3 不快な真実
R-15 残酷なシーンあり
工房のものについては、もちろん最初に尋問している。様子のおかしいものはない。ヨハネスが断言しているし、フランクの眼にもそう見えた。こういうことに慣れたものを今従者としているが、この男の意見も同じ。だからそこは安心していた。補修中の時祷書に工房で細工したなら、そしてこの騒ぎになったら、平静ではいられまい。あのあと辞めたものはなく、様子のおかしいものもない。外部からの侵入者もないと思うが、訪問者まではわからん。ヨハネスが言った言葉を思い出す。少なくない訪問者ももちろん全てチェックしている。だがひとりだけ抜けていた。ヴァンフリートは抜けていた。
「オレだよ」
ふたりきりで向かいあうなり、ヴァンフリートはあっさり言った。こちらは何も言ってない。まだ何も聞いてない。
「ヨハン伯の時祷書に毒を塗った。時と場所は、お前が想像してる通り」
フランクは言葉を失う。
「ほんとはお前がやるべきだった。違うか、フランク?」
ヴァンフリートの眼が光り、フランクは言葉も出ない。
「正しい伯位は姫のものだ。命に代えても姫を守る。オレもお前もヤコバ姫にそう誓い、ウィレム伯にも誓ったはずだ。ヨハン伯さえ死ねば姫は」
「イェハン!」
ヴァンフリートは理解しがたい笑みを浮かべる。
「オレには手の届かぬひとだ。だから」
「だからベアトリスにしたとでも? 庶出の姉で、ガマンしたと?」
「オレには正しい選択だった。ウィレム伯の娘でも、生母の身分はオレより下だ。だからこそ気楽だったし、うまくもいってた。一生うまくいくと思った」
「うまくいっていたじゃないか。子どもたちも次々生まれて、今日だって、ほんとにおれは……」
嘘だ。どうか嘘だと言ってくれ。フランクは動揺している。イェハンが犯人だったら、おれは……
「それでもオレは忘れられない。オレの仕えるべきひとは、ヤコバ姫の他にない。フランクだって同じはずだ」
「姫はもう負けたんだ。恥の戦を続けるよりは、恥の平和を。あれは姫のお言葉だろう?」
「その恥をすすぐために」
ぶるぶると手が震えだす。恥をすすぐためにだと? 姫の恥をすすぐために、毒殺を謀るだと? それこそ姫への侮辱じゃないか!
大きく息を吸い込んだ。なすべきことを、せねばならない。
「イェハン・ヴァンフリートはヨハン伯の死を願い、あの時祷書に毒を塗った。その言葉、本当に真実か?」
「本当に真実だ」
「あの本がヨハンのものとは、言った覚えはおれはない」
ヴァンフリートはここで初めて硬くなった。つまり、共犯者がいる。
「ヨハンの紋はついてない。見てわかるものじゃない」
工房のものたちにさえ、ヨハンのものとは教えていない。指を舐めて頁をめくる、教養のない持ち主のもの。それは見れば明白だ。だからこそ、言えなかった。仕えているヨハン伯に、そんな癖があるなんて。
「教えたものがいるはずだ。そいつの名を言ってくれ」
「誰も教えてなんかない。見ればわかる」
「どこを見ればわかるんだ?」
脈がはっきり速くなる。見ればわかる。確かにそうだ。ヨハン伯は、「フランクは助言した」と言った。「だからフランクは犯人ではない」たしかにおれは助言している。指を舐めて頁を繰るのは危険です。顔料には毒物も少なくない。その癖はおやめください。指がどこに触れているかは見ればわかる。「補修中」のそれを見れば、ハッキリとそれはわかる。あの癖さえ知っていれば「見ればわかる」。どこに毒を塗布すれば、高確率で口にはいるか、はっきりとわかってしまう。
「神さまが教えてくれた」
「イェハン!」
