第三十二話 放心の中の眼
地獄の素振りが始まってからはもう必死だった。
二十回目を越えて乱れ始めた呼吸、五十回目を越えて痛くなった両腕。
痛みに耐えながら突き続け、大量の汗が木刀を押し出すと同時に飛沫を上げる。
途中で手の感覚がなくなり、右足を出す時に重心がズレ、よろけて何度も転んだ。
何回目からだろうか。転んだ時に起き上がろうとすると、手足が震えて起き上がれなかった。
なんとか立ち上がっても今度は手に力が入らず、木刀を握れなくなった。
そんな時、周りの半眼生の様子に目を向けると、三人の落第生、胸板の厚いムナカタや高城、背の高い女以外は過呼吸のように息を上げながらその場にへたり込んでいた。
教官二人―――特に鬼勢―――においても、始めこそは「もっと前に腕を出せ!」とか「足の踏み込みが弱い!」などと叱っていたが、そのうち何を言ってこなくなった。
数だけを数えて、黙って様子を見守っていた。
俺は二千回目を超えた辺りからの記憶がない。
五千回目に突入してからは、体が一切動かなくなった。
一万回の素振りを終了する呼子笛の音が鳴った時には、死んだ魚のような目で、どこか一点を見つめていた。
◇◇◇
素振り稽古が終わると、ほどんど全員が放心状態だった。
そんな中でも教官の鬼勢が呑気に「休憩後に体を鍛えるぞ!」と言うから、腕立て伏せや上体起こし、膝の屈伸などの運動をそれぞれ五十回やらされた。
それらを終えた頃の俺は全身ボロボロで、意識も半分失いかけていた。
そんな時に、教官の小内がこう言った。
「最後は観察眼を磨く指南に移ります」
(もう休ませてくれよ……!)
こんなクタクタの体なのに、まだ稽古は終わらない。
いい加減、寮に帰らせてくれよと文句の一つも言いたくなるが、そんな勇気はもちろんなかった。
鬼のような教官二人は俺たちの疲れなんてそっちのけに言葉を続ける。
「この指南では人と人演狐を見分けるための内容を学んでいただきますが、ここからは別の方にご指導いただきたいと思います。その方が来るまでの間、もうしばらくお待ちください」
(別の人が来る……?)
鬼勢か小内のどっちかが指導してくれるんじゃないのか?
一体誰が来るっていうんだよ。
何も聞かされていない俺はキョロキョロと辺りを見回し、その誰かを探していた。
何十秒か経った頃、保管庫に続く扉が開いた。
その中から、一人の細身の大人が出てきた。
(あ、きっとあいつだ)
近くで見ると、顔―――特に顎―――の長い、ひょろひょろとした白衣姿の男だった。
彼は二、三度頭を下げながら教官のもと歩いてきた。
「小内さんに鬼勢さん、お待たせしてすみません」
「モノノベさん、お疲れ様です」
「お疲れ様です! モノノベさん!」
「問題ございませんよ。本日からよろしくお願いいたします」
モノノベと呼ばれる男が教官二人と仲睦まじげに挨拶を交わしている。
それが終わると、その男が俺たち半眼生に体を向けた。
「半眼生の皆さんもお待たせしてしまい申し訳ないです。それでは早速、始めていきましょうか」
その言葉の後に、教官の鬼勢が「それでは観察眼の指南を開始する。一同、礼!」と号令をかけた。
「改めまして、半眼生の皆さん、こんばんは。私は研究班に所属する、物部忠仁と申します。名前の如く、ただの人です」
「「……」」
その刹那、空気が静まり返った。
(え、どういうこと?)
水を打ったようにしんとしている。
その場にいる―――物部を除く―――全員が固まっていた。
「あれおかしいですね。私の予想ではここで一笑い起きるはずだったのですが……それか誰かが『いやただの人なわけあるかい!』と横槍を入れてくれるのを期待していましたがねえ」
(は? 何言ってんの、こいつ)
俺は物部の考えていることが理解できない。
なに……まさか、一発笑わせてやろうと思ったってこと?
何も面白くなかったんだけど。やっぱ悪退の眼にいるやつって変わってるよな……はあ。
「まあいいでしょう。ところで私が所属する研究班が普段、どんなことをしているかを知っていますか? 入門初日に少し聞いたかとは思いますが、研究班では主に、人演狐という生態を探究しています。その活動の中で得た知識を活かし、炯眼士の方々の衣服や武器などを改善・改良したり、教官の方々の指導方法をサポートしたりと、様々なことを行っています」
ふうん。
小内のように言葉を丁寧に話すこの変な男は、研究班で働いてるのか。
そういえば初日にちらっと聞いたけど、そんな班があることすら忘れてたよ。
「半眼生の皆さんには、我々が日々研究する人演狐という生態を学んでいただき、炯眼士になった際にその知識を活かしていただきたいのです。人演狐は皆さんが想像する以上に人間そのものです。平民からすればただの人でしかないんです。そんな奴らを見抜けるようにならなければ、戦うこともできません。ですので、人演狐の専門家である我々が半眼生の皆さんに知恵を教授し、人間と人演狐を区別できる力を身に付けてほしいと考えています」
(だからこいつが呼ばれたわけか)
俺は物部の話を聞きながら、なぜ彼がわざわざ地下に来たのかを知った。
そして、物部が「人演狐は皆さんが想像する以上に人間そのものです」と言った時、自然と東の方に視線が動いていた。
俺もあいつからの音を感知しなかったらきっと人間だと思い込んでた。
見た目は人間でしかないという物部の言葉に頷かずには言われなかった。
「さて、まず人演狐について学ぶ前に皆さんはやつらについてどの程度知っていますか? 誰でもいいので答えてみてください。……じゃあ君」
物部が大きな瞳を動かし、誰かを指した。
俺はそいつの顔を見た。
ーーーあいつは確か、フセ……とかいう苗字だったような。
「はい」
「君名前は?」
「伏潔……です」
「伏さんですね。君は人演狐についてどんなことを知っています?」
「人演狐は元は狐……なので、視力と聴力……がいいというのは知っています」
「そうですね。ご名答です。やつらはどちらの能力も優れています。要は狐の特性を学べば、それがそのまま人演狐の特性に繋がるわけです。伏さん、質問に答えていただきありがとうございます」
ああ、思えばそうだな。
やつらは狐だったんだから、狐の不得意を調べればいいんだ。
「ですので、本日はまず狐の特性を学ぶことといたしましょう」
物部は後ろにある黒板に体を捻り、白墨を手に持ち、何かを描き出した。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
さて素振りを終えて、観察眼の指南が始まりました。
物部と呼ばれる男がやって来て、色々と教えてくれるようですね。
沢山学んでほしいと思います。
それでは三十三話をお楽しみに!




