表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

春を待つ

 



 俺が死んだのは、音もなく雪が降りしきる冬の日だった。




「雪斗」として産まれる前、俺は違う人間だった。前の俺だったときも、確か名前に「ユキ」が付いたと思う。もう随分昔のことだから、そのときの名前は忘れてしまった。でも別にいい。昔も今も、俺は「ユキ」だから。


 俺が生きていたのは、まだテレビすら存在しなかった頃のこと。裕福な商家の三男坊だった俺は、産まれつき身体が弱かった。寒くなるたび風邪をひいて、よく寝込んだものだ。三男でなおかつ身体が弱いなんて、家族にとってはお荷物でしかなかったと思う。

 今でも、布団から眺めた天井の模様は記憶に焼き付いている。木目が人の目玉のように見えて、どことなく怖かったっけ。

 俺には、友人がいた。以前は名前も覚えていたけれど、最近はおぼろげで、思い出せないこともある。

 確かなのは、俺が彼のことを「ハル」と呼んでいたこと。

 ハル。

 俺にとって特別な響き。


 彼は俺とは違って、ごく一般的な平民の出だった。

 子どものころは、家柄なんてさほど気にせず遊べた。だから同い年の彼と、そして近所の仲間たちとともに、往来でたむろしていたものだ。今思えば、俺が気づかなかっただけで、商家の息子である俺に皆少なからず気を使っていただろうに。


 そのなかで、彼とは特別気が合った。彼は気負うわけでもなく、俺を対等な友人として扱ってくれた。家のなかでは役立たずと囁かれる自分を、ひとりの人間として認めてくれる彼が好きだった。

 彼とはよく二人きりで話し込んだ。ふざけたことや真面目なこと、どうでも良いこと、本当に何でも話せる相手だった。さすがに殴り合いとはいかないまでも、考え方の違いで喧嘩になることもあった。でも、それすら俺には新鮮で、嬉しかった。


 ユキ。

 彼は俺をそう呼んだ。真面目で誠実な彼に名前を呼ばれると、俺はふわふわと心地良い気分に包まれた。


 ——ユキ、お前は俺の一番の親友だ。


 俺は、彼に恋をしていた。けれどそれは、決して口にできない想いだった。伝えるだけが全てではない。そんな綺麗事を胸に、俺は彼の隣にいようと思った。俺はいつまでも、彼の一番でいたかった。


 俺が寝込むとよく、彼は手紙をくれた。俺を哀れむ使用人が、こっそり彼から受け取り、届けてくれるのだ。いくら仲が良いとはいえ、平民の子が商家に上がり込むことなどできない時代だった。


 日当たりの悪い部屋で、彼の律儀な字が並ぶ手紙を読むたび、俺の心は慰められた。早く元気になって彼に会いたい。会って話がしたい。ユキ、と優しく呼んでほしい。そう思えば、寝床で横になるときも前向きでいられた。


 子どもであることを許される時間は短かった。

 俺は、彼以外と満足な人間関係も築けないまま、年だけを重ねて大人になった。


 もう少しマシな身体なら婿にでも出したんだがね。


 家族の誰かに、嫌味ったらしく言われた覚えがある。申し訳ありません、とそのときの俺は畳に額を擦り付けて返したはずだ。年々肩身が狭くなっていくのは感じていたが、どうしようもなかった。情けなくて、恥ずかしいと思ったけれど、姿を消すほどの度胸はなかった。


 彼とはほとんど会えなくなった。

 大人は、往来の隅で地べたに座って語らったりはしない。必然的に会う機会は減った。それでも俺は、体調が良いときにはこっそり彼の家を訪ねて、他愛もない話をした。ろくでなしの三男坊だ、と俺が自虐すれば、彼は「そんなことを言うな」と真剣に叱ってくれた。


 ——ハル、ずっと君と一緒にいたい。


 俺は心の中で何度もそう言った。伝わらなくてもいい。それでもいいから、彼の友であり続けたい。それが俺の願いだった。あまりにも身勝手な願いだ。


 その日、彼はいつになく上機嫌だった。


 ——嫁をもらうことになったんだ。


 彼は照れ笑いを浮かべて、そう言った。

 良かったな、おめでとう。

 そう言えたかどうかは覚えていない。しかしそれは、決定的な恋の終わりだった。


 俺は彼の家を訪ねることをやめた。祝言に来るか、と手紙で誘われたが、体調が悪いからと断った。彼の妻を見て、平静でいられるはずがないと思った。俺の「たった一人」を奪う女。まだ見ぬその女が、彼と顔を見合わせ笑う姿を想像しただけで、はらわたが煮え繰り返りそうだった。