「見ればわかる」
「誰が教えた? 毒をどこに塗ればいいか、誰があなたに教えたんだ?」
「誰も教えてなぞいない。オレひとりでやったことだ」
「では毒の入手先は?」
「工房にあったやつだ」
イェハン・ヴァンフリートがにやりと笑う。
「教えたのはフランク・ファン・ボールセレだ。オレが何も言わなくたって、誰だってそう思う。オレを逮捕させるなら、はっきりそう言ってやるぜ」
「ヨハン伯は、おれではないとご存じだ」
フランクは静かに応えた。
ヨハン伯はこれを見越して、おれに捜査を命じたのだ。ほかのものが捜査してれば、犯人は「おれ」になる。そしてほんとに犯人ならば、おれは尻尾を出してるだろう。今ついてる「おれの従者」は、伯がおれにつけた男だ。おれを監視するために、常に側を離れない。そして今も、扉の外で待機している。この会話もきっと聞いてる。
「イェハン・ヴァンフリート。もう一度聞く。本当の共犯者の名を」
「おまえ以外に共犯など存在しない」
「では、ベアトリスは?」
「ベアトリスは何も知らない!」
真っ赤になって大声を出す。さっきの姿を思いだし、また深く息をつく。赤子を産んだばかりのひとだ。関わるとは思えない。最初から知っていたなら、逆に隠しおおせただろう。何も知らなかったからこそ……
「イェハン。共犯者の名を言いさえすれば、ベアトリスの身はおれが守る。だから」
「共犯はお前だけだ。工房にオレを入れ、機会を与えたフランクだけだ」
「イェハン!」
「ヨハンは姫を裏切った。助力を約束しておきながら、ドルドレヒトを奪取した。ホラントを掠め取り、伯領を掠め取り、ついには『伯』まで自称している。そのヨハンについてきたのは、機会を伺うためじゃないのか!」
「毒など使えば逆に姫を貶める。姫はもう負けたんだ。だからこそ、イングラントに」
「つまり、フランク・ファン・ボールセレも裏切り者か。姫のこともオレのことも裏切って、あのヨハンのほうにつくか!」
「共犯者の名を、黒幕の名を言ってくれ。そうすれば」
「そんなものは存在しない」
「それでは庇いようがない。そして見逃すこともできない。おれに話してくれないのなら、別のものに引き渡すことになる。そうなったら」
「好きにしろ」
ヴァンフリートはきっぱりと言い切った。
「オレはけして喋らない。立てた誓いはオレは守る。姫のためなら命など惜しくない」
眼の前がすっと暗くなった。「共犯者」はまさか姫か? いやそんなはずはない。実の叔父の毒殺なんぞ、姫が命じるはずがない。
だが姫なら知ってるはずだ。小さい頃によく本を読んで貰った。姫はそう言っていた。だから癖は知ってるはずだ。指を舐めるあの癖は、姫なら必ず知ってるはずだ。そしてあの時祷書は、かなり古いものだった。昔から携帯していたとヨハン伯も言っていた。幼い頃のヤコバ姫が、見ていた可能性もある。いやそんなはずはない。姫は今イングラントで、幸せにやってるはずだ。叔父を殺す必要はない。手を汚す、理由などない。
「姫はお前に期待していた」
上目使いにフランクの顔を見上げ、先を続ける。
「そしてオレも期待していた。結婚すらしてないお前が、きっとやってくれると思った。なのにお前はやらなかった。だからオレが」
「黙れッ!」
叫んで机をバンと叩いた。さらに大きな声をあげて呼ばわり、罪人を逮捕させる。地下牢に放り込み、ヨハン伯に報告をする。もう頭がまわらない。もう何も考えたくない。あれはただの罪人だ。卑劣な罪を自ら認めた、あきらかなる真犯人だ。だからおれはこうするしかない。こうするほかに方法などない。だから何も考えたくない!
