、障子で仕切られている時は誰かが使用している時なので、むやみに空けない方がいいですよ」
東がじっと目を据えながら、つらつらと『畳の間事情』を説明していった。
泣いていたのが嘘かのように冷静な様子を見せている。
「あ、ごめん。もう出てくよ」
「そうしてもらえると助かります」
それ以上何も言えない俺は素直に彼の意見を聞き入れ、掴んでいた障子を動かして閉じた。
結局、涙の件はうやむやにされてしまい、気分の晴れない状態で来た道を戻っていく。
(あいつ、瞳が潤んでた涙なんか流して……)
辛いなら、初めから悪退の眼に来なければいい話だろ。
悲しいことがあるなら、誰かに相談すればいいじゃねえか。
一人で溜め込みやがって。
「はあ……」
と、深く息を吐いた。
――あれ、そういえば、東の音が耳に届いてこなかったな。
彼との距離はどれくらいだったか、と考えてみる。
たしか……三尺三寸よりはあった。
ということはやはり古寺で鬼勢から伝えられたように、音を感知するにも限度があるんだな。
寮の前まで戻ってきたところで、立ち止まる。
「あいつまた泣いてるのかな」
通路の先――東のいる休息室を眺める。
近いようで遠いところにいるあいつに思いを馳せていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
休息室に向かう東を追いかけた音在が見たのは、彼の涙……?
この先どうなることやら、という感じですね。
では三十九話もよろしくお願いします。




