6 ヤコバの肖像
司祭を見つけてすぐにも戻る。
言った時には本気だったし、不可能とも思わなかった。夢のような一夜が明けて砂丘の城を辞したときにも、改めて姫に誓った。そのとき姫は言われたのだ。信頼できる司祭を選べ。おまえを妬むものは多い。そのことを忘れるな。
姫の言葉に舞い上がった。おれのことを、気にかけてくださるのだ。思うともう夢見心地で、恩師のいる修道院へ馬を飛ばした。少年の頃の恩師は学識深い学僧だったが、信頼できる司祭でもある。今は修道院長だ。
恩師のもとに駆け込んで、至急お願いしたいことが、と切り出した。姫の名を出したところで奥の部屋に連れていかれ、話半ばで怒鳴られた。眼を覚ませ、フランク。君は誑かされている。
「誑かされてなどおりません。おれも姫も本気です。二十年想い続け、昨夜ついに想いを遂げた。どんな危険があろうとも、正式に妻にします。ですから」
「『どんな危険があろうとも』? その意味がわかっとるのか? 善良公のお耳に入れば君もわしも首を失う。そして姫は『伯位』を失う。デルフトの和約を忘れたか?」
「その危険を犯しても、姫はおれに言われたのです。ほかの男の子は産めない。おれの子しか孕めない。姫は」
「そりゃそうだろう。あの姫に手など出したら、タダではすまぬ。そんな無謀をする馬鹿は、君のほかには絶対おらん。やりかねなかった愚かものは、すでに全員死んどるからな」
「しかし姫は」
出血したのは初めてだ。破瓜みたいでわたしは嬉しい。姫はおれにそう言った。けれどそれはとても言えない。
「グロースター公のお子は、孕んだと聞いておるがな」
「けれどその子は流れてしまった。本当に愛したわけではなかったからだと、姫は……」
「愛情などまったくなくとも、行為をすれば子はできる。『姫』こそその証拠だろうが」
言われて言葉が返せない。姫の父上ウィレム伯と、姫の母上マルグリット・ド・ブルゴーニュ。愛情があったとは思えない。失せたのではなく最初から、まるっきり合わなかった。だからこそ「姫」は「ジャック」と名づけられ、継承者とされたのだ。次を作ろうなんて気は、どちらも全くなかったからだ。うわさはそう言っているし、はたから見てもそうだった。
「ほんとに君を愛しているなら、だから結婚したいなら、善良公に言えば良い。伯位を捨てると言いさえすれば、公は良しと言われるだろう。確かに身分違いだが、君は公の気に入りだ」
「では、善良公に言うべきですか? 真実を全て話して」
「馬鹿もん!」
また大きく怒鳴られた。
「君はほんとにわしの弟子の『フランク』か? 冷静さを失わぬ、聡明なフランクか?」
「ですが今、先生は」
「『伯位を捨てる』と姫が言うなら。わしがそう言ったのを、ちゃんと聞いておったのか? あの姫が、捨てると思うか? 『女伯』のまま子を生んで、その子に継承させる気だ。父上の血をひく子どもに、高貴なるベイエレン・ウィッテルスバッハ家の血をひく子どもに、伯位を継がせたいだけだ」
言われて頭を垂れてしまう。姫も確かにそう言った。伯位を捨ててもなんてことは、ひとことも言ってない。
「フランク。君はただの『胤馬』だ。用が済めば始末される、使い捨ての駒に過ぎない。父上の死の真相を、知らぬわけじゃなかろうな?」
「マルグリット・ド・ブルゴーニュは」
「そう。姫の母君。あの女が毒を盛らせ、君の父上フロリス卿を死なせたのだ。姫は知らぬと言うたのだろうが、そんなはずないだろう」
姫はおれに知らぬと言われた。そこはウソとは思えない。ボールセレはもともと鱈だ。姫は何度もそうおっしゃった。おれが葛藤していたことも、理解してくださっている。そしておれの裏切りも、姫は責めたりなさらなかった。「フィリップに」誑かされた、と言われただけだ。そしてほんとにそうなのだ。善良公フィリップこそが、このおれを誑かしたのだ。おれだけじゃない。ヨハン伯だってそうだ。彼の死で得をしたのは、結局善良公ではないか。「継承者なく死したときには、伯位は善良公に譲る」その条件で助力を申し出、そしてその通りになった。あの毒殺に善良公は、フィリップ・ド・ブルゴーニュはまさか……
