第十三話 音の鳴る男
東京には漠然とした憧れがあった。
煌びやかで華々しく、洗練された世界――そんな印象を受けていたからだ。
新しい時代になって、早二十二年。
人類が辿った長い歴史から考えるとほんの僅かな時間。
それでも世の中は劇的に変わっていた。
誰がこんな未来を予想できたかというほどに変わり始めている。
ただ……それは一部の都市に限られた話だ。
俺が暮らしていた貧村は時代に取り残された象徴のような、これっぽっちの希望もない場所でしかなかった。
だから一度だけでもいいから、時代の最先端を行く東京に足を踏み入れてみたい――そんな密かな思いをずっと抱いていたんだ。
そんな憧れの地、東京の街を歩く。
目的もなく、ただひらすらに――。
俺は足を動かしながら、周りの景色を眺め続けていた。
整備された道路、立派な街路樹、それに二階建ての豪華な建造物。
馬が鉄道を引いて歩き、人力車の車夫が威勢のよい声を上げる。
すれ違う人々は、色鮮やかな服装に包まれ、蝙蝠のような傘を差しながら微笑んでいる。
それら一切の光景を眺めても、一昨日の晩に感じたような高揚感はまるでなかった。
頭を埋めるのは常に、この先を案じる気持ちと疎外感のみ。
人演狐を殺すか、道端で野垂れ死ぬか、どちらかを選択しなければならない未来。
そして――ここに俺の居場所はないという、確かな実感が得られただけだった。
「今までもこの先も一生惨めなままなんだろうな」
そんな言葉を吐き、背を丸める。
全てがどうでもよくなった。
だって俺は……哀れみの目で見られる運命でしかないんだから。
(どうせあんたたちみたいな華やかな人生にはなれねえよ)
心の中でそう嘆き、ぎゅっと唇を噛んだ。
自分とそれ以外の人間との格差の違いを思い知らされ、絶望に打ちひしがれる。
俺の人生は失敗だったんだ、と嘆いた。
それに――。
「全てがうるさくてかなわねえ……」
雑踏音が不快でしかない。
人々を運ぶ幾つもの馬車の走行音、人力車の車輪。
大工が使う鋸や鉋、人々の話し声、そして無数の足音……。
敏感な耳――特に左耳を持つ俺には、苦痛でしかなかった。
「バキバキバキ」
耳に意識がいくと右耳の不快音にも注意を向けてしまう。
内側から流れる音に、自然と眉を寄せた。
結局息抜きできないじゃないか……と小さくぼやきながら、連なる商店の間を抜けていく。
行き交う人の多さに辟易していると、次第にざわざわとした声が聞こえ始める。
「やだ何……?」
「何があったんだ?」
そんな言葉が飛び交い、何人かがどこかを見つめていた。
(え……何事だ?)
不審に思いながらも人々の視線の先を見やると、小間物屋の前に向かい合う二人の男がいた。
こちらに背を向ける赤茶色の髪を持つ男が、反対側で対面する背の低い猫背の男の腕をつかんでいる。
「あなた今盗みましたね?」
赤茶髪の男が幾ばくか大きな声で質問を投げかけた。
その刹那、猫背の男が顔をゆがめ、相手をぎろりと睨んだ。
「はあ!? ぬ、盗んでねーよ! 何言ってんだお前!」
「俺見ましたよ? あなたが店頭に置かれた髪飾りを盗み、それを着物の懐に入れたところを!」
「嘘言うんじゃねえ! 俺は盗ってねえって言ってんだろ! いいから腕離せよ!」
「いいえ離しません! 盗んだものを返しなさい! その後であなたを巡査に差し出します!」
男二人が大声で言い争いをしているのを俺は茫然と見つめていた。
周りを歩く人々も、俺のように傍観する者、迷惑がる者、見世物のように好奇の目を寄せる者と反応は様々だが、二人の間を取り持つ者は誰も現れない。
「いい加減に――」
赤茶髪の男が言葉を発した瞬間のことだ。
――様々な音が重なった。
人々の話し声、赤ん坊が泣き叫ぶ声、人を乗せた馬車の馬が突然鳴いた声、木製の何かを強く叩く音。
これら全てが合わさり、耳を劈くような不協和音が周囲に轟いたんだ。
(――うるせえ!)
俺は瞬時に目をすがめながら両手で耳を塞ぎ、音を遮断した。
数秒後、閉じていた目を開いた、その時だ――。
赤茶髪の男がうずくまり、両手のひらを耳に強く押し付けているではないか。
(だいじょう――)
――その姿が小さい頃の自分を蘇らせた。
父さんから殴られ蹴られた日々……母さんから罵られた日々……。
体が痛かった、心が苦しかった。
死にたい気持ちを精一杯抑えて何とか生き抜いたけれど、代償は少なくなかった。
いつしか耳に違和感を覚え、それが徐々に大きく深くなっていったんだ。
――辛い、消えたい。俺なんか存在してはいけない。
あれこれと負の感情が無限に浮かんだ。
だから……耐えがたい苦痛から少しでも逃げたいと思った。
そんな時、俺は手で耳を塞ぎしゃがみ込んだ。
そして、きつく目を閉じたんだ――。
赤茶髪の男の姿を目に止めた時、俺は止まっていた足を動かした。
人をかき分け、彼のもとへ――。
「――パキパキ……パキ」
音がした。
細い簪を割ったような――そんな音が、俺の耳以外から。
俺は目を見開きながら、真下にいる――赤茶髪の男を呆然と見下ろした。
それは紛れもなく、確実で、確かな音だった。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
音在暗之助が東京を散策する話でしたが、呑気にお散歩といかないのが辛いところです。二者択一の猶予が残り二日に迫った最中でしたから。
そして新たに現れた、謎の赤茶髪の男……。彼は何者なんでしょうか。
第十四話もよろしくお願いいたします。




