春を待つ
俺が死んだのは、音もなく雪が降りしきる冬の日だった。
「雪斗」として産まれる前、俺は違う人間だった。前の俺だったときも、確か名前に「ユキ」が付いたと思う。もう随分昔のことだから、そのときの名前は忘れてしまった。でも別にいい。昔も今も、俺は「ユキ」だから。
俺が生きていたのは、まだテレビすら存在しなかった頃のこと。裕福な商家の三男坊だった俺は、産まれつき身体が弱かった。寒くなるたび風邪をひいて、よく寝込んだものだ。三男でなおかつ身体が弱いなんて、家族にとってはお荷物でしかなかったと思う。
今でも、布団から眺めた天井の模様は記憶に焼き付いている。木目が人の目玉のように見えて、どことなく怖かったっけ。
俺には、友人がいた。以前は名前も覚えていたけれど、最近はおぼろげで、思い出せないこともある。
確かなのは、俺が彼のことを「ハル」と呼んでいたこと。
ハル。
俺にとって特別な響き。
彼は俺とは違って、ごく一般的な平民の出だった。
子どものころは、家柄なんてさほど気にせず遊べた。だから同い年の彼と、そして近所の仲間たちとともに、往来でたむろしていたものだ。今思えば、俺が気づかなかっただけで、商家の息子である俺に皆少なからず気を使っていただろうに。
そのなかで、彼とは特別気が合った。彼は気負うわけでもなく、俺を対等な友人として扱ってくれた。家のなかでは役立たずと囁かれる自分を、ひとりの人間として認めてくれる彼が好きだった。
彼とはよく二人きりで話し込んだ。ふざけたことや真面目なこと、どうでも良いこと、本当に何でも話せる相手だった。さすがに殴り合いとはいかないまでも、考え方の違いで喧嘩になることもあった。でも、それすら俺には新鮮で、嬉しかった。
ユキ。
彼は俺をそう呼んだ。真面目で誠実な彼に名前を呼ばれると、俺はふわふわと心地良い気分に包まれた。
——ユキ、お前は俺の一番の親友だ。
俺は、彼に恋をしていた。けれどそれは、決して口にできない想いだった。伝えるだけが全てではない。そんな綺麗事を胸に、俺は彼の隣にいようと思った。俺はいつまでも、彼の一番でいたかった。
俺が寝込むとよく、彼は手紙をくれた。俺を哀れむ使用人が、こっそり彼から受け取り、届けてくれるのだ。いくら仲が良いとはいえ、平民の子が商家に上がり込むことなどできない時代だった。
日当たりの悪い部屋で、彼の律儀な字が並ぶ手紙を読むたび、俺の心は慰められた。早く元気になって彼に会いたい。会って話がしたい。ユキ、と優しく呼んでほしい。そう思えば、寝床で横になるときも前向きでいられた。
子どもであることを許される時間は短かった。
俺は、彼以外と満足な人間関係も築けないまま、年だけを重ねて大人になった。
もう少しマシな身体なら婿にでも出したんだがね。
家族の誰かに、嫌味ったらしく言われた覚えがある。申し訳ありません、とそのときの俺は畳に額を擦り付けて返したはずだ。年々肩身が狭くなっていくのは感じていたが、どうしようもなかった。情けなくて、恥ずかしいと思ったけれど、姿を消すほどの度胸はなかった。
彼とはほとんど会えなくなった。
大人は、往来の隅で地べたに座って語らったりはしない。必然的に会う機会は減った。それでも俺は、体調が良いときにはこっそり彼の家を訪ねて、他愛もない話をした。ろくでなしの三男坊だ、と俺が自虐すれば、彼は「そんなことを言うな」と真剣に叱ってくれた。
——ハル、ずっと君と一緒にいたい。
俺は心の中で何度もそう言った。伝わらなくてもいい。それでもいいから、彼の友であり続けたい。それが俺の願いだった。あまりにも身勝手な願いだ。
その日、彼はいつになく上機嫌だった。
——嫁をもらうことになったんだ。
彼は照れ笑いを浮かべて、そう言った。
良かったな、おめでとう。
そう言えたかどうかは覚えていない。しかしそれは、決定的な恋の終わりだった。