 俺では決して座れない場所に、その女が座る。会ったこともないのに、俺は彼の妻が憎くて憎くてたまらなかった。


 彼との繋がりは途絶えた。

 もはや身体を治す理由が無くなった俺は、布団の中から天井を見上げて日々を過ごした。


 彼と会わなくなってどれほどの時間が経っただろう。ある日、使用人が食事の膳に一通の手紙を忍ばせて持って来た。差出人を見れば、律儀に並んだ文字。彼からの手紙だった。

 逸る気持ちを抑えて、俺は封を切った。恋に敗れながらもなお、俺は彼にすがろうとしていた。


 手紙は、至極丁寧に綴られていた。


 ——元気か。俺にも息子が産まれたよ。

 ——お前の「ユキ」の字を勝手にもらった。心のきれいな男になると良いと思って。

 ——お前にも会わせたい。早く元気になれ。


 俺は繰り返しその文面を読み返した。全ての文言を暗唱できるほどに読み返したとき、手紙を握る手がぶるぶると震え始めた。役立たずの心臓が、珍しく早鐘を打っていた。


 ハル。

 君はすごい男だ。

 こんなにも胸を抉る、むごいことを書けるなんて。


 久しぶりに出した笑い声は掠れていて、自分の耳にすら届かず消えた。そして俺は、手紙を破った。


 ハル。俺がお前の子どもと会いたいと思うか?

 俺からお前を奪った、その女が産んだ子どもを見て喜ぶとでも?


 もう二度と読めないよう、俺は細かく細かく手紙を千切った。手を動かすたび、胸の奥では引き裂くような痛みが伴った。何もかもが恨めしく、憎らしかった。


 ハルにとって、「ユキ」はもう俺ひとりじゃない。ハルは子を愛するだろう。「ユキ」の名がついた子を、俺に向ける優しさより、ずっとずっと深い愛情で包み込むだろう。

 そんなの、ひどいじゃないか。俺にはハルだけなのに。この苦しみも愛しさも、ハルを想えばこそのものだと、長い間耐えてきたというのに。


 部屋中に散らばった手紙の破片に囲まれながら、俺はぼんやりとうつむいた。まるで桜の花が散っているようだ、と詩的なことを考えて、ひとり笑う。

 くだらない。何もかも。俺の人生は、笑えるほどにくだらない。


 俺は伝えないことを選んだ。ハルが何も知らなくて当然じゃないか。気付いてくれ、と願うばかりで、俺は何もしなかった。

 これでは駄目だった。俺の選択は間違いだった。そう気付いたときには、全てが手遅れだった。


 それから何年か経った、雪が降る寒い日に、俺は死んだ。布団の上で息絶えていく俺を、目玉模様の天井だけが看取ってくれた。苦しかったかどうかは覚えていない。

 けれど、死ぬ直前に俺はひとつだけ強く願った。


 神様でも仏様でもいい。お願いです。いつかまた、ハルに会わせてください。もし会わせてもらえるなら、俺はもう我慢をしません。ハルが好きだということを、隠したりはしません。思ったことは伝えなければ、永久に気付いてもらえないのだと知ったから。


 我ながら、随分自分勝手な願いをしたものだ。

 けれど、大して信心深いわけでもない俺の願いは叶えられた。


 俺はまた、ハルに会うことができた。




 ◇◇◇




「雪斗」として生まれた俺が、自分のなかの記憶に気付いたのは、物心ついたころだ。近所に同い年の子が引っ越してきたのよ、と母さんから聞かされて間もなく、彼の一家は挨拶にやって来た。


「おれ、よしはる。おまえは?」


 柔らかなその声を聞いた瞬間、俺は頭のなかで何かが弾ける音を聞いた。ぱんぱんに水を入れた袋を針で突いたように、記憶は少しずつ溢れ、俺のなかへ染み込んだ。

 死の直前に願ったことが叶った。突然押し寄せた事実に、俺は動けなくなった。


 目の前の男の子は、ハルだった。姿かたちは違うけれど、昔俺が恋をした「ハル」と同じ魂を持っていることが直感で分かった。


「……ゆきと」

「そっか。じゃあユキって呼ぶ」


 ハルがそう口にした瞬間、俺は決めた。

 もう我慢なんてしない。想いは伝えなければ意味がない。二度と後悔はしたくない、と強く思った。


 当然のことながら、ハルは以前とは全く別の人間だった。無愛想で、不器用で、それでいてどこまでも優しい。けれど性懲りもなく、俺はハルに恋をした。それは、昔味わった悲しいだけのものとは、別物の恋だった。


