第三十五話 極楽の湯
恐る恐る後ろを振り向く。
(こいつら……)
俺を目の敵にでもしてるのかよ。
対面するのは、気性の荒らい男――荒角と、こいつにべったりくっつく困り顔の男、泥谷だ。
「邪魔だからどけっつってんだよ」
荒角の不平不満に満ちた顔から出る言葉の刺々しさに、ねめつける目線が合わせり、見る者を怯えさせる。
(くそ野郎が)
俺は心の中で暴言を吐きながら、道を譲った。
何もできない、言い返せない自分が心底悔しい。
荒角は開かれた道を進んでいく。もう俺を見ることはなかった。
あいつはいつまで不機嫌なままなんだ。
落第生という肩書がそんなに嫌か?
自業自得でしかないだろ。
(ああムカつく!)
俺は通路の先を進むあいつに向かってガンを飛ばす。
その時、泥谷が後ろを振り返った。
彼は片側の口角を上げて「フッ」と鼻で笑ったかと思うと、また前を向いた。
「あいつらうっぜえ……」
なんで笑われなきゃならないんだ。
俺ってそんなに惨め?
本当にイライラする。
休息室まで歩く二人の背中を睨み倒しながら、戸を開けた。
(とっとと風呂入って寝よう!)
脱衣所の中で汚れた稽古着を乱暴に脱いだ。
それを『洗濯用衣服入れ』と書かれた大きな篭の中に投げ入れる。
素っ裸になると、檜の匂いが漂う風呂の中に入った。
中央には見たこともないような大きな内風呂があり、左右の壁に三つ、合計六つの出っ張りがでている。
その突起の横に盥が置かれていた。
風呂には高城や棟方、薫兵藏に、なぜか風呂でも布を頭に被ってる伏、まだマシな落第生の空丸がいた。ちなみに空丸はねじり鉢巻きを取っていた。
さらに知らない大人も二人いる。
(あの落第生たちがいないだけ安心だな)
俺は右側にある出っ張りの前で胡坐をかき、それを捻ってみると、そこから熱いお湯が出できた。
(湯が出てきたんだけど、どういうこと?)
初めて体験した、湯が出る突起に目を白黒させた。
何をどうやって考えたらこんなものが作れるんだよ。
(さすが悪退の眼は格が違うな)
組織の凄さに思わず膝を打った。
盥にお湯を溜めて、それを頭にバシャッとかける。
それを三度ほど繰り返したあと、ふと突起の側にまだ何かがあるのに気付いた。
「ん? なにこれ?」
俺は楕円状のヌルヌルしたものを手に持つと、つい言葉を出した。
「それは固形石鹸ですよ」
すると男の人の声が背後で聞こえたので、バッと首を捻った。
半裸姿の逆毛男がニコニコ笑いながら、俺を見下ろしている。
「こけいせっけん?」
「自分も詳しいことはよく分からないですけど、なんでも動物とか植物の油脂を使っているそうです。体の皮脂とか汚れを落としてくれます」
「へ、へえ」
瞳の大きな男の説明を聞きながら、首を傾けた。
(油脂? 体の皮脂?)
難しい言葉を並べられても、理解できねえって。
俺は眉をひそめる。
「とにかくそれで体を洗ってくださいね。ではごゆっくり!」
その人は難しい顔をする俺を見るや、笑みを浮かべ、その場から立ち去った。
出入口とは反対側の扉を開けて、その中に入っていく。
(何しに行くんだろう)
彼が扉を開けた瞬間に、檜が焼けるような匂いがした。
ということは、あの場所で水を温めているのかな、と想像する。
彼に言われた通り、その石鹸――とやらで髪と体を洗ってからお湯で流すと、内風呂に浸かった。
(はあ……気持ちいい)
なんとも極楽だ。
体の芯まで温まる、最高の時間。
頑張りすぎた体を癒すには十分すぎるよ。
「なあなあ、お前の名前なんだっけ?」
目を閉じてのんびりしていると、突然誰かの声が聞こえてきた。
「はい?」
目を開くと、側には異国顔の十王がいた。
こいつ、いつの間に風呂に来たんだ。
「だからお前の名前だい」
「え、お、音在暗之助だけど……」
「そうだった、音在! いやあすっかり忘れてた。ちなみに俺は十王様だい」
「は?」
「十王陽ってんだ。カッコいい名前だろ?」
「……へえ」
そういえばこいつ、自惚れ屋だったな。
入門式の自己紹介でも、
「俺の名は十王陽だい! みんな俺様のことは十王様って呼んでくれよな! 悪退の眼で一番カッコいい炯眼士になってみせる!」
とかなんとか言っていたのを思い出した。
いや思えば呑気すぎるよな。
この王様は阿保なの?
「てかお前、ほんと陰気だよな? なんかいっつも下見てるし」
唐突に十王が人差し指で俺を指しながら、ヘラヘラと嘲笑した。
(い、陰気?)
陰気ってどういう意味だっけ。
あ、もしかして……「音在は暗い」的なことを言ったのか?
だとしたらこいつも無神経だよ。
俺だって好きでこんな性格になったわけじゃねえのにさ。
本当にどいつもこいつも……はあ。
「なんだよ、別にいいだろ。インキだって」
「それに言っちゃなんだが、その前髪ダサいよなあ。俺様みたいに髪を整えてみるのはどうだい?」
「うるせえ。どっかいけ」
「なんだい、その態度は。俺様がせっかく話しかけてやってるのにい」
こいつは相当な自惚れ屋だ。
いいよな、自分に自信のあるやつは。
俺は十王陽に背を向けて、風呂から足を出した。
「おいおい」と声をかけられたが無視した。
関わってしまったらこいつの思うツボだ。よって距離を置くが吉。
風呂から出て、用意されている寝巻を着ると、その足で寝床まで戻っていく。
中にはすでに布団を敷き、寝ている半眼生もいる。
俺も端に積み上げられたうちの一枚を取り、区切られた区画の上に敷いた。
ふかふかの布団の上に横たわる。
寝心地はいいけど……居心地が悪い。それに荒角と泥谷、あの王様も煩わしくてしょうがない。
俺あんなやつらとやってけんのかな。
重たい目を閉じた。ため息も出た。
明日も稽古が待っているから、十分に休んで次の日に備えないと。
だから面倒なやつらのことはもう考えたくない。
暗がりの中、静かに呼吸を繰り返す。
それからすぐに、俺は夢の中へ入っていった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
寮での話の続きでした。
徐々に音在が色々な人と関わり始めましたね。
三十六話もよろしくお願いします。




