2 約束
「それは、無理だと思うよ」
ランベルトはあっさり言った。
「あいつはフランク以上に『変わり者』だ。気に入った仕事しか、絶対受けない。ぼくがとってやった仕事は、一度だってやってない」
「首を賭けた」
「へ?」
「このフランクの首を賭けた。どうしても彼に描いて欲しい」
「なんで?」
「惚れてるから」
「ぼくの絵には惚れてないのか?」
「心変わりしてしまった」
ランベルトは肩を竦めた。
「しょうがないな」
「そうだな。しょうがない」
フランクは笑ってみせた。
「おれだって同じだよ。ほんとはおれも、自分で描いてみたかったんだ。ランベルトみたいに」
「おまけみたいに言わなくていい」
「おまけじゃないさ。ランベルトが描いてるのを見て、おれも描いてみたくなった。説教臭い絵じゃなくて、物語を語る絵だった」
「そりゃ、世俗本の挿絵だったし」
「ほんとはそっちのほうが好きだ」
「え?」
「今おれが関わってるのは『時祷書』の体裁だ。だけど、ヨハン伯は聖職者じゃない。信仰心さえろくにない。司教冠より、王冠が欲しい男。祈りのための本なんか、ヨハン伯は求めていない。権勢を誇示するために、本を求める」
「そういうの、大嫌いじゃなかったっけ?」
「ヨハン伯はただの『財布』だ」
ヨハン伯は大嫌いだ。それでも彼に仕えているのは、これに関わりたいからだ。ベリー公の遺した夢を、おれの手で繋ぎたい。姫がおれに託したのは、そういう意味だと思いたい。ベリー公そのひとは、おれは会ったこともない。なのになぜか感じてしまう。このひとは同類だ。書が好きで本が好きで、それだけに没頭したい。金も時間も、持てる全てを注ぎ込みたい。フランクにはできないことだが、ベリー公にはそれができた。ベリー公は、フランス王の弟だ。頭のおかしいシャルルではなく、賢王シャルル五世の弟。
「その財布を握っているのは、財務官たるフランクだ」
「けれどおれの財布ではない」
「それでもあんたが絵師を選んだ! お気に入りのヨハネスを!」
「ランベルト?」
「ごめん」
旧知の絵師は下を向いた。
「あいつのほうが絶対的に巧い。それはぼくもわかってる」
「おれの財布で頼むときは、君に頼む」
「ぼくのほうが安いから?」
「個人的な絵を頼むなら、気心知れた君がいい」
「個人的って?」
「じゃあ、今から先に注文しとく。おれがもしも結婚したら、妻の絵を君に頼む」
「つまり、肖像?」
「肖像頼めるくらいの地位には、必ずおれはついて見せる」
ランベルトは息をついた。
「そっちはきっとできると思うよ。今だって、気安く話しちゃいけない身分だ。ホラント・ゼーラントの総督にして財務官、フランク・ファン・ボールセル様」
「敬語使うなら、もう会わない」
「今さら敬語なんか使うか」
「じゃあ、何が言いたいんだ」
「その約束は、守る気のない空約束だ」
「どういう意味だ?」
「『おれがもしも結婚したら』」
「え?」
「フランクは、結婚する気なんかない」
恨みがましく言われたが、確かに「今」はそうかもしれない。
「ぼくに頼む気なんかない」
「頼む気はある。物語の挿絵だったら、君のほうがいいとも思う」
「じゃあ頼めよ」
「伯は今欲しがってない」
あの男は永遠に、そんなものは望まない。愉しみだけの書物など、あの男には縁がない。
「おれも、今はまだ余裕がない。おれが結婚する気になれるかどうか、それも『こいつ』にかかってる。ヨハン伯がここに描かせたがっているのは、自分に挨拶する姫だ。伯位を諦め、王子さまのほうをとる。叔父のヨハンを伯と認め、頭を下げる姫の図だ」
「フランク?」
「その背景は海の絵だ。波もなく穏やかで、帆船が行き来している。軍船ではなく商船だ。ホラントの平和な海辺。いつか彼が素描していた、あの絵が欲しい」
「わかった」
ランベルトは顔を上げた。
「確かにぼくには絶対描けない。弟にはぼくのほうから話しておくよ」
「助かる」
「『定型にとらわれず、革新的な絵を描いていい』伯はそう言ったんだよな?」
「そうだ」
やっとふたりの眼が会った。だからこそ「彼」なのだ。
そして初めて「彼」に会った。ランベルトとは全く似ていず、むしろ年は上に見えた。聞いてみたらフランクより年上だ。童顔のランベルトは確かに十は若く見える。そう思って眺めてみれば、こっちのほうが年相応だ。
口数は少なかったが話してみて驚いた。尋ねてみれば意外なほどに深く答える。聞きだせば、いろんなことがどんどん出てくる。博識とはこういうことかと思うほどに、ありとあらゆることに詳しい。けれどその仕事は遅い。恐ろしく時間がかかる。海もまた改めて描きに行ったし、人物も全て素描してきた。会えない姫の姿は描けないとか言い出したので、その姿の説明をした。姫の容姿を語っていたら、いつの間にか描いていた。
フランクが語る言葉に、絵描きの手がかたちを与える。すらりとしたその肢体、小さくて愛らしい手。すんなりとした鼻のかたち。いや、そんなに短くはない。小鼻はそんなに張ってない。絵描きは黙って少し直した。そう。そんな感じだ。眉は細いがくっきりしている。優美な弧を描く眉が、白い肌を引きたてている。そして眼窩に輝く瞳。ひとの心を捉える瞳。輝く瞳はホラントの空の色だ。良く晴れた秋の空のような、冷たく澄んだ色をしている。すましていれば冷たい眼だが、笑みこぼれるとまるで違う。無垢な微笑。嬉しそうなあの微笑。初めて会ったあのときの、ジャックの顔だ。描き出されたその笑顔こそ、あのときのジャックの顔だ。いくらかおとなになってはいるが、おれのジャックがそこにいた。これだ。この表情だ。この顏で描いてくれ。フランクがそう言ったとき、ヨハネスはニヤっと笑った。これなら描ける。見えないものは描けないが、あんたの言葉が見せてくれた。俺に見せるほどの言葉で、あんたは熱く語ってくれた。
そして画材の要求がまた凄まじい。あの色は、宝石砕いて作るんだろう? ジャックの言葉を思い出したが、まさにその通りだった。顔料のもとになるのは色鮮やかな宝玉貴石、装飾に使う金箔だってホンモノだ。金の色も、純金の粉から作る。筆から何から桁違いに贅沢なことを言ったが、すべて黙って受け入れた。すでにある枠飾りがそうなのだから、主体となる細密挿絵に安価な画材は使えない。安い紙はすぐに痛んでしまうように、安い画材は時間が経てば色褪せる。金や貴石の色は褪せない。永遠に輝き続ける。だからこそ高貴であり、値段も張るのだ。普段財布の紐の堅い財務官は要求のままに資金を与え、積極的に助力した。ここに金は惜しみたくない。それはむしろフランクの想いだった。制作を覗きに行くのは、何よりの愉しみだった。