「なるほど。あの男だったか」
病床のヨハンは言った。
「君に近しいものだろうとは、思っていたよ」
半身を起こし、フランクをじっと見ている。フランクは震えるしかない。牢屋に放り込ませた男は、間違いなく「近しい」友人。
「黒幕は、ヤコバだな?」
「……ヴァンフリートは否定しました」
フランクの声が弱い。あの否定が信じきれない。ヨハン伯が死にさえすれば、伯位は姫のものになる。ヨハンの死を望んでも、おかしくはない。
「黒幕はヤコバだと、思っているな?」
フランクは答えられない。
「指を舐める癖のこと、私の姪は良く知っている。そして毒の扱いも、私の姪は良く知っている」
「ヴァンフリートは、毒は工房にあったものだと答えています。教えたのはこのおれだとも」
「そうなのか?」
ヨハンはにやっとして見せた。
「違います。冷静に思い出してみましたが、補修中だった時祷書のことは何も……」
「君でないのはわかっとる」
呆れたようにヨハンがさえぎる。
「黒幕は私の姪だ。毒の入手先はおそらくあの商人だろう。マルグリット・ド・ブルゴーニュ御用達の」
「マルグリット・ド・ブルゴーニュ? 姫の母君?」
「あの女は毒使いだ。それは君も知っておろうが」
そういう噂はたっぷりあるが、真偽のほどまでは知らない。
「入手もとをつきとめて、毒消しを手配しろ」
「は」
「そして、黒幕がヤコバであるとその男にきっぱり言わせろ。そこさえはっきり証言するなら、ヴァンフリートの命は許す」
「今、なんと仰せでしたか?」
思わず耳を疑った。
「閣下に毒を盛った男を? 自ら罪を認めたものを?」
「毒を使って奪う伯位が、『正しい』ものだと君は思うか? 犯罪を謀るヤコバが、『正しい女伯』と君は思うか?」
フランクは返事ができない。姫だとは、信じたくない。
「君の友人ヴァンフリートは、騙されたのだ。悪女ヤコバに利用され、そして罪を犯してしまった。責められるべきはヤコバであって、騙された臣下ではない。彼の命を救いたければ、君の手で証言させろ。すべてヤコバが命じたことだと、あの男に明言させろ」
「共犯者はいるはずです。ですが、ヤコバ姫だとは、どうしてもおれには……」
「では、『本当の共犯者』の名だ」
「それさえ言わせることができたら、彼の命は」
「許す」
伯のこの言葉にすがり、フランクは友を責めた。死にたくなければ共犯者の名前をあげろ。黒幕の名前をあげろ。だがどうしても喋らない。刑吏の手に引き渡され身の毛もよだつ責めを受けても、ヴァンフリートは喋ってくれない。いつもべらべら喋る男が頑として口を割らない。姫だからか? ほんとに姫が黒幕なのか?
「黒幕など、存在しない」
苦しい息をつきながら、フランクを睨めつける。
「オレは誓いは死んでも守る。きさまのような裏切りは、絶対やらない」
「毒の入手はイングラントの商人からか?」
この問いには反応をした。怪しげな商人と会っていたのは、すでに調べのついた事実。姫のいるロンドンから来た薬種商。調べれば調べるほどに、ヤコバとしか思えない。ヤコバでなければ誰か教えたものがいるはず。ヨハン伯のあの癖のこと。指を舐めて頁をめくる、行儀の悪いあの癖のこと。
「黒幕は、釣り針党の手のものか?」
刑吏がぐいとハンドルを引く。鈍いイヤな音と同時に、押し殺した悲鳴が漏れる。
「答えろ!」
「姫ではない」
低く不気味な声が応える。
「正しい女伯である姫は暗殺なぞ命じない。正しい裁きを求める姫は、裏切り者は許さない」
奇妙なほどに明瞭に、ヴァンフリートは言い切った。そして意識を失った。
姫なのだ。
絶望的に、そう悟った。
姫の周囲で暗殺は何度もあった。そしてヨハン伯さえ消えれば、伯位は当然姫のものだ。ヨハン伯は姫を裏切り、姫の伯位を横奪している。実権だけと言いながら、すでに「伯」を自称している。だからこれは暗殺ではなく、正しい裁き。姫はそう言いくるめ、ヴァンフリートに毒を盛らせた。未遂に終わってはいるが、やらせたのは姫なのだ。だからこそ、ヴァンフリートは口を割らない。命に代えても守るべきは、主君たるヤコバ姫のみ。
哀れな男はさらに厳しい責めを受けたが、ヤコバの関与は絶対に認めなかった。ひとりでやったとだけ繰り返し、その果てに斬首された。その首はハーグ宮の門に晒され、さらにその身は四ツ裂きにされ塩漬けにされ、ホラント諸都市に送られて吊るされた。そして皆に知らされた。黒幕はヤコバなのだ。この男は命に代えても、その名だけは秘したのだ。そしてこんなザマになった。ひとびとは恐ろしげに噂した。ヤコバは魔女に違いない。そうでもなければここまで男を操れたりせん。
ヨハン伯は回復せぬまま衰弱していき、ヤコバのほうはここぞとばかりに軍を起こした。新たな夫ハンフリーの助力で艦隊を組織、五千の兵を引き連れて海峡を越えてきた。カレーの港はイングラント領だから、上陸に支障もない。イングラント支配下の北フランスを通過して、母マルグリットの待つエノーへと進軍してくる。ヤコバ率いるイングラントの軍隊はモンスの町に陣を張り、ネーデルラントに宣戦を布告した。