「フランク。少しは頭が冷めてきたか?」
「はい」
善良公は油断ならない。だから誰もが公を畏れる。慎重に動かなければ、確かにおれは首を失う。そして姫は伯位を失う。今の会話が誰かに聞かれ密告をされただけでも、おれは確かにただでは済むまい。そして我が恩師だって。
「今の話はお忘れください。おれも忘れることにします」
神妙に頭を垂れて師のもとを辞し、ハーグに向かった。中途の仕事を放置している。おれは確かに冷静を失っている。今おれがすべき仕事は姫の財政たてなおしだ。姫の所有だったものの多くは今もハーグ宮にある。宮殿まるごと善良公が奪い取ったが、本来なら姫のものだ。姫の財産管理人なら、当然奪い返すべき。そしておれならできるはずだ。戦になど訴えずとも、別の手がある。おれの父フロリス卿は、姫の領地を質としてブラバン公に金を貸した。フロリス卿が死んでいる今、債権者は息子のおれだ。そしてその債務者は、借金を引き継ぐほうは、「ブラバン公」を継ぐものなのだ。姫の夫「ブラバン公」ももちろん継子は残していない。「ブラバン公」の称号をも善良公が手にするときこそ、返済を要求してやる。拒むことなどできないように、大勢の見ている前で。けれど時期は待たねばならない。
不穏な気持ちで戻ったところで善良公に呼び出された。公の私室に呼び出され、そしてそこで教えられた。イザベル妃は身籠っていて、九月には生まれるのだと。喜色満面たる公に祝いの言葉を述べながら、戦慄していた。これはただの偶然か?
「これで私も継嗣ができる。ブルゴーニュ公国を、継いでくれる子どもができる」
おれは黙って頭を下げた。
「ブルゴーニュにフランドル、エノーにアルトワ、そしてホラントとゼーラント。すべてをまとめた公国を、この子が継ぐのだ。私の妃イザベルは、男の子を産む」
善良公は断言をした。
「神の加護はヤコバではなく、この私の上にあるのだ」
「御意」
平伏したまま動けない。このひとに言いきられると、反論などとてもできない。
「そこで君に、頼みたいことがある」
どきりとして顔をあげた。
「適当な絵師を選び、ヤコバを描かせよ」
善良公の眼が光る。鋭く冷たい光を放つ。
「イザベル妃の肖像は、ヤンが描いてきてくれた。優れた絵師の描く肖像は、とても多くのものを語る。私の従妹の幸せは、君も真に望んでいるな?」
「つまり、花婿候補に見せるために?」
つまり、見合い用に送るために?
「そう」
善良公はにっこりとした。
「君はとてもわかりが早い。だから私は君が好きだ。君もわかっていると思うが、私が真に望んでいるのはヤコバ姫の幸せだ。『勝手に結婚してはならない』和約にそう入れたのは、今度こそ幸せな結婚をと望むからだ。姫にその自由を許せばまた同じことをする。この私と争うために、また操を売るだろう。ブラバン公との結婚もハンフリーとの結婚も、つまるところはそうだった。求めていたのは愛情ではなく、軍事力。あんな真似は二度とさせない」
おれはもう声も出ない。
「そして姫の配偶者なら、王族でなくてはならない。身分卑しい男には女伯ヤコバはもちろんやれない。姫の名誉を汚すのは、私の本意ではないからね」
「御意」
「君はヨハン伯のために、ヤン・ファン・エイクという偉大なる絵師を見つけた。残念ながら、彼は今遠方にいて頼めない。だから君に頼みたいのだ。ヤンにも劣らぬ絵師を見つけ、ヤコバを描かせよ」
「ヨハネスに、ヤン・ファン・エイクに劣らぬ、ですか?」
平静を繕って、顔をあげる。
「畏れながらそれは」
「君ならできると信じているよ」
親しげな笑みを浮かべ、善良公はそう言った。
「そして君に否はない。それは解っているだろうね?」
静かな脅しに逆らえなかった。おれは諾と言わされていた。けれど心は従ってない。姫はもうおれのものだ。善良公の好きにはさせない。全力で、抵抗してやる。