俺は彼の家を訪ねることをやめた。祝言に来るか、と手紙で誘われたが、体調が悪いからと断った。彼の妻を見て、平静でいられるはずがないと思った。俺の「たった一人」を奪う女。まだ見ぬその女が、彼と顔を見合わせ笑う姿を想像しただけで、はらわたが煮え繰り返りそうだった。
俺では決して座れない場所に、その女が座る。会ったこともないのに、俺は彼の妻が憎くて憎くてたまらなかった。
彼との繋がりは途絶えた。
もはや身体を治す理由が無くなった俺は、布団の中から天井を見上げて日々を過ごした。
彼と会わなくなってどれほどの時間が経っただろう。ある日、使用人が食事の膳に一通の手紙を忍ばせて持って来た。差出人を見れば、律儀に並んだ文字。彼からの手紙だった。
逸る気持ちを抑えて、俺は封を切った。恋に敗れながらもなお、俺は彼にすがろうとしていた。
手紙は、至極丁寧に綴られていた。
——元気か。俺にも息子が産まれたよ。
——お前の「ユキ」の字を勝手にもらった。心のきれいな男になると良いと思って。
——お前にも会わせたい。早く元気になれ。
俺は繰り返しその文面を読み返した。全ての文言を暗唱できるほどに読み返したとき、手紙を握る手がぶるぶると震え始めた。役立たずの心臓が、珍しく早鐘を打っていた。
ハル。
君はすごい男だ。
こんなにも胸を抉る、むごいことを書けるなんて。
久しぶりに出した笑い声は掠れていて、自分の耳にすら届かず消えた。そして俺は、手紙を破った。
ハル。俺がお前の子どもと会いたいと思うか?
俺からお前を奪った、その女が産んだ子どもを見て喜ぶとでも?
もう二度と読めないよう、俺は細かく細かく手紙を千切った。手を動かすたび、胸の奥では引き裂くような痛みが伴った。何もかもが恨めしく、憎らしかった。
ハルにとって、「ユキ」はもう俺ひとりじゃない。ハルは子を愛するだろう。「ユキ」の名がついた子を、俺に向ける優しさより、ずっとずっと深い愛情で包み込むだろう。
そんなの、ひどいじゃないか。俺にはハルだけなのに。この苦しみも愛しさも、ハルを想えばこそのものだと、長い間耐えてきたというのに。
部屋中に散らばった手紙の破片に囲まれながら、俺はぼんやりとうつむいた。まるで桜の花が散っているようだ、と詩的なことを考えて、ひとり笑う。
くだらない。何もかも。俺の人生は、笑えるほどにくだらない。
俺は伝えないことを選んだ。ハルが何も知らなくて当然じゃないか。気付いてくれ、と願うばかりで、俺は何もしなかった。
これでは駄目だった。俺の選択は間違いだった。そう気付いたときには、全てが手遅れだった。
それから何年か経った、雪が降る寒い日に、俺は死んだ。布団の上で息絶えていく俺を、目玉模様の天井だけが看取ってくれた。苦しかったかどうかは覚えていない。
けれど、死ぬ直前に俺はひとつだけ強く願った。
神様でも仏様でもいい。お願いです。いつかまた、ハルに会わせてください。もし会わせてもらえるなら、俺はもう我慢をしません。ハルが好きだということを、隠したりはしません。思ったことは伝えなければ、永久に気付いてもらえないのだと知ったから。
我ながら、随分自分勝手な願いをしたものだ。
けれど、大して信心深いわけでもない俺の願いは叶えられた。
俺はまた、ハルに会うことができた。
◇◇◇
「雪斗」として生まれた俺が、自分のなかの記憶に気付いたのは、物心ついたころだ。近所に同い年の子が引っ越してきたのよ、と母さんから聞かされて間もなく、彼の一家は挨拶にやって来た。
「おれ、よしはる。おまえは?」
柔らかなその声を聞いた瞬間、俺は頭のなかで何かが弾ける音を聞いた。ぱんぱんに水を入れた袋を針で突いたように、記憶は少しずつ溢れ、俺のなかへ染み込んだ。
死の直前に願ったことが叶った。突然押し寄せた事実に、俺は動けなくなった。
目の前の男の子は、ハルだった。姿かたちは違うけれど、昔俺が恋をした「ハル」と同じ魂を持っていることが直感で分かった。
「……ゆきと」
「そっか。じゃあユキって呼ぶ」
ハルがそう口にした瞬間、俺は決めた。
もう我慢なんてしない。想いは伝えなければ意味がない。二度と後悔はしたくない、と強く思った。
