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人演狐  作者: 幸人
第四章 痛苦の序章

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第三十五話 極楽の湯

恐る恐る後ろを振り向く。


(こいつら……)


俺を目の敵にでもしてるのかよ。


対面するのは、気性の荒らい男――荒角(あらかど)と、こいつにべったりくっつく困り顔の男、泥谷(どろたに)だ。


「邪魔だからどけっつってんだよ」


荒角の不平不満に満ちた顔から出る言葉の刺々しさに、ねめつける目線が合わせり、見る者を怯えさせる。


(くそ野郎が)


俺は心の中で暴言を吐きながら、道を譲った。

何もできない、言い返せない自分が心底悔しい。


荒角は開かれた道を進んでいく。もう俺を見ることはなかった。


あいつはいつまで不機嫌なままなんだ。

落第生という肩書がそんなに嫌か?

自業自得でしかないだろ。


(ああムカつく!)


俺は通路の先を進むあいつに向かってガンを飛ばす。

その時、泥谷が後ろを振り返った。

彼は片側の口角を上げて「フッ」と鼻で笑ったかと思うと、また前を向いた。


「あいつらうっぜえ……」


なんで笑われなきゃならないんだ。

俺ってそんなに惨め?


本当にイライラする。

休息室まで歩く二人の背中を睨み倒しながら、戸を開けた。


(とっとと風呂入って寝よう!)


脱衣所の中で汚れた稽古着を乱暴に脱いだ。

それを『洗濯用衣服入(せんたくよういふくい)れ』と書かれた大きな篭の中に投げ入れる。

素っ裸になると、檜(ひのき)の匂いが漂う風呂の中に入った。


中央には見たこともないような大きな内風呂があり、左右の壁に三つ、合計六つの出っ張りがでている。

その突起の横に盥(たらい)が置かれていた。

風呂には高城(たかしろ)や棟方(むなかた)、薫兵藏(くんぺいぞう)に、なぜか風呂でも布を頭に被ってる伏(ふせ)、まだマシな落第生の空丸(そらまる)がいた。ちなみに空丸はねじり鉢巻きを取っていた。

さらに知らない大人も二人いる。


(あの落第生たちがいないだけ安心だな)


俺は右側にある出っ張りの前で胡坐をかき、それを捻ってみると、そこから熱いお湯が出できた。


(湯が出てきたんだけど、どういうこと?)


初めて体験した、湯が出る突起に目を白黒させた。

何をどうやって考えたらこんなものが作れるんだよ。


(さすが悪退の眼は格が違うな)


組織の凄さに思わず膝を打った。


盥にお湯を溜めて、それを頭にバシャッとかける。

それを三度ほど繰り返したあと、ふと突起の側にまだ何(・)か(・)があるのに気付いた。


「ん? なにこれ?」


俺は楕円状のヌルヌルしたものを手に持つと、つい言葉を出した。


「それは固形石鹸(こけいせっけん)ですよ」


すると男の人の声が背後で聞こえたので、バッと首を捻った。

半裸姿の逆毛男がニコニコ笑いながら、俺を見下ろしている。


「こけいせっけん?」

「自分も詳しいことはよく分からないですけど、なんでも動物とか植物の油脂を使っているそうです。体の皮脂とか汚れを落としてくれます」

「へ、へえ」


瞳の大きな男の説明を聞きながら、首を傾けた。


(油脂? 体の皮脂?)


難しい言葉を並べられても、理解できねえって。

俺は眉をひそめる。


「とにかくそれで体を洗ってくださいね。ではごゆっくり!」


その人は難しい顔をする俺を見るや、笑みを浮かべ、その場から立ち去った。

出入口とは反対側の扉を開けて、その中に入っていく。


(何しに行くんだろう)


彼が扉を開けた瞬間に、檜が焼けるような匂いがした。

ということは、あの場所で水を温めているのかな、と想像する。


彼に言われた通り、その石鹸――とやらで髪と体を洗ってからお湯で流すと、内風呂に浸かった。


(はあ……気持ちいい)


なんとも極楽だ。

体の芯まで温まる、最高の時間。

頑張りすぎた体を癒すには十分すぎるよ。


「なあなあ、お前の名前なんだっけ?」


目を閉じてのんびりしていると、突然誰かの声が聞こえてきた。


「はい?」


目を開くと、側には異国顔の十王がいた。

こいつ、いつの間に風呂に来たんだ。


「だからお前の名前だい」

「え、お、音在暗之助(おとありくらのすけ)だけど……」

「そうだった、音在! いやあすっかり忘れてた。ちなみに俺は十王様だい」

「は?」

「十王陽(じゅうおうあきら)ってんだ。カッコいい名前だろ?」

「……へえ」


そういえばこいつ、自惚れ屋だったな。

入門式の自己紹介でも、


「俺の名は十王陽だい! みんな俺様のことは十王様って呼んでくれよな! 悪退の眼で一番カッコいい炯眼士になってみせる!」


とかなんとか言っていたのを思い出した。

いや思えば呑気すぎるよな。

この王様は阿保なの?


「てかお前、ほんと陰気だよな? なんかいっつも下見てるし」


唐突に十王が人差し指で俺を指しながら、ヘラヘラと嘲笑した。


(い、陰気?)


陰気ってどういう意味だっけ。

あ、もしかして……「音在は暗い」的なことを言ったのか?

だとしたらこいつも無神経だよ。

俺だって好きでこんな性格になったわけじゃねえのにさ。

本当にどいつもこいつも……はあ。


「なんだよ、別にいいだろ。インキだって」

「それに言っちゃなんだが、その前髪ダサいよなあ。俺様みたいに髪を整えてみるのはどうだい?」

「うるせえ。どっかいけ」

「なんだい、その態度は。俺様がせっかく話しかけてやってるのにい」


こいつは相当な自惚れ屋だ。

いいよな、自分に自信のあるやつは。


俺は十王陽に背を向けて、風呂から足を出した。

「おいおい」と声をかけられたが無視した。


関わってしまったらこいつの思うツボだ。よって距離を置くが吉。


風呂から出て、用意されている寝巻を着ると、その足で寝床まで戻っていく。

中にはすでに布団を敷き、寝ている半眼生もいる。

俺も端に積み上げられたうちの一枚を取り、区切られた区画の上に敷いた。


ふかふかの布団の上に横たわる。

寝心地はいいけど……居心地が悪い。それに荒角と泥谷、あの王様も煩わしくてしょうがない。

俺あんなやつらとやってけんのかな。


重たい目を閉じた。ため息も出た。

明日も稽古が待っているから、十分に休んで次の日に備えないと。

だから面倒なやつらのことはもう考えたくない。


暗がりの中、静かに呼吸を繰り返す。

それからすぐに、俺は夢の中へ入っていった。

最後まで読んでいただきありがとうございます。


寮での話の続きでした。

徐々に音在が色々な人と関わり始めましたね。


三十六話もよろしくお願いします。

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