2 決別 Anno 1421
「ブラバン公」はホラント、ゼーラントの側についた。妻ヤコバの敵である、伯父ヨハンの手をとった。これはまだ、「妻」ヤコバにはバレてない。夫婦としての交渉はなく、政治的な連絡もない。この結婚は、完全に失敗だった。政略として結婚したのに、政略さえ機能してない。そしてもう、完全に破綻している。裏切り者の夫など、ヤコバ姫にも無用の長物。そして親愛感情などは、最初からまるっきりない。「内縁」のままであったら、とっくに終わっているはずだ。けれどふたりは「結婚」している。胸クソ悪いあの「密婚の儀」のあとで、正式に挙式している。神の前での愛の誓いは、どうしたって覆せない。教会での結婚は、離婚で解消などできない。
「あの結婚」なら無効にできる。
釣り針党にささやかれたとき、フランクの心は動いた。そうだ。その通りだ。フランク・ファン・ボールセレこそ、つまり「おれ」こそ、何よりそれを望んでる。
特赦を出した法王が撤回文を出してる。「戦を避けるものとなるから」という理由が完全に間違っていたわけだから、撤回して当然だ。それに根拠はもうひとつある。姫の母マルグリット・ド・ブルゴーニュはブラバン公にも伯母にあたるが、代母でもある。洗礼のときに指定される「代母」というのは「魂の母」であって、宗教的には実母も同じ。はなから認められるはずもない。「無効」を申し立てさえすれば、必ず通る。あんなやつから、姫を自由にしてやれる。そして真に望む相手と、今度こそ。
姫が真に愛するひとは、もちろんこのフランクではない。そのくらい、百も承知だ。おれでは姫にはそぐわない。そのくらいわかってる。姫の相手は本物の王子さまだ。高貴な姫にふさわしいイングラントの王子さまと、姫は今「恋」をしている。
姫の相手は現国王の弟君の、グロスター公ハンフリー。この名はよく耳にしてきた。姫の父上今は亡きウィレム伯も、名を挙げて褒めておられた。フランスとの戦では華々しく活躍してるし、男前とも聞いている。絵師が見せたスケッチだって、見惚れるような男ぶり。伝え聞く言動だって、男らしく好もしい。どこから見ても、釣り合う相手。姫とは手紙のやりとりがある。かなりまめな交換がある。巷でうわさになるほどに、恋文を交し合ってる。
手紙のやりとりと聞いてしまうと、落ち着かない気持ちにもなる。ノーラの手紙、自分の手紙。姫のことは、ノーラがたっぷり書いてきている。だから身近に感じてもいる。けれど姫は関わってない。姫が書かせた文面ではなく、こちらも姫には宛ててない。あれは妹宛の手紙で、姫は露知らぬこと。姫は御存知ないことだ。おれはただの臣下のひとりだ。お側に仕えるものですらなく、侍女のひとりの兄にすぎない。しかも密かに裏切っている。それでも想いはウソじゃない。姫のことを想う気持ちは、それだけは真実だ。
昂ぶりそうな気持ちを鎮める。考えても埒もない。「フランク」では手が出ない。騎士ですらないおれの手に、届くようなひとじゃない。たとえ想いが通じてもどうにもならない関係だ。愛人になどなりたくはない。欲しいのは肉体じゃない。姫に汚名を着せたくはない。淫婦などとは言わせたくない。フランスの淫乱王妃イザボーのようなことは、絶対に言わせたくない。
ヤコバ姫は高貴の姫だ。王子さまの妃となって、王妃ともなるべき姫だ。だからおれは喜ぶべきだ。イングラントの王子さまなら、ウィレム伯も喜ぶだろう。ネーデルラントが結ぶべきは、ブルゴーニュではなくイングラントだ。マルグリットが臍を噛んでも、それはむしろ小気味いい。今度こそ、ほんとの恋を勝ち得て欲しい。そして幸せになって欲しい。ヤコバ姫の幸せこそが、おれの望み。
マルグリット・ド・ブルゴーニュは、姫の母であるひとは、娘のことなど考えてない。あの女にとって姫は、娘ではなくただの「駒」だ。だからこそ、あんな奴と結婚させた。ブラバン公の称号を持つ、頼りないあの少年。公そのひとは頼りなくともブルゴーニュの血族だ。そして「ブラバン公領」がある。ブリュッセルにアントウェルペン、そしてルーヴァン。華やかな都市をいくつも抱え、富と力のある土地だ。そしてあの少年ならば簡単に「駒」にできる。あの女はそう考えた。実際、彼女は「代母」でもある。だから口出しできる立場。そううまくはいかなかったが、いくと思って結婚させた。そしてあんな不幸を招いた。
