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女伯ジャックと海の騎士 - Keukenhof's Kroniek -  作者: 辰波ゆう
第十一章 我が望みはひとつだけ
48/55

5 砂の城の蜜夜

R15 

「わたしも同じ言葉を返そう。おまえはもうわたしのものだ。フィリップには返さない。今夜はもう帰さない」

 おれの腕に抱かれたままで、おれの姫がささやいている。いつの間にか日が傾いて、空が朱く染まってる。りんごの白い花びらが夕風にひらひらと舞い、姫の髪の上に落ちた。まだ城の外にいたのだ。そのことに、ようやく気付く。城の木戸は開いたままだ。小さな扉は開けっ放しになったままで、風に押されて揺らいでる。

「女伯らしい馳走はできぬが、ふたりきりのうたげを張ろう」

 姫はすっと片手を伸ばし、木の扉を手で押した。姫に手をひかれるままに、頭を下げて扉をくぐる。中はがらんとした空間で薄暗い。調度は何も見当たらないが、奥の壁が戸棚になってる。壁一面の木の戸棚には鍵穴のある扉がついてる。ずらりと並ぶ扉のひとつを引き開けると、細い螺旋らせんの石段がある。

「これは『ジャック』の抜け道だ。この階段があることは、今ではわたしだけしか知らない」

 子どものような顔で笑って、石段を駆け上がる。城にはよくある隠し階段。抜ける先はたいがいが、塔の上の隠し部屋。

「わたしの部屋だ」

 隠し扉をふたつ開くと、ゆったりした寝室に出た。整えられた大きな寝台、木製の大きな長櫃。窓の板戸は開いたままで、海が見える。大きな夕日に染められた、朱色の空と海が見える。

「フランク、こっちへ」

 姫が隣の部屋から招く。そこには小さな木の卓があり、食事が用意されている。燭台には火が燈されて、卓を照らし出している。いくらかのパンに野菜、衣をつけて揚げた魚。焼き物の酒瓶に、グラスがひとつ。ささやかだが綺麗な盛り付け。美味そうな匂いもしている。姫は自分で戸棚を開けて、グラスをひとつ取り出した。ホラント伯の紋が入ったガラスのさかずき

「ワインもあるにはあるのだが」

 戸棚の瓶に手をかけて、姫君が振り向いた。

「フランクは、ビールのほうが好きだったな?」

 そう言われて驚いた。姫と共に食事をしたのは、あの祝祭の夜だけだ。トーナメントで優勝して同席を賜った、謝肉祭の夜だけだ。あの時はワインを飲み過ぎ、正体なく潰れてしまった。確かにビールのほうが好きだが、そんな話はしてないはずだ。

「ここのビールは悪くない。わたしもワインは飲まなくなった。だから」

「おれもビールのほうが好きです」

 姫の手のワインの瓶を、戸棚に戻す。

「ワインはディーツの酒じゃない」

 フランスのブルゴーニュこそ、ワインの産地。ブルゴーニュ公フィリップの宮廷でなら、ワインこそが飲むべき酒だ。

「貴女はこのディーツの地、ホラント女伯だ。飲むべき酒はむしろビールだ」

「そしてわたしの求めるべき手も、ディーツの男であるべきだった。最初から、そうだったなら」

 姫の眼がまた潤む。衝動的にまた口づける。最初からそうだったなら。

 けれど貴女は人妻だった。まだ子どもだったのに、ほんの子どもだったのに、貴女はすでに王子さまのお妃だった。けれど初夜の儀の前に、貴女はおれを求めてくれた。なのにおれは……

 姫のからだを抱きしめて、その口を強く吸った。柔らかい姫の舌が触れ、意識がふっと飛びそうになる。痺れるような妙な感覚、そして陶酔。


 しばらくしてからだを離し、見つめ合った。食事よりも貴女が欲しい。おれが言葉にする前に、姫のほうが口を開いた。ためらうようにおれを見つめ、そっとおれの胸に触れる。


「わたしはけして淫乱じゃない。わたしが欲しいと思う男は、あとにも先にもおまえだけだ」

「おれも同じだ。今おれが欲しいのは」

  

 その先は言えなかった。

 頭にかっと血が上り、何がなんだかわからなくなる。もつれるように寝台に行き、姫のドレスを剥ぎ取っている。おれももう服は着てない。いつの間に脱いだのか、それさえもわからない。ただ姫のからだに見惚れる。落ちかけた夕日の儚い光に、ぼんやり浮かぶ白いからだ。品のいい小さな乳房。その突起の柔らかい色。その乳房がおれに触れる。柔らかいふくらみの、優しい感触。

