2 葬礼の図
善良公と会ったことで、「もうひとつ」を思い出した。入れるべき絵は相当数あるのだが、そのうちふたつは姫じきじきの御指定がある。まず、神への祈り。「平和な海」は制作中だ。もうひとつが、死者へのミサ。亡き父ウィレム伯の葬礼の図を、と姫は言った。絵師ヨハネスには前にも話しているのだが、その時は軽く流された。ウィレム伯の葬礼は見ていないので、と。別の貴人の葬礼を見ることがあったら、その折に、と。そう言われると、せかしにくい。誰かの死を待っているようだから。
そしてこの仕事を通じて、どういうわけかブラバン公になつかれた。ヨハネスの描いた彼の姿はなかなか優雅な貴公子だったが、それが嬉しかったらしい。実際ふたりで話してみると、そこまでイヤなやつじゃない。並の身分に生まれていたなら、もっと素直に育っただろう。「公」の器でないことは、本人が自覚している。そしてヤコバ姫には、一目で惹かれてしまったらしい。
そんなことを知ってしまうと、気の毒にもなってきた。自業自得と思いもするが、彼も姫には棄てられたのだ。男らしく見せようとして、全てが裏目に出てしまった。ヤコバ姫との結婚は、彼にとっても不幸だった。いくらか優しい言葉をかけたら、公はますます近づいてきた。
だがヨハン伯のほうには、日に日に嫌悪が募ってしまう。何より気に障るのは、あの指を舐める癖。書物のページをめくるとき、ヨハン伯は指を舐める。これをやると書物が痛む。紙の本なら破れてしまうかもしれないし、装飾だってかすれるだろう。そしてそれは危険でもある。色のもとになる顔料は、毒物だってかなりある。だからやめろと進言しても、やめるのはその時だけだ。身にしみついた癖は、簡単には治らない。
だが全て巧くいってる。妹ノーラは嫁に行き、シント・マールテンスダイクの城と領地は母がきちんと取り仕切ってる。フランク自身はヨハン伯に気に入られ、ブラバン公にも頼られている。分不相応にも「摂政」という肩書まで頂戴している。ベリー公の手稿のほうも、ゆっくりだが進展している。イングラントも約束通り、「ネーデルラント」に手は出さない。善良公と結んだベドフォード公は「フランス」を争ってるが、その弟ハンフリーは大陸には手は出さない。ヤコバ姫を妻としたのは姫を愛していたからで、野心からではありえない。その証拠に宣誓している。大陸には手を出さぬと宣誓をして、結婚の許可を得ている。姫は今イングラントで、愛する男と幸せだ。だから、忘れろ。
「だがほんとにそれでいいのか?」
ささやいてくるものがあった。この男は根っからの鱈党だったから、最初耳を疑った。
「伯位はほんとは姫のものだ。ブラバン公は頼りにならんが、ハンフリーなら力になれる。ゼーラントは昔から、イングラントと手をとってきた。ヨハン伯は妻を娶った。じきに子どももできるだろう。その子が継承者となれば、姫はもう絶対伯位は取り戻せない。それでいいのか?」
子どもと聞いて、ついぎくりとしてしまう。「生誕」の絵は、ついこのあいだ描かせたばかり。ベリー公の手稿の挿絵に、「聖ヨハネの誕生」として。
モデルにしたのはちょうど子どもが生まれた婦人で、ヨハン伯の妃ではない。けれどあれは「祈願」なのだ。次はここの絵がいいな、言いだしたのはヨハン伯だ。つまりそういうことなのか? 「生誕の祈願」なのか? 自分の継嗣の生誕を、自分の伯位の安定を、その祈願を叶えるために?
