第25話 光のサイン
高木は、すぐに詩織へ電話をかけた。
「今から行く。すぐに行くから」
「待ってて」
「……うん」
短い返事。
それだけで、胸の奥がざわついた。
急がないと。
足が、勝手に速くなる。
信号も、景色も、まともに見えていなかった。
――無事でいてくれ。
それしか、頭になかった。
移動中、職場へ連絡を入れる。
「すみません、高木です。急用で、本日お休みをいただけますか」
それだけ伝えて、通話を切る。
余計なことは、何も言えなかった。
ただ、急ぐ。
早く。
――早く。
***
詩織の家に着く。
周囲を見回す。
……誰もいない。
本当に?
もう一度、視線を巡らせる。
物音もない。
人影もない。
静かすぎる。
ピンポーン。
「高木です。詩織、大丈夫か?」
すぐに、扉が開いた。
「入って……勇太……怖かった……」
詩織が、震えていた。
顔色も悪い。
でも――
怪我はない。
それだけで、力が抜ける。
「大丈夫。俺が来た」
自然と、言葉が出た。
「もう大丈夫だ。……ちゃんといる」
詩織の肩に、そっと手を置く。
「安心できないかもしれないけど……一緒にいよう」
「今日は、ずっと一緒だ。休みも取った」
「……うん」
小さく、頷く。
そのまま、少しだけ寄りかかってきた。
――ああ。
頼られてる。
***
高木は、初めて詩織の家に入った。
玄関を越えるのは、初めてだった。
こんな状況なのに――
(……少し、嬉しいって思ってる)
自分でも、どうかしてると思う。
(最低だな)
こんなときに、何考えてるんだよ。
でも。
それでも。
詩織が、俺を呼んだ。
頼ってくれた。
それだけで――
(……いいか)
そう思ってしまう。
部屋の中は、思っていたよりも落ち着いた空間だった。
柔らかい色合い。
整えられた家具。
詩織らしい。
「……ここ、座って」
「ああ」
ソファに腰を下ろす。
その瞬間。
――違和感。
ほんの一瞬だけ。
視線が、窓の方へ向いた。
カーテンが、わずかに揺れている。
……風?
いや。
窓は、閉まっているはずだ。
「詩織」
「え?」
「さっきの……変な人って、どこにいた?」
「……あそこ」
指差したのは、通りに面した窓の外。
「ずっと……立ってて」
「こっち見てたの」
ぞくり、とした。
もう一度、窓を見る。
――何もいない。
でも。
(さっきまで、いた)
確信に近い感覚。
「……大丈夫だ」
自分に言い聞かせるように、呟く。
「今日は、俺がいる」
詩織の手を、そっと握る。
「何もさせない」
言葉にした瞬間。
自分の中で、何かが固まった。
守る。
ちゃんと。
今度こそ――
絶対に。
少しの沈黙のあと。
高木が、口を開いた。
「あのさ……」
一度、言葉が止まる。
でも、そのまま続けた。
「俺の家で、一緒に住もう」
詩織が、顔を上げる。
「結婚しよう」
まっすぐに、言った。
「守るから」
その言葉は、迷いなく出ていた。
「……こんな時に何だって思うかもしれないけど」
小さく、苦笑する。
「いや、結婚は……後でもいい」
「でも、一緒に住もう」
「何かあったらって思うと……離れてるの、無理だ」
一つずつ、確かめるように言葉を置いていく。
「一緒にいたい」
「……守りたい」
詩織は、少しだけ目を見開いたまま――
そして、静かに口を開く。
「……私も」
その声は、震えていなかった。
「勇太と一緒がいい」
まっすぐに、返す。
「でも……怖いからとか、そういうのじゃないよ」
小さく、首を振る。
「ずっと考えてたの」
「結婚したいって」
言葉にするたびに、想いが形になっていく。
「本当は、土曜日に……お兄ちゃんとか美咲に相談しようと思ってた」
「ちゃんと、順番に」
「でも――」
一歩、近づく。
「相談するよりも」
そのまま、視線を合わせる。
「一緒にいるほうがいいって思った」
「だから」
一拍。
息を吸って。
「結婚しよう」
今度は、はっきりと。
高木の言葉を、なぞるように。
――重なった。
同じタイミングで、同じ覚悟が。
偶然じゃなくて。
ずっと考えてきた結果として。
「……でも、一つだけ」
詩織が、少しだけ視線を落とす。
「私、美咲のこと……好きなの」
「え?」
一瞬、言葉が止まる。
そのまま、続ける。
「友達として、だよ」
すぐに、言い直す。
「大切な親友なの」
ゆっくりと、顔を上げる。
「勇太のことは――結婚したいって思ってる」
「それは、本当」
はっきりと、言い切る。
「でも、美咲のことも……大事なの」
少しだけ、間。
「それは、ちゃんとわかってほしい」
まっすぐに見つめる。
「前に……嫉妬するって言ってたでしょ?」
小さく、笑う。
「だから、ちゃんと伝えておきたかったの」
「隠したくないから」
「……まあ、今に始まったことじゃないのは、わかってる」
小さく、息を吐く。
「高校のときから、ずっとだもんな」
「直哉も……べったりだって言ってたし」
苦笑する。
「さすがにさ」
一拍。
「俺だって、嫉妬くらいはする」
正直に、言う。
でも――
「でも」
詩織を見る。
「結婚したいのは、俺なんだろ?」
「……うん」
迷いのない返事。
「じゃあさ」
少しだけ、肩の力を抜く。
「俺との時間も、大切にしてくれるってことだろ?」
「うん」
もう一度、頷く。
そのまっすぐさに、苦笑が漏れる。
「……仕方ないな」
ぽつりと、零す。
「それなら、いい」
手を伸ばして、そっと引き寄せる。
「その代わり――」
耳元で、小さく。
「ちゃんと、俺のこと一番にしてくれよ」
わかってる。
それでも、言いたかった。
少しくらい、欲張ってもいいだろ。
「一番だよ」
迷いのない声。
その一言で、胸の奥がじんわりと熱くなる。
気づけば、二人とも少しだけ頬が赤くなっていた。
――そのとき。
ふ、と。
空気が、変わった気がした。
さっきまでとは違う、重たい静けさ。
高木の視線が、ゆっくりと窓の方へ向く。
カーテンの隙間。
――何かが、いる。
気がした。
(……誰か、立ってる?)
瞬きする。
もう一度、見る。
――いない。
ただの通りだ。
それでも。
さっき確かに、視線を感じた。
背中を、なぞるような気配。
「……どうしたの?」
詩織の声に、我に返る。
「いや……」
言いかけて、やめる。
不安にさせる必要はない。
「……なんでもない」
そう言いながらも、視線は窓から離れない。
外は、やけに静かだった。
まるで――
息を潜めて、こちらを見ているみたいに。
***
その頃。
美咲のマンションの前にも――
同じ花が、置かれていた。
エントランスの外。
オートロックの、すぐ手前。
誰でも入れる場所。
でも――
そこを選んで、置かれている。
まるで。
“ここまで来てるよ”と、示すみたいに。
風もないのに、花びらがひとつ揺れた。
誰もいないはずの入口を、見つめるように。