当然のことながら、ハルは以前とは全く別の人間だった。無愛想で、不器用で、それでいてどこまでも優しい。けれど性懲りもなく、俺はハルに恋をした。それは、昔味わった悲しいだけのものとは、別物の恋だった。
俺はわざと奔放に振る舞った。感情を押さえ込むことはやめて、笑いたいときには笑って、泣きたいときには泣き、怒りたいときには怒った。言葉を封じ込んでいたって何も変わらないから、俺はハルに想いをぶつけ続けた。
ハル。好きだよ。大好き。
顔を合わせるたびにそう言って擦り寄ると、ハルはいつも迷惑そうな顔をした。それでも完全に俺を拒否することはしない。嬉しかった。喜びで胸が震えた。だから俺は、調子に乗ってハルの隣に居続けることにした。
ハルに触れるたび、緊張してどきどきした。ハルの気持ちは分からなかった。本当は嫌がっているのかもしれない、とは思ったけれど、俺は退かなかった。俺を見てほしかった。
ハルと二人きりで話すたび、俺は全てを話してしまいたい衝動に襲われた。
ハル。俺、ハルが好きなんだよ。本当の本当に、好きなんだ。ハルがびっくりするくらい長い間、ずっと好きだったんだよ。
気付いてほしい。
気付かないでほしい。
俺のなかにはいつも様々な感情が渦巻いていて、その奔流に、自分でも疲れてしまうほどだった。本当の自分がどれなのか分からなかった。俺が「雪斗」という人格を乗っ取っているのか、それとも「雪斗」と俺は地続きで存在するのか。ハルを好きだと言う俺は、一体誰なんだろう。
中学に上がったころ、俺はもう衝動を抑えることができなくて、一方的にハルにキスをした。重ねるだけの幼いキス。それ以上のやり方を、俺は知らない。鼓動があまりにも激しくて、俺はこのキスのせいでもう一度死ぬんじゃないかと思った。
ハルはとんでもなく驚いた顔をして俺を突き飛ばすと、「お前、馬鹿じゃねぇの」と呆然と呟いた。
初めてだったの?と聞くと、ハルは顔を真っ赤にして「当たり前だろ!」と怒鳴りつけてきた。
ハルの初めてを奪ってしまった。ほんの少しの罪悪感はあったけれど、俺は満足していた。俺はどんどん欲張りになっていく。
俺の予想に反して、キスの回数は増えていった。時折ハルからもキスを返してくるものだから、どう反応して良いものか困った。でもやっぱり、嬉しかった。ハルは一体、どういうつもりで俺にキスをするのだろう。
ハルは皆の前では「ホモカップル扱いなんて最悪」と言ってくるけれど、二人きりになるとぶっきらぼうながら、優しかった。
「お前といると気使わなくていいから、楽」
昔、同じことを誰かに言われた気がする。それが昔の「ハル」の言葉だったことには、大分後になってから気が付いた。時が経つにつれて、俺の昔の記憶は少しずつ薄れていく。相変わらず、冬は好きにはなれなかったけれど。
ハルと同じ高校に入って、二年目が終わろうとしていた。俺はハルと過ごせる残りの時間について考えるようになった。いつまでも仲良しこよしではいられない。環境が変われば人間関係も変わる。
別れを思えば胸の奥はしくしくと痛んだけれど、これまでハルに想いを伝え続けられたことに、俺は達成感すら感じていた。これからは、良い友人としてハルといられたら良い。そう思っていたのに。
「俺、お前のこと好きかも」
「は?」
ある日突然、ハルはおかしくなった。好き、と言いながら俺にキスをしてきたのだ。
こんなことがあるはずない。だって、ハルはそんな素振りを見せたこと一度も無かったのに。
ハルに好きになってもらえる、という可能性を全く考えていなかった俺は、激しく動揺した。何が起こっているんだ。ハルは、どこか悪いのだろうか。
その日から逃げ回るようになった俺を捕まえて、ハルはキスをしてくるようになった。情熱的すぎる仕草に、頭がくらくらになったことは一度や二度ではない。こんなものは知らない。知る予定が無かったものだ。俺はそのたびに死にそうになった。嬉しくて死ねるのなら、それはそれでアリだなとも思った。
