1 黒衣の男 Anno 1424
「ブリュージュに行く。そなたも来い」
ホラント伯ヨハンがフランクに命じたのは、姫がイングラントに渡ってから四年経った春のこと。
その間にいろんなことがあった。まずイングラント王がパリで急死、二か月後にはフランス王も逝去した。ヤコバ姫は亡くなったイングラント王の弟、グロスター公ハンフリーとすでに正式に「結婚」していた。王に嫁いだフランス王女はすでに王子を成していて、ヤコバ姫が代母にもなっていた。まだ赤子のこの王子がイングラント新王として即位して、摂政は姫の夫ハンフリー。姫はかの地で確固たる地位を得て、幸せにやっている。
フランドルの美しい都市ブリュージュは、地元のものはブリュッヘと呼ぶ。善良公は今この町に宮廷をおいている。ヨハン伯が会いに行くのは、善良公フィリップだ。ブルゴーニュ公の宮廷で話されるのは当然ながらフランス語。だからブリュッヘではなく「ブリュージュ」への訪問だ。フランクは気が重い。
善良公には良い感情は抱いてない。やり手には違いないが、あの男は「女誑し」だ。前年にミシェル妃が急逝されて、この噂はますます高い。ミシェル妃の若死にも夫のせいにされている。浮気による心労という説はもっともなのだが、毒殺説まで飛び出している。そして、ヤコバ姫にも手を出そうとしていた男。ここのところは真実だ。拉致計画はほんとにあった。フランクの邪推ではなく、妄想でもない。無理やりにでも、自分のものにしようとしていた。だからこそ、妨害をした。
だが会ってみて驚いた。想像とはまるで違う。前にどこかで会った気がする。
噂どおり、黒衣を着ていた。善良公フィリップは殺された父の喪に服すため、黒しか着ないと宣言していた。だが「喪服」には到底見えない。光沢のある黒い布地は華やかで、上品な色香さえある。趣味のいい洒落男には違いないが、まず感じるのは頭の良さだ。学者めいたそれではなくて、視野も大きい。弁舌は爽やかで、機知もある。食わせもののヨハン伯が、主導権を奪われている。
「フランス王はイングラント王ヘンリーが兼ねています。一四二〇年締結のトロワ条約に従って」
きっぱりと言い切られ、あのヨハンが「そうですね」と応えてしまった。
「フランスの実権は、摂政たる王の叔父ベドフォード公のものです。自称『王』のシャルルなど、気になさることはない」
そしてにっこり笑って見せた。もちろん、善良公に廃嫡された「もと王太子シャルル」も自ら即位は宣言している。けれど「塗油」はできてない。ランスで塗油の式をあげ神の力を授かってこそ、「神聖なるフランス王」だ。「フランス人」はそう考える。だからフランス人から見ても、シャルルはまだ王じゃない。
「フランス王を名乗るシャルルは王の子ではありません。神聖な結婚による出生でなく、ただの浮気の結果でしかない。だからこそ、卑劣な騙し討ちができる」
父、無畏公の暗殺をさらりと持ち出す。会見に応じておいての暗殺だから、確かに卑怯な騙し討ちだ。
「だが」
善良公はまた白い歯を覗かせた。まさに「余裕」の表情だ。
「あなたの姪ヤコバ姫の夫だったトゥーレーヌ公は、正真正銘『王の御子』です。その次に生まれた王女カトリーヌも王の御子です。ここまでは間違いなく王の御子。生母であるイザボー王妃が明言されて、だからこそイングラントに嫁がせました。その王女が産んだ御子が、イングラント王ヘンリー六世。フランス王に即位して、なんの不思議もありません」
明確きわまりない主張。敵国『イングラント王』の子を『フランス王』に、という話なのに、納得させられてしまう主張。
「その摂政はベドフォード公ですな? グロスター公ハンフリーのほうでなく?」
「イングラントの摂政は、弟ハンフリーに任せる。ハンフリーはブリテン島を治め、大陸には手を出さない。ホラントには手を出さない。そこは宣誓させています」
「その宣誓、守らせて頂けますかな?」
「もちろんですとも。ホラントは叔父上のものです。若年の私としては、ムダな戦は極力避けたい」
そしてまた微笑んだ。男前とは言い切れないのに、妙にひとの気を惹く笑顔。善良公という男、思った以上にタダモノではない。だが条件は出さないのか? 見返りは求めないのか? 不安に思ったその瞬間、善良公と目があった。くっきりとした青い目が、嬉しそうにきらりと光る。
「君は、もしかして『フランク』か?」
「フランク・ファン・ボールセレと申します。パリで一度お会いしました」
フランクもやっと思い出し、こう応えた。「エダンの城」と言った少年だ。工房で会ったあの貴公子だ。
「やっぱりそうか!」
朗らかな声をあげ、親しげに言葉を続ける。
「また会いたいと思っていた。再会できてとても嬉しい」
「ありがたいお言葉、恐縮です」
「そう硬くなることはない。趣味を同じくするもの同士、気軽に話したいものだ」
この言葉にまた思い出す。このひとはやっぱり似ている。初めて会ったときの「ジャック」に。
「なら、ベリー公の手稿は君が?」
このセリフに完全にたじろいだ。なぜそれを知っているんだ? どうしてここで出てくるんだ? とまどううちに、ヨハン伯が口を挟む。
「良い絵師を見つけてきてくれましてね。ヤコバの姿も描かせてくれた」
「ほう?」
善良公の青い目が、またはっきり色を変えた。
「その絵はよく似ているのか? 本物の、私の従妹に?」
「実物より愛らしいかもしれませんな」
ヨハン伯がにやりと笑う。そして善良公のほうは、ちょっと怖い顔になる。
「あのひとならば、どう描いても実物よりは愛らしくなる。あの従妹に会ったものは誰もが魅入られ、そして服従してしまう。息を呑むほど美しいが、愛らしくはない」
真剣な声になって言い放つ。
「私は彼女が欲しかった」
そしてまた唐突ににっこりとした。
「思うようにはいかないものだ。私が独身だった頃には、姫はすでに結婚していた。今私はミシェルを失い独身になったのに、姫の夫はふたりに増えた」
姫は確かに再婚している。ブラバン公との結婚を無効とし、イングラントの王子さまと結婚している。海の向こうで幸せにやっている。睦まじいふたりの噂は、フランクも聞いている。イングラントの王子さまは、恥ずかしいほどベタ惚れだと聞いている。
「姫の夫はおひとりだけです」
フランクのこのセリフに、善良公の眉が動いた。神経質にピクリと動き、その下の眼が光る。
「もちろんひとりだ。重婚の罪を犯した二人目は、私はけして許さない。私の従妹を誘惑し、拉致した男は絶対に許さない」
ゾクリとしたその瞬間、ブルゴーニュの善良公フィリップは笑い出した。よく響く明るい声で、高らかに笑い出した。




