第26話 光の外側で
「ねえ、これ……いつもの花屋さんで買った花ってことないよね?」
美咲が、直哉の手を引いた。
指先が冷たい。震えている。
「ありえる……よな」
口に出した瞬間、自分で否定したくなった。
――いや、ありえないだろ。
玄関の前に置かれていた花。
見覚えのあるラッピング。
いつも通っている、あの店のものに似ている。
だからこそ――気味が悪い。
「とりあえず、花屋の前を通ってから行くか?」
「まだあいてないと思うけど……」
「っていうかさ……あいつじゃないよな?」
「あいつって……相沢君?」
一瞬、間が落ちた。
「さすがに……そこまでしないんじゃない?」
「……俺もそう思いたいんだけど」
思い出す。
あいつの視線。
あの、妙に真っ直ぐすぎる感じ。
「そんなにヤバそうな人じゃなかったよな」
「……そう思う」
でも、と続ける言葉がどこか重い。
「でもさ……“うち”って言い切れないから、何とも言えないよな」
「それよね……」
静かに、息が詰まる。
――知られてるかもしれない。
それだけで、十分だった。
「でも、警察に言っておいた方が安心だと思うから、とりあえず行こう」
「直哉……大丈夫よね?」
美咲が、少しだけ強く手を握る。
「……ああ」
答えながら、視線を花に戻す。
誰が置いたのか。
何のために。
――考えたくないのに、頭から離れない。
「今日はさすがに……休み取る」
ぽつりと落としたその言葉は、仕事の都合じゃない。
“何かが始まった”気がしたからだった。
***
俺は証拠の写真を撮り、美咲と二人で警察へ向かった。
事情を話している間も、美咲の手はずっと冷たかった。
指先が、かすかに震えている。
ひと通りの説明を終えて――
警察署を出ようとした、そのときだった。
「あ……高木?」
入口の近くで、目が合う。
「ああ」
短く頷く高木の顔は、いつもより少しだけ硬かった。
「悪い。もしかしたら巻き込んだかも」
「いや、誰のせいでもない」
即答だった。
「やるやつがおかしい。それだけだ」
「……そうだよな」
一拍、間が落ちる。
「美咲は実家に連れていく」
「詩織は?」
「俺と住むことにした」
淡々と続ける。
「実家よりマンションの方が動きやすいしな。会社もあるし、俺が送り迎えすればいい」
「……なるほど」
理屈は通っている。
でも、それは――“何かを警戒している動き”だった。
「それがさ」
高木が、少しだけ声を落とす。
「窓の外にいたんだよ」
「……は?」
思わず聞き返す。
「誰かが」
視線が、わずかに揺れた。
「はっきりとは見えなかった。でも、絶対に人だった」
空気が、静かに重くなる。
「だから、そいつ……やばいと思う」
「どんなやつかわかるか?」
「わからない。ただ――」
高木が、わずかに眉を寄せた。
「花が落ちてた」
「……え?」
「マンションの前にも、花びらが落ちてたんだよ」
その言葉に、背中がひやりとする。
「……一緒、だよな?」
「でも、場所は離れてるだろ?」
「同じやつなのか……?」
誰も、答えられなかった。
「……わからない」
ただ一つだけ、確かなことがある。
――偶然にしては、出来すぎている。
***
「相沢君なのかな……」
美咲が、小さく呟いた。
「相沢君って?」
高木が眉をひそめる。
「花屋の男だよ。美咲のこと、たぶん好きなんだと思う」
直哉が答える。
「え?」
高木の視線が、美咲に向いた。
「それで……前にスーパー行ったときも、あとつけられたみたいでさ」
「そのとき、一回警察に相談してるんだよ」
「……こわっ」
短く漏れた言葉が、やけに重かった。
「で、土曜日に会う予定だったのも、やめた」
「俺も一回だけ会ったことあるけど……」
直哉が、少しだけ言い淀む。
「正直、そんなヤバそうには見えなかったんだよな」
一瞬、沈黙が落ちる。
“普通だった”という記憶が、逆に引っかかる。
「……でも、わからんからな」
「ああ……」
誰も否定できなかった。
花。
視線。
ついてくる気配。
点だったものが、ゆっくりと繋がり始めている。
――まだ、確信はない。
けど。
気づいてしまった以上、もう“ただの偶然”では済まされない。
***
「でもさ……その相沢ってやつを装ったストーカーの可能性もあるだろ?」
直哉が低く言う。
「それなんだよ」
高木が、すぐに頷いた。
「それに詩織までってなると……マジでわからない」
「しかも、家も離れてるしさ」
偶然にしては、出来すぎている。
「ねえ……私のせいで、詩織に何かあったらどうしよう」
美咲の声が、かすかに揺れる。
「いや、美咲のせいじゃない」
直哉が即座に否定する。
「そうだよ。美咲さんのせいじゃないって」
高木も重ねる。
一拍。
「……っていうかさ」
少しだけ迷うように、高木が口を開いた。
「俺、少しだけ思ったんだよ」
視線が、わずかに落ちる。
「デートのときに……見られてる気がした」
「……は?」
空気が、ぴたりと止まる。
「気のせいかと思ってた。でも、なんか視線がずっとあってさ」
思い出すように、言葉を選ぶ。
「だから……詩織の方かもしれないって思って」
「それで、こまめに連絡してたし、なるべく一緒にいた方がいいかなって」
「デートも、できるだけ入れてた」
そこまで言って、顔を上げる。
「だから――そっちには行かなかっただろ?」
その一言で、繋がる。
美咲側と、詩織側。
別々に見えていた違和感が、同時に“誰かの視線”に収束する。
――一人なのか。
それとも、別なのか。
答えは出ない。
でも。
どちらにしても――
“見られている”という事実だけが、残った。
――見られているだけだと思っていた。
この時までは。




