第十七話 墨色の予兆
鬼勢が自身の脳を指し示す。
俺は眉をひそめながら、その部分を覗き込んだ。
「……脳ですか? す、すみません。ちょっと理解できないんですが」
「そうか? 勘のいいやつなら分かるぞ」
「そう言われても……分からないものは分からないです」
人演狐から響く不快音の正体が脳から発されるとは、どういうことだ?
何かの割れるような音が脳から出てると言われても腑に落ちるわけがねえ。
そもそも何で俺だけに届くんだよ!
「要は脳の、ある部分が関係してるってことだ。そこが音の本体であり、核心なんだ」
(ある部分が関係してて、そこが核心だと?)
気が狂いそうになった。
鬼勢から手がかりを与えてやると言われ、いざ聞いてみたら、何の糸口にもならない答えが返ってきたからだ。
脳の中にどんな要素があるかなんて知るわけねえし、それに回りくどい言い方なのにも腹が立つ。
「そんなこと言われても、さっぱり分かりません」
「あははは! まあ来月になれば嫌でも把握するさ。――よし、じゃあ俺はもう戻るからな」
「え! ちょっと待っ――」
「そんじゃあまたな! 来月までは飯食って、動いて、ゆっくり休めよ!」
納得できない俺をよそに鬼勢が豪快な調子でそう言うと、すぐに古寺を出ていってしまった。
行き場を困った片腕をぼんやりと眺める。
釈然としない思いだけが体全体を支配する。
◇◇◇
悪退の眼に入門する日まで、残すところ一週間を切った。
二者択一をした日から二週間。今は気楽なものだ。
三食の飯を食い、運動のために散歩をし、たっぷり寝る。
以前の俺からは考えられないほど心身ともに満たされ、ついに見た目にも変化が現れた。
骨と皮しかなかった体には脂肪が付き始め、青ざめていた顔は健康的な色へと様変わりした。
短期間でこんなにも変われるものなのか……と驚きを隠し切れない。
鳴りやまない腹の虫に苦しめられていたあの頃を思う。
貧村に生まれ育ち、ひとかけらの希望もなかった時の自分を――。
今の暮らしぶりを昔の俺が見たら、喉から手が出るほどに羨ましがるだろうな。
俺はもう絶対、あんな惨めな暮らしなんてできないし、したくもない。
「はあ……このままこの部屋でずっとだらけていたいなあ」
本音をポツリとつぶやいた。
今のように過ごせるのもわずかしかないのを理解してるつもりでいるが、現実味を帯びてこない。
だって、地下に行ってそこで暮らせと言われても、想像なんてまるで付かないだろ。
どんな場所で、何があって、誰がいるのか――。
行ってみない限り、俺の想像力じゃあ到底無理な話だ。
「ガタ……ガタガタ」
寝転びながら天井を見上げていると、隣の畳敷きから物のぶつかる音が聞こえた。
(何してるんだろう)
隣にいる者が発する音に耳をそばだてる。
どうやら箪笥の引き手を引き、何かを取り出しているようだった。
「隣にいるやつもきっと――俺と同じ入門生なんだろうな」
俺が寝泊まりする古寺には小さな畳の間が複数ある。
他にも生活している人がいたけれど、入門日が近付くにつれ、客間がどんどん埋まっていった。
実際に何人かの客とは顔を合わせたが、ろくに目を合わせず、通りすがりに頭を下げるだけで終わった。
これは俺が人見知り過ぎるのかもしれない。
見た目や声からして自分と年の近い人間となれば、なおさらのことだった。
気軽に話しかけられるわけがなかった。
そんな勇気はさらさら持ち合わせていないんだ。
「これからやってけんのかな……」
そんな言葉が口をつく。
束の間の幸せの邪魔をする、先を案じる思い。
来月からは新しい環境に飛び込み、新しく出会う人間と関係を築いていかなきゃならないんだ。
こんな臆病な自分が上手くやっていけるのだろうか。
◇◇◇
入門前夜、若い女が俺の部屋を尋ねてきた。
「音在暗之助様。少々お時間よろしいでしょうか」
布団の上で頭を支えるように手を組んで寝転んでいた俺はすぐに立ち上がり、戸を開けた。
目の前には、折りたたんだ墨色の衣服を抱えた若い女が立っている。
「お休みのところ申し訳ございません。入門当日のことでお伝えしたいことがございまして、お伺いいたしました。早速ですが、明朝五時までに古寺の前の『内務省・重要書類保管庫』の裏口にお越しいただけますでしょうか。その場所から地下へと移動いたします。何か持ち物等がございましたら、そちらを合わせてお持ちください。最後に、こちらをお渡しいたします」
女が明日、入門当日の連絡を丁寧に伝えた後、持っていた墨色の服を俺に手渡した。
どうやら裁着袴のようだ。
「こちらは普段の稽古着になります。明日、保管庫へお越しいただく際もこちらの服を着用してださいますよう、お願い申し上げます」
「はい。分かりました」
「以上となりますが、何かご不明点はございますか?」
「いえ……とくには」
「かしこまりました。それでは失礼いたします」
若い女は深く頭を下げてから歩き始め、他の客間へと移動していった。
俺はその様子をちらと見てから襖を閉じる。
「これが稽古着……」
布団の上に胡坐で座り、墨色の衣服を広げた。
筒袖の裁着袴で、革の帯が付いている。
何というか……地味な衣服。
規模感の大きい組織だからもう少し派手なのかと思ったが、俺に似合うような簡素さだった。
これを手にすると、これから俺が何をするのか、じわじわと実感が湧いてきた。
◇◇◇
横になり目を瞑ったところまでは覚えてるが、そこから何時間経過したんだろう。
次に目を開いた時には、一晩が明けていた。
思えば、あっという間の七日間だった。
あれこれと考えているうちに、もう当日を迎えてしまったんだから。
そう――いよいよ今日が、入門当日だ。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
二者択一をした後の、入門当日までの様子が主な内容です。
次回から悪退の眼での稽古が始まりますが、満たされつつも不安を隠し切れない音在暗之助が新しい環境でどう行動していくのかをぜひ注目していただけると嬉しいです。
これから毎日更新ができないことも増えていくと思いますが、どうぞ長い目で最新話を待ってくださると大変幸いです!
どうぞよろしくお願いいたします!