「ウィレム伯」のはずがない。今となっては確信できる。伯がもしもご存命なら、もっとほかを探したはずだ。伯ならば選ばない。あんな相手は選ばない。「ウィレム伯の遺言」では絶対にありえない。あれは「ブルゴーニュ」の陰謀だ。自分たちの利益のために、血族を押し付けた。ブルゴーニュの血をひくからこそを、姫の夫に押し付けたのだ。
ブルゴーニュの新たな当主は善良公だが、この路線は継続している。操りやすいブラバン公を姫の夫にしておくほうが、善良公には好都合。教会での結婚は神聖なる秘跡であって、覆せるものではない。そう明言しているらしいが、その実自分は浮気ものだ。物凄い女誑しとランベルトが言っていたが、その形容ではまだ甘い。毎年毎年庶子を作って、奥方を嘆かせている。名を挙げられる女性だけでも二十人は軽く超える。すこぶるつきの浮気ものは、ヤコバ姫にも目をつけている。勝手な真似をする前に、自分のものにしようとしている。一度でも抱いてしまえばどんな女も自分のものだ。自信家の色男なら、そのくらい考える。
姫はまだ御存じないの。
ノーラが一度呟いた。じゃあお前は知っているのか? あけすけな兄の問いに、未婚のこの妹ははっきりイヤな顔をした。けれどはっきり返答もした。当たり前じゃない。ウィルキンさまは、素敵だったわ。
未婚の兄はそこで黙った。けれど意味はさすがにわかった。そしてひどく不安になった。ブラバン公は一度抱いて嫌われた。自分だってそうかもしれない。けれどあの善良公なら? 「凄い女誑し」なら?
何をバカな。
そう頭を振ってみても、かえって想いは募ってしまう。おれは「ジャック」が忘れられない。騎士物語の中の夢を、おれはいまだに忘れられない。望みのない夢だとは、わかっているはずだった。なのに断ち切ることができない。勝ち抜いたのはおれなのだ。姫はおれが勝ち取ったのだ。その想いが今も消えない。二十代も半ばとなって、想いはむしろ強まっている。だから誰とも恋ができない。結婚なんか考えられない。
伯領は、この子に継がせる。ウィレム伯は明言をして、そして「ジャック」と名をつけた。肉体は女であっても、心は男として生きろ。「ジャック」は健気に従って、今までずっと闘ってきた。勇敢に立ち向かい、無様な真似はしていない。その点は誰もが認める。誰もが仰ぎ、賞賛している。だから、もう退いてくれ。
イングラントの王子さまなら、ヤコバ姫には相応しい。浮気相手なんかじゃなくて、独身の王子さまだ。評判だって悪くない。理知的で勇敢で、正義感に溢れた騎士だ。敵方の噂でさえもそう言っている。まさに理想の王子さま。だからその王子さまと、幸せになってくれ。そしておれを解放してくれ。
おれは馬に飛び乗っていた。がむしゃらに駆っていた。
じっとしてはいられない。会わずにはいられない。ホルクムへ馳せたときと、よく似た焦り。
姫の滞在している先は、すでにおれは承知していた。マルグリット・ド・ブルゴーニュは同行ではない。そのことも、知っていた。姫の母は「ブルゴーニュ」と接触している。姫の「恋」を邪魔するために、色男の甥フィリップと密会している。娘ヤコバを誘惑し、仲を引き裂け。そのくらい言うかもしれない。イングラントと手を結ぶのを、あの女はひどく嫌った。手段を選ばず妨害するに違いない。
姫のもとを密かに訪ね、門を叩く。内密で、言上すべきことあり。姫さまに直々に、大至急お会いしたい。切羽つまったおれの声と、姫より下賜された指輪。それが効いた。門番は取り次いでくれ、小さな部屋におれを通した。
やがて姿を現したのは、男装の姫。小姓の衣装に身をやつし、女官も誰も従えてない。けれど態度はいつもの姫だ。いつものように手を差し出して、臣下の礼をおれに求める。おれも膝をついて応え、主君の手に口づける。
「どうしてわたしがこことわかった?」
儀礼のキスを受けながら、姫はまずそれを尋ねた。
「情報網はおれにもあります」
姫を見あげておれが応える。姫はおれに「立て」とは言わない。膝をついたままのおれを、主君の姫が見下ろしている。
「それで、内密の話とは?」
「善良公が、ブルゴーニュのフィリップさまが、密かに手を回しています」
姫はふっと笑みを浮かべた。
「あの従兄なら、常に何かこそこそやってる。今に限ったことじゃない」
「貴女を捕らえようとしている。力を貸すふりをして、幽閉してしまう気です」
「だからおまえが助けにきたのか?」
からかうように姫が続け、おれは黙って唇を噛む。おれに姫は救えない。姫はよく御存知だ。騎士ですらない今のおれでは、できることは限られている。