「だから子どもができる前に、ヨハン伯を……」
「黙れ!」
フランクは声をあげた。
「今の話、おれは何も聞いてない。これ以上何か言ったら、伯の耳にお入れする」
それから十日と経たぬうちに、ヨハン伯が突然倒れた。私室で意識を失って、昏倒していた。持病があったわけでなく、部屋に引き上げた時には元気だった。だから誰もが毒を疑い、医者の見立ても「毒」だった。その日に供した食事、飲料が徹底して調査されたが断定できない。不審なものは特にない。寝具はかなり乱れていたが、妙なものは見つかってない。寝台の横に倒れた書見台にも、細工のあとなど見られない。床に転がっていた本は、伯常用の小型の時祷書。いつも使っていたものだから、不審ではない。
「時祷書」と聞き、フランクはドキリとした。ベリー公のあれではない。あれはまだ未完だし、特大サイズの別のものだ。だがこれにも係っていた。この小型の時祷書は、つい最近フランクが補修をさせた。指がいつもあたる部分が、はっきり痛んでしまっていたから。
「フランク」
低い声で名を呼ばれ、顔を上げる。鱈党の重鎮たるこの男は、真っ先にヨハン伯についたひとり。寵を競う重臣だ。
「最近、釣り針党と接触があったそうだな?」
「何をもって、『釣り針党』とされるのですか? ウィレム伯の臣下であったことがあるもの、と言われるのなら、おれ自身だってそうだ」
かつて鱈を敵に回した。フランクは、一度は釣り針側にいた。けれど先の男は違う。あの男は徹頭徹尾「鱈党」だ。正妃に子ができる前にヨハン伯をとささやいたのは、筋金入りの「鱈党」だ。名をあげてやろうか迷ったが、黙っておくことにした。
「けれど今のボールセレのフランクは、ヨハン伯の臣下です。鱈でもなく、釣り針でもない」
あえて大きく声をあげると、相手の男は黙りこんだ。廷臣たちが集まってきて、がやがやと詮議を始める。鱈でも釣り針でもありえない、ブラバン公の臣下も加わる。
「伯に亡くなられては困る。望む方もいるのかもしれないが、おれは困る。ようやく戦が収まったのは、ヨハン伯のお力ゆえです」
「伯に嫡子はまだいない」
甲高いこの声は、ブラバン公だ。
「庶子だけはごろごろいても、正妃は妊娠すらしていない。ヨハンさまが今死ねば、あのじゃじゃ馬が戻ってくるな」
ブラバン公がフランクを見る。懐くような眼ではもうない。
「ヤコバとは、まだ連絡とっているのか?」
「とれるわけがないでしょう! おれは姫を裏切った身です」
「裏切ったふりをしていた。つまり、そういうことではないのか?」
答えに詰まった。憎悪と猜疑に満ちたこの声、蛇を思わす不快な視線。嫌悪がまた蘇る。
「フランク」
弱弱しい声があがり、喧噪がぴたりとやんだ。寝台にいるヨハン伯が眼を開き、こちらを見ている。そして最初に呼んだのは、フランクの名。
「ここにおります」
どきりとしながら静かに応える。
「『あれ』は順調に行っているか?」
「ベリー公のあれでしょうか」
「そうだ」
満足そうに伯は応えた。
「ゆっくりですが、着実に」
慎重にそう応える。
「フランクは信頼できる。そなたの言葉は信用できる」
周囲のものがざわざわとする。釣り針党から寝返ったくせに、フランクは重用されている。快く思わないのは、いくらでもいる。
「フランクは助言してくれた。犯人ではない」
「閣下!」
「だから、フランク。犯人はそなたが捕えよ」
ヨハン伯はそれだけ言って、眼を閉じた。
「そなたにはわかるはずだ」
こう来られたら仕方がない。わざわざ名指しするというのは、疑念を持たれている証拠。そして皆が疑っている。あるいは密かに期待している。フランクが失脚すれば、そのポストが空席になる。
先の男はビクビクとしてはいたが、こいつではありえない。黒幕になりえるほどの大物でもなく、実行できる立場でもない。「フランクに」やらせようとはしたのだろうが、フランクはやってない。
厨房のものたちやら側仕えやらを真っ先に調べたが、怪しいものは見あたらない。だが、「無慈悲公」のふたつ名を持つヨハン伯には、腐るほどに敵がいる。調べ出すと思わず殺意を覚えるほどに、ひどいマネをやってきている。ひとつひとつ洗っていくのは気の重い仕事な上に、成果はまるで得られない。
気分晴らしがしたくなって、ヴァンフリートを思い出す。最近子どもが生まれているが、まだ祝いに寄ってない。ヤコバ姫の庶出の姉ベアトリスを娶った男も、今はヨハン伯の臣下だ。あの男と会って話せば、きっと気持ちも紛れるだろう。いくつになっても軽薄な男だが、だからこそ会えば愉しい。
「イェハンは在宅か?」
戸口で声をかけた瞬間、おかしいと気づいてしまう。ボールセレと名乗ったとたん、門衛がひきつったのだ。フランク自身より早く、従者のほうが目配せをした。いつもは連れてこない従者を今は連れてる。ひとりで動くと怪しまれるから、ここのところは必ず従者を連れている。
「お前の主人は御在宅かとお尋ねだ。返事は?」
フランクの従者のほうが高飛車に出て、門衛が身構える。
「遅くなったが出産祝いに寄っただけだ。留守なのか?」
あえて気安い声を作るが、門衛が殺気立ってる。押し問答をするうちに、奥方が現れた。子どもを抱いたベアトリス。いつも陽気なひとなのに、今日は口を開かない。神妙な顔になると、ヤコバ姫にいくらか似ている。腹違いでも姉だから、顔立ちは確かに似ている。そしてやっと思い出す。「誕生」の絵のモデルにしたのは、このひとの出産だ。絵師ヨハネスはこの家に来て、下絵の素描をしているはずだ。挿絵が出来上がりかけた頃、イェハンが一度来ている。見たいと彼が言ったから、工房に一度入れた。そういえば、ちょうどあの頃……
「イェハンは今具合が悪く、今日のところは」
ベアトリスが眼を伏せる。
「いや、大丈夫だ」
イェハン・ヴァンフリートが現れて、薄笑いを浮かべて見せた。
「フランクは友だちだ。やつれてたって、気にしないよな?」
「やつれているのは気になるが、もっと気になることができた。ちょっと一緒に来てもらいたい。おれのところでふたりで話そう」
「わかった」
イェハンは笑って応え、奥方にも笑顔を見せた。
「すぐ戻るよ」
その通りになることを、フランクは切に願った。思い過ごしであってくれ。




