1 海辺の祈願
フランクは姫を断ち切った。
騎士物語の夢ではなくて、現実のほうを選んだ。ゼーラントの領主の子として、その地を守らなくてはならない。海からも、戦禍からも、必ず守り抜かねばならない。それこそが、「なすべきこと」だ。戦禍から守るためには勝者の側におらねばならぬ。負けの決まった釣り針側に残るのは、領民への裏切りだ。だから。
だからヨハンについたのだ。ヤコバ姫の最大の敵、モト司教である叔父ヨハンに。ブラバン公の財務官となっていた父フロリスは、ヨハンにも取りいっていた。その息子フランクも、いつの間にかそうなっていた。そしてもう、引くに引けない。
父フロリスが逝去していた。
軽い風邪のようだったのに、あっけなく逝ってしまった。遺されたフランクがシント・マールテンスダイクとズイレンを継承するや、ズイレンの城が攻められた。防戦に出る前に徹底的に破壊され、完全に廃墟と化した。本城シント・マールテンスダイクが残っただけでも幸いと思うべき。フランクはじっと耐え、報復には出なかった。反撃に出てしまえば、再び戦になってしまう。戦を避けるためにこそ、あえてヨハンについているのだ。挑発には絶対に乗ってはならない。
そしてヨハンの手元には、ベリー公の手稿があった。未完の手稿はあれからまったく進んでいない。ヨハンはあれを抵当に入れ、対ヤコバの戦費にしていた。そして金を貸していたのは、フランクの父フロリスだ。ここに来て初めて知ったことだが、父フロリスは大金を貸していた。ヨハン伯にもブラバン公にも。だからこそ、財務官になれたのだ。財務官という官職は金で買うものでもあった。フランク自身、自覚は全くなかったのだが財務の仕事はずっと前からやっていた。計算しやすいアラビア数字もフランクには馴染みだったが、使うものは意外と少ない。帳簿をつけるということだけでも、きちんとできるものは少ない。「紙」が手に入らなければ、帳簿つけなど不可能でもある。フランクの育った城には羊皮紙はなかったが、「紙」ならいくらでもあった。どこでもそうじゃないと知って、正直かなり驚いてもいた。金勘定のできるものは、貴族にはかえって少ない。卑しいものの仕事とみなし、できる下人を雇ってやらせる。ウィレム伯の財政も、貴族ではない男がみていた。身分はなくとも、能力と金はたっぷりとある男。
「この手稿は望みをかなえる。そなたはそう言っていたが、本当にそうだったな」
ヨハン伯がにやりと笑った。
「未完であれだけの金の担保になるなら、完成したら凄いだろうな」
高貴なお方の下世話なセリフに溜息をつく。だがそれはどうだっていい。おれはこれの続きがやりたい。自分で描くのはかなわなくても、制作には関わってみたい。
「おれに任せて頂けますか?」
思い切って言ってみた。
「神への祈願のこのページには、平和な海辺の絵が欲しい。軍船でなく、平和な船が行き来する、穏やかなホラントの海」
頭のなかにはあの絵があった。十年前にパリで見た、あの素描。あんな絵は、あとにも先にも見たことがない。
「いいな」
ヨハン伯も乗り気になった。
「ホラントもゼーラントも海の国だ。その海が穏やかであるように。ホラントの、君主の祈りに相応しい」
ホラントの君主の祈り。そしてホラントのひとの祈り。
「だが、海だけじゃつまらんな。私の姿も描いて欲しいな」
そら来た。と思ったところで先が続いた。
「ここはやはり、和約のシーンにするべきだろう。ヤコバが私に頭を下げているところ。平和を求めて穏やかに退く、あのじゃじゃ馬をここに描かせよ」
大きく息を吸い込んだ。姫がイングラントへと退いて、確かに戦は収まったのだ。異論はない。
「は」
「描かせる絵師にあてはあるか? できれば安いやつがいいな」
また来た、と思ったが、「彼」ならそこまで高くないはず。だがあの技量は千金に値する。
「あてはあります」
「ほう?」
「ヨハネス・ド・エイク」
ランベルトのあの弟だ。相変わらず、仕事にはあぶれているらしい。
「ド・エイク?」
「当代第一の絵師、フーベルトゥス・ド・エイクの弟です」
「ファン・エイクか? ゲントの聖バーフの?」
「そうです」
「本人じゃないのか?」
「違います。フーベルトゥスは祭壇画の大作で忙しいとか」
「それは聞いとる」
「年の離れた弟なので、まだ知名度は」
「名は、ヨハネス?」
「閣下の御名とラテン語では同じです。ヤンもしくはヨハンと名乗ることもあるかと」
「居所を知っているのか? 行方不明と聞いていたが」
そのセリフで驚いた。
「『フーベルトゥス』、つまり兄のフーベルトのほうは昔からよく知っておる。エイク村の修道院にいた頃からやつの腕は有名だった。そして、信仰の深さでも」
この男が「リエージュ司教」だったことを思い出す。彼らの出身地であるエイク村は、リエージュ司教領内にある。マース川で繋がっている。
「では、『エイクのヤン』の名でご存じですか?」
「ヤンと名乗るマースラント人のくせに、ラテン語でヨハネスと署名する、クソ生意気なガキだったな」
ヨハン伯はにやりとした。
「無礼なことを言いおったゆえ絞首にしてやろうと思ったが、逃亡された」
「では、探すのは止めておきます。居所は知りません」
「あいつの腕は確かなのか?」
「あの男を死なすなら、それは神への冒涜です」
「フーベルトより巧いのか?」
「革新的な絵をお望みならば、彼を置いてありません」
「言い切ったな」
「ご満足頂けなければ、おれの首を差し上げます」
フランクはヨハン伯の眼を見つめ、にっこりと笑って見せた。これはおれも譲れない。必ずあいつに描かせてみせる。