 姫の手がおれを愛撫しまた意識が遠くなる。こみあげてくる快感、たとえようもない充足。フランクはわたしのものだ。もう誰にも渡さない。何度も何度も姫がささやく。そうだ、おれは貴女のものだ。おれは貴女だけのものだ。


「その言葉、今度こそ信じていいか?」

 おれの腕に抱かれたままで、姫が聞いた。

「わたしの従兄フィリップはフランクを誑かし、わたしのものを奪い取った。フランクは今奪い返した。わたしはそう信じていいか?」

「おれの心は貴女のものだ。敵陣にあってさえ、貴女を忘れたことはない」

「わたしは必ず奪い返す。伯領も、奪い返す」

「それは無理だ」

 姫のからだを抱きしめたまま、きっぱり言い切る。

「善良公に貴女は勝てない。おれが貴女の側についても、善良公には到底勝てない」

「勝ってみせる」

 姫もきっぱり言い切った。

「わたしの従兄も万能ではない。現に今、『神の乙女ラピュセル』に阻まれている。ジャンヌとかいう神の乙女は、ついにシャルルを戴冠させた。聖油の儀を受けさせて、真のフランス王とした。善良公フィリップも、これで負ける」

 神の乙女、ラ・ピュセル。あるいはジャンヌ・ダルク。神のお告げを聞いた乙女に善良公は苦戦している。初めての、苦境に立ってる。

「おまえに戦をしろとは言わない。わたしの夫でいてくれればいい」

「姫?」

「神はあいつの味方ではない。あの決闘のときだって、神はわたしに味方していた。おまえがあそこで庇わなければ」

 腕の傷をぎゅっと握られ、おれは低い声で呻いた。矢傷はいまだ癒えてない。命にかかわることはなくても痛みはいまだ消えてない。裏切りの証拠の傷が、ずきずきと疼きだす。

「女たらしのあのフィリップに、神の加護などありえない。庶子は山のようにできても、正妃の子は育たない。ミシェル妃の子は早逝し、二人目の妃も子をなす前に亡くなった」

「だが、今度の花嫁イザベル妃は」 

「わたしが先に嫡子をあげる。継承者を産んでみせる」

「姫?」

「フィリップに嫡子はできない。神に逆らうあの男には、継承者など絶対できない。わたしが先に嫡子をあげれば、伯位はわたしの子が継げる。善良公には絶対に渡さない」

「だが、デルフトの和約では、明確に」

「『許可なく結婚してはならない』わざわざそう入れたのは、あいつがそれを畏れたからだ。だがそんなのは反古にしてやる。わたしはもうおまえの妻だ。違うか?」

 すっと熱が冷めてくる。つまりこれも計算ずくか? おれはまた、騙されたのか?

「密婚では嫡子にならない。結婚とは認められない」

「司祭と証人さえいれば、正式に結婚できる」

「結婚したいと言われたのは、それが理由だったのか? 相手は誰でも良かったのか!」

「違う!」

 悲鳴のように姫は叫んだ。

「おまえでなければうまくいかない。わたしはおまえの子しか産めない」

「どうしてそう言いきれる?」

「おまえでなければ苦痛でしかない。気持ちがいいふりなんか、わたしはできない」

「今は気持ち良かったのか?」

 姫の顔が朱に染まった。

「おれとなら、気持ちいいのか?」

 姫はこくんとうなずいた。

「ジャンとでさえダメだった。初めての床入りのとき、わたしは拒絶してしまった。本当の『初めて』は、おまえが見ていたあの時だ。ブラバン公とのあの床入りだ」

 イヤな記憶が蘇る。

「わたしは出血しなかった。だから母は、おまえのせいだと確信している」

「おれの、せい?」

「謝肉祭のあの夜に、わたしの処女を奪ったのだと」

「おれはなにもできなかった」

「もしも奪ってくれていたら、そしたら」

 また姫を抱きしめる。

「ハンフリーのことだって、ほんとに愛していたわけじゃない。おまえが行けと言ったから、行っただけだ」

「愛していると貴女は応えた。王子さまを愛していると」

「愛そうとしてみたけれど、やっぱりうまくはいかなかった。ハンフリーは嫌いではない。彼はわたしを愛してくれた。このわたしに溺れてくれた。だから愛し返そうとした。けれど応えきれなかった。夜のことは苦痛でしかなく、イヤでイヤでたまらなかった。やっとできた子どもだって、流れてしまった。神罰だと噂を立てられ、ハンフリーは信じてしまった。今はわたしも信じてる。愛してもいない男に、身を任せてしまった罰だ。愛しているふりをして、誑かしてしまった罰だ」

 姫の頬を涙が伝い、おれは胸を突かれてしまう。


「おれは貴女だけのものだ。司祭を見つけてすぐにも戻る。神のまえで正式に、結婚しよう」





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