 俺はわざと奔放に振る舞った。感情を押さえ込むことはやめて、笑いたいときには笑って、泣きたいときには泣き、怒りたいときには怒った。言葉を封じ込んでいたって何も変わらないから、俺はハルに想いをぶつけ続けた。


 ハル。好きだよ。大好き。


 顔を合わせるたびにそう言って擦り寄ると、ハルはいつも迷惑そうな顔をした。それでも完全に俺を拒否することはしない。嬉しかった。喜びで胸が震えた。だから俺は、調子に乗ってハルの隣に居続けることにした。

 ハルに触れるたび、緊張してどきどきした。ハルの気持ちは分からなかった。本当は嫌がっているのかもしれない、とは思ったけれど、俺は退かなかった。俺を見てほしかった。


 ハルと二人きりで話すたび、俺は全てを話してしまいたい衝動に襲われた。

 ハル。俺、ハルが好きなんだよ。本当の本当に、好きなんだ。ハルがびっくりするくらい長い間、ずっと好きだったんだよ。


 気付いてほしい。

 気付かないでほしい。


 俺のなかにはいつも様々な感情が渦巻いていて、その奔流に、自分でも疲れてしまうほどだった。本当の自分がどれなのか分からなかった。俺が「雪斗」という人格を乗っ取っているのか、それとも「雪斗」と俺は地続きで存在するのか。ハルを好きだと言う俺は、一体誰なんだろう。


 中学に上がったころ、俺はもう衝動を抑えることができなくて、一方的にハルにキスをした。重ねるだけの幼いキス。それ以上のやり方を、俺は知らない。鼓動があまりにも激しくて、俺はこのキスのせいでもう一度死ぬんじゃないかと思った。


 ハルはとんでもなく驚いた顔をして俺を突き飛ばすと、「お前、馬鹿じゃねぇの」と呆然と呟いた。

 初めてだったの?と聞くと、ハルは顔を真っ赤にして「当たり前だろ!」と怒鳴りつけてきた。


 ハルの初めてを奪ってしまった。ほんの少しの罪悪感はあったけれど、俺は満足していた。俺はどんどん欲張りになっていく。


 俺の予想に反して、キスの回数は増えていった。時折ハルからもキスを返してくるものだから、どう反応して良いものか困った。でもやっぱり、嬉しかった。ハルは一体、どういうつもりで俺にキスをするのだろう。


 ハルは皆の前では「ホモカップル扱いなんて最悪」と言ってくるけれど、二人きりになるとぶっきらぼうながら、優しかった。


「お前といると気使わなくていいから、楽」


 昔、同じことを誰かに言われた気がする。それが昔の「ハル」の言葉だったことには、大分後になってから気が付いた。時が経つにつれて、俺の昔の記憶は少しずつ薄れていく。相変わらず、冬は好きにはなれなかったけれど。


 ハルと同じ高校に入って、二年目が終わろうとしていた。俺はハルと過ごせる残りの時間について考えるようになった。いつまでも仲良しこよしではいられない。環境が変われば人間関係も変わる。

 別れを思えば胸の奥はしくしくと痛んだけれど、これまでハルに想いを伝え続けられたことに、俺は達成感すら感じていた。これからは、良い友人としてハルといられたら良い。そう思っていたのに。


「俺、お前のこと好きかも」

「は?」


 ある日突然、ハルはおかしくなった。好き、と言いながら俺にキスをしてきたのだ。

 こんなことがあるはずない。だって、ハルはそんな素振りを見せたこと一度も無かったのに。

 ハルに好きになってもらえる、という可能性を全く考えていなかった俺は、激しく動揺した。何が起こっているんだ。ハルは、どこか悪いのだろうか。


 その日から逃げ回るようになった俺を捕まえて、ハルはキスをしてくるようになった。情熱的すぎる仕草に、頭がくらくらになったことは一度や二度ではない。こんなものは知らない。知る予定が無かったものだ。俺はそのたびに死にそうになった。嬉しくて死ねるのなら、それはそれでアリだなとも思った。


