第二十八話 見える傷と見えない傷
鼠色の空。
幾たびにも重なった雲の層から降り注ぐ大粒の雨。
あれは入梅の頃の神無月だったと思う。
水かさの増えた川を眺めていたんだ。
まだ言葉の話せない俺を抱える頼りないその手が持つ飴色の番傘の上に、「ボトボトボト」と重たい雨が落ちてくる。
小さな体を寒さで震わせながら、その人を見上げた。
「―――?」
互いに合った目。
じっと見つめる俺を見下ろし、その人が柔和に微笑みかける。
優しさに包まれ、人の温もりを感じた。
だから俺もそれに答えた。
もう忘れかけている遠い日の記憶―――。
◇◇◇
(……あれ、ここはどこだ?)
目が覚めると俺は森の中にいた。
真上を向きながら、なぜこの場に横たわっているのかを考える。
(俺、何してたんだっけ)
ええと、悪退の眼の入門式を終えて、指南をした後に……。
―――そうだ、山の中を走ったんだ。それもただの山じゃない、危険すぎる山に。
俺は体中を怪我しながらも頂上から下山していた時に足を滑らせてしまった。そして意識を失ったんだ。
「お! 音在、目覚めたか!」
全てを思い出していた最中に、誰かの声が聞こえた。
この活発そうな声音は―――。
「……鬼勢、さん」
視界に現れたのは、大男の鬼勢だった。
安堵の表情を覗かせた彼が俺の側で尻をついた。
「俺、意識なくなってたみたいで……」
「ははは! こてんぱんにやられちまったな! まあ誰もが通る道だ、ほら横を見てみろ!」
鬼勢に示された方に首だけ動かすと、自分と同じように横たわる半眼生が何人もいた。
一番手前にいる下位を争っていたくせ毛の男も顔をゆがめながら寝転んでいる。
(ひでえ傷だな……)
半裸の状態で上半身と両腕には白い木綿布が巻かれており、痛みに耐えているようだった。
他の人はよく見えないけど、同じような状況なんだろう。
首を上げて自分の体を見ると、やはり痛々しい姿だった。
たった一日でこんなになっちまうなんて……と暗澹たる思いになる。
「みんなくたびれちまって情けねえよな、あははは! てか音在、お前すげえ顔してんぞ、大丈夫か?」
(大丈夫なわけねえでしょうが……)
本当こいつは……思いやる心を知らねえのか?
人が死にそうになりながらも必死こいて挑んだ結果できた顔の腫れを面白がるとかそりゃあないだろ。
こっちは痛みで微小にも動けないってのに……もっと言葉選べよ。
「ていう冗談は置いといて」
だから冗談に聞こえねえんですよ、と心の中で反論した。
「まああれだ。応急処置はしといたから、あとは寮で休んで回復に努めろ! もう少しでそっちまで運ばせるから待ってろよ」
「分かりました」
鬼勢が立ち上がり、どこかに移動し始める。
「音在、お前も頑張れよ。好敵手の東に置いていかれるぞ、なんてな! あははは! てことでまたな!」
「……うるせえよ」
俺は唇を尖らせながら、独り言ちる。
(ったく、なんで東の名前を出すんだ……)
今あいつは関係ない……って、あそうだ。俺は鬼勢に聞きたいことがあったんだ。
「鬼勢さん!」
「……ん?」
出来うる限りの声で彼を呼び止めると、珍しく彼が振り向いた。
進行を阻まれたことへの不満を隠そうともせずに。
「何だよ?」
「あの……尋ねたいことがあるんです」
息を深く吸ってから、彼を直視する。
「なんで……どうして東を入門させたんですか」
震える声で問うた。周りには半眼生がいることを配慮して、あえて彼を「人演狐」とは言わなかった。
「……なんでそんなこと聞くんだよ」
鬼勢の片方の眉が怪訝そうに動いた。
「いや……単純に気になっただけです」
「……」
(俺、もしかして不味いことを聞いちゃった?)
理由を尋ねるぐらい、別にいいだろ?
東を「人演狐」と言ったわけじゃないし、周りにいるやつに聞かれたとしてもなんら違和感のない質問だ。
何も変じゃない。
「理由なんて一つしかないだろ。東自身が入りたいと志願したからだ」
「東自身が?」
人演狐であるはずの彼が自ら入りたいと言った?
いやいや……そんなはずがあるか。どう考えてもおかしいじゃないか。
自分の同族を平気で殺す組織にわざわざ入門する目的ってなんだよ。
あいつだって人演狐の家族がいて、そいつらだって怯えながら暮らしているかもしれねえのに、自分だけ助かろうと思って入ったのか?
しかも助かるだけじゃなく、同じ種族を殺すための技術を磨く場所に自ら志願する意味が分からねえ。
あいつ頭大丈夫なのか?
「東はなんでそんなことしたんです……本当狂ってますよ。それにあんたもあんたです。なんであいつを入れさせたんですか。止めてあげてくださいよ」
俺はなるべく声を抑えながらも、つい本心を伝えてしまった。
鬼勢も奥にいる人々に注意を払いつつ、言葉を並べていく。
「あいつの事情なんてしるか。入りたいと言ったから入れただけだ。ただし……」
そこで一旦、話を切った。
俺は次の言葉を待つ間、唾を飲み込む。
耳からの音が一際大きく感じた。
「怪しい動きを見せたら、俺は容赦しない。あいつの……を……す」
「……」
最後の言葉は聞こえなかった。それはきっと周りにいる半眼生に聞こえないようにするために、わざと小さく言ったんだ。
俺はその刹那、息を呑んだ。
鬼勢が踵を返し、また歩き始める。
徐々に離れていく彼の背中を眺めながら、膨れ上がる恐怖心を収めることなどできそうになかった。
(東……俺はお前と話がしたい)
あいつが抱えてる思いを知りたい。
もしかしたら共感できることがあるかもしれないし、助けられることもあるかもしれないから。
強まる動揺を抑えるために、深呼吸を繰り返す。
ただただ意識を呼吸に集中させた。
そうしないと冷静さを保てそうになかったからだ。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
意識を取り戻した音在に一安心と言いたいところですが、気持ちは休まりませんね。
東のことを思うと、冷静な状態ではいられないようです。
彼の思いにも今度注目せずにはいわれません。
ということで、二十九話もお楽しみに!