俺たちは三年になっても同じクラスだった。もはや俺にとって、ハルと一緒の空間にいることは恐怖だった。ハルが近くに来ると、緊張して身体が強張った。
すっかり大人しくなった俺に、周囲が「何だよ痴話喧嘩か」とからかうと、ハルは悪びれなく返す。
「そう。だから機嫌直すために言い寄ってんの」
より一層固まる俺を、ハルは楽しそうに眺めていた。
こんなに意地悪だったっけ。俺は冷や汗をかいた。でもやっぱり、俺はしぶとくハルのことが好きだった。
◇◇◇
ハルに「好きだ」と言われてから、一年が経つ。
重い目蓋を開くと、目の前にはハルの寝顔があった。だるい身体を起こしてベッドから降りると、ハルがぐうぐうといびきをかき始めた。オヤジめ、と呟いて悪戯に鼻を摘めば、一瞬苦しそうに顔を歪めて、また静かな寝息に戻る。
心のなかで文句を言いながら、俺は窓辺へ行き、カーテンを開けて外を窺った。空は明るくなり始めている。
結果として、俺とハルはいわゆる恋人になった。ハルは粘り強かった。悪く言えばしつこかった。逃げ回る俺に何度も何度も言い寄ってきて、最後には俺も折れてしまった。
そもそも俺はハルのことが好きなのだから、初めから勝ち目なんて無かったのだけれど。俺がハルの気持ちを受け入れるやいなや、押し倒されたのにはさすがに参った。最近の若い子は展開が早い、と年寄り臭いことを考える。
ハルはぶっきらぼうで、意地悪で、優しい。
好きだ、と言われるたび涙がこぼれる。ハルはそのたび、ひどく慌てる。でも俺の目からは、いつも勝手に涙が出てきて、ハルを困らせてしまう。こんな未来があるなんて、考えもしなかった。
「…………」
窓越しに桜の木が見える。今にも芽吹きそうに膨らんだ蕾。昔の俺には見ることができなかった、春の気配。
頭の中がぼんやりと霞がかっていく。昔の記憶が、根こそぎ消えようとしているのが分かった。
暖かな陽射しに目を細める。この優しい季節のために用意されたものだとしたら、冬だって案外悪くないのかもしれない。
そして俺は、目蓋を閉じた。
◇◇◇
「……ユキ?」
ハルの声で俺は我に返った。
外を眺めながら、いつの間にかぼうっとしていたようだ。何かを考えていた気がするけれど、思い出せない。何か。大切な何か。……何だっけ。
まるで夢から覚めたときのように、自分の思考がおぼつかない。首を傾げて振り向くと、寝転んだままのハルが目を見張った。
「お前、なんで泣いてんの?」
「え?」
そう言われて頰に触れて初めて、自分が泣いていることに気付く。いつの間に。ますます不思議だ。
「……俺、なんで泣いてんの?」
「知るかよ」
いいからこっち来い、と手招きされてベッドに近寄ると、身体を起こしたハルにそっと抱きしめられた。頬をすり寄せて、ハルの匂いを感じる。ハルは一度身体を離すと、怪訝そうに俺の表情を窺ってきた。
「お前、花粉症だっけ?」
「いや、全然」
「じゃあなんで泣いてたんだよ」
「分かんない。気付いたら涙出てた」
「……ふざけてんのか」
「マジだって」
誤魔化しやがって、とハルが俺の頬を抓ったが、分からないものは分からない。少し不安げな表情のハルに再び抱きつき、俺はその温もりに深く息を吐いた。
「春だからさ、そういうこともあるんだよ」
「…………」
ハルは無言に徹した。納得がいかない、と思っていることを気配で感じる。俺を心配してくれる。でも、口では言わない。そんな素直じゃないところも可愛い。
「ハル」
「ん?」
「大好き」
「知ってる」
素っ気なく返ってきた言葉に、俺は思わず笑ってしまう。
「うわ、可愛くない」
「お前に可愛いなんて言われんの気色悪いだろ」
憎まれ口を叩きながらも、俺を抱き締める腕に力がこもった。
——ああ、俺って超幸せ。
幸福を噛み締めていると、温かさに負けてまた眠気がやって来る。春眠暁を覚えず。国語で習った言葉が頭に浮かんだ。勝手にまぶたが降りてきてしまう。
柔らかなまどろみのなかで、聞き覚えのある声をした誰かが、頭のなかで笑った気がした。
【了】