 俺たちは三年になっても同じクラスだった。もはや俺にとって、ハルと一緒の空間にいることは恐怖だった。ハルが近くに来ると、緊張して身体が強張った。

 すっかり大人しくなった俺に、周囲が「何だよ痴話喧嘩か」とからかうと、ハルは悪びれなく返す。


「そう。だから機嫌直すために言い寄ってんの」


 より一層固まる俺を、ハルは楽しそうに眺めていた。

 こんなに意地悪だったっけ。俺は冷や汗をかいた。でもやっぱり、俺はしぶとくハルのことが好きだった。





 ◇◇◇





 ハルに「好きだ」と言われてから、一年が経つ。


 重い目蓋を開くと、目の前にはハルの寝顔があった。だるい身体を起こしてベッドから降りると、ハルがぐうぐうといびきをかき始めた。オヤジめ、と呟いて悪戯に鼻を摘めば、一瞬苦しそうに顔を歪めて、また静かな寝息に戻る。

 心のなかで文句を言いながら、俺は窓辺へ行き、カーテンを開けて外を窺った。空は明るくなり始めている。


 結果として、俺とハルはいわゆる恋人になった。ハルは粘り強かった。悪く言えばしつこかった。逃げ回る俺に何度も何度も言い寄ってきて、最後には俺も折れてしまった。

 そもそも俺はハルのことが好きなのだから、初めから勝ち目なんて無かったのだけれど。俺がハルの気持ちを受け入れるやいなや、押し倒されたのにはさすがに参った。最近の若い子は展開が早い、と年寄り臭いことを考える。


 ハルはぶっきらぼうで、意地悪で、優しい。

 好きだ、と言われるたび涙がこぼれる。ハルはそのたび、ひどく慌てる。でも俺の目からは、いつも勝手に涙が出てきて、ハルを困らせてしまう。こんな未来があるなんて、考えもしなかった。


「…………」


 窓越しに桜の木が見える。今にも芽吹きそうに膨らんだ蕾。昔の俺には見ることができなかった、春の気配。

 頭の中がぼんやりと霞がかっていく。昔の記憶が、根こそぎ消えようとしているのが分かった。

 暖かな陽射しに目を細める。この優しい季節のために用意されたものだとしたら、冬だって案外悪くないのかもしれない。


 そして俺は、目蓋を閉じた。





 ◇◇◇





「……ユキ?」


 ハルの声で俺は我に返った。

 外を眺めながら、いつの間にかぼうっとしていたようだ。何かを考えていた気がするけれど、思い出せない。何か。大切な何か。……何だっけ。

 まるで夢から覚めたときのように、自分の思考がおぼつかない。首を傾げて振り向くと、寝転んだままのハルが目を見張った。


「お前、なんで泣いてんの?」

「え?」


 そう言われて頰に触れて初めて、自分が泣いていることに気付く。いつの間に。ますます不思議だ。


「……俺、なんで泣いてんの?」

「知るかよ」


 いいからこっち来い、と手招きされてベッドに近寄ると、身体を起こしたハルにそっと抱きしめられた。頬をすり寄せて、ハルの匂いを感じる。ハルは一度身体を離すと、怪訝そうに俺の表情を窺ってきた。


「お前、花粉症だっけ?」

「いや、全然」

「じゃあなんで泣いてたんだよ」

「分かんない。気付いたら涙出てた」

「……ふざけてんのか」

「マジだって」


 誤魔化しやがって、とハルが俺の頬を抓ったが、分からないものは分からない。少し不安げな表情のハルに再び抱きつき、俺はその温もりに深く息を吐いた。


「春だからさ、そういうこともあるんだよ」

「…………」


 ハルは無言に徹した。納得がいかない、と思っていることを気配で感じる。俺を心配してくれる。でも、口では言わない。そんな素直じゃないところも可愛い。


「ハル」

「ん?」

「大好き」

「知ってる」


 素っ気なく返ってきた言葉に、俺は思わず笑ってしまう。


「うわ、可愛くない」

「お前に可愛いなんて言われんの気色悪いだろ」


 憎まれ口を叩きながらも、俺を抱き締める腕に力がこもった。


 ——ああ、俺って超幸せ。


 幸福を噛み締めていると、温かさに負けてまた眠気がやって来る。春眠暁を覚えず。国語で習った言葉が頭に浮かんだ。勝手にまぶたが降りてきてしまう。


 柔らかなまどろみのなかで、聞き覚えのある声をした誰かが、頭のなかで笑った気がした。





 


【了】















評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