「あいつが企んでることくらい、とうに承知だ。あの従兄は味方ではない。フィリップ・ド・ブルゴーニュこそ、最も警戒すべき男」
「そのことがおわかりならなぜ」
「わたしでは、敵わぬとでも?」
「貴女では敵いません」
言い切ってまた顔をあげる。
「ホラントもゼーラントも、ヨハンを認めてしまいました。貴女は孤立無援です」
「釣り針党のものたちがいる。そして鱈の中にだって」
ヤコバ姫がおれを見おろす。青い瞳が射るように、おれの目をまっすぐ見おろす。
「貴女に心を寄せるものは、確かにまだたくさんいます。けれど力が足りません。我らでは、貴女を守り抜けません」
姫がすっと視線をそらす。
「おれに今できることは、貴女を逃がすことだけです」
「逃がす?」
姫はおれに背を向けた。男の服を着た背中、小姓の脚衣をつけた脚。痛々しいほど小さなからだ。このからだで陣頭に立ち、姫はずっと戦ってきた。並の男たちよりずっと、勇敢に。けれど貴女は勝てなかった。「女だから」という理由で、男どもは従わなかった。ホラントは、貴女の支配を受け入れなかった。だからおれには守れない。おれひとりでは、守れない。
「貴女を守ってくださる方が、海の向こうにおられるのでしょう?」
姫の肩がぴくりと動く。
「このわたしに海を渡れと?」
「手がすでに回っています。企んでいるだけじゃなく、すでに準備を整えている。だからこそ、おれの耳にも届いたのです。姫が『今』どこにおわすか」
「フィリップが承知している。わたしがここにいることを、わたしの従兄も把握している。おまえはそう言いたいのか?」
「撹乱はしておきました。けれど時間の問題です。いずれここを嗅ぎ付ける。貴女の身柄は善良公フィリップさまの手に落ちる。そして好きにされてしまう。それだけは、おれはイヤだ」
「逃げるのはイヤだ」
姫の眼がきらりと光った。
「伯位はこのわたしのもので、ヨハン叔父のものではない。今わたしが海を渡れば、諦めることになる」
「貴女はよく戦った。十分に戦った」
強い光を放つ瞳が、細かく震える。
「お許し下さい。我らの力不足です。今の我らに撃退はできません」
フランクは頭を垂れた。
そうなったのは「父」のせいだ。フロリス・ファン・ボールセレが裏切ったせいなのだ。父が余計な仲介をして、ブラバンはヨハンについた。だからもう勝ち目はない。ブルゴーニュの手を借りるなら、それは姫の勝ちにはならない。姫の母上マルグリット・ド・ブルゴーニュは、味方ではない。駒にされる貴女などもう絶対に見たくない。そしてあの善良公は、女誑しの善良公は、周到に手を打っている。囚われの貴女など、想像もしたくない。
「だから、イングラントに亡命しろと? フランク・ファン・ボールセレは、わたしにそう進言するのか?」
「愛して、いらっしゃるのでしょう? イングラントの王子さまを?」
抑えた声でそう聞いた。
「愛している」
きっぱりと姫は応えた。
「ハンフリーも、わたしを待ってくれている」
おれはぐっと拳を握った。この言葉を聞きにきたのだ。愛しているのはハンフリーだと、はっきり言われたかったのだ。おれに与えたダイヤの指輪は忠臣への褒賞だ。恋人の証ではなく、誉ある臣下のしるし。臣下への「完全な愛」。最初から、わかっていたはず。
「ならば、今すぐ行かれるがいい。今夜のうちにも船に乗り、貴女を愛する男のもとへ」
それだけ言って、逃げるようにその場を辞した。
ヤコバ姫は即座に動き、少数の釣り針党に供をさせてイングラントへと渡った。そしておれの前から消えた。
※※※
この年の十一月、聖エリザベトの日の夜に、恐ろしい嵐が襲った。子どものときの悪夢の再来。日付まで同じ日だ。
シント・マールテンスダイクはこの時も助かった。港はかなり損傷し村も一部水没したが、人死にだけは出さずに済んだ。けれどほかはすさまじかった。荒れていたホラント、ゼーラントの堤防はひとたまりもなく決壊し、多くの地が海に呑まれた。何千とも何万とも何十万ともいわれるひとが海に沈んだ。記録も一緒に沈んでいるから、正確な数はもう永遠にわからない。
天災ではなく人災だ。戦がなければ、きちんと保全がされていれば、堤防は決壊などしなかった。けれどやはり神罰だ。戦を続ける愚か者への、これはやはり神罰だ。水没した地はそのまま海となって還らず、鱈の地と釣り針の地をきっぱり隔てた。愚かに諍う人間を、新たな海がきっぱり隔てた。ゼーラントもホラントも、以前の地図はもう使えない。知り尽くしていた海岸線は、もう二度と見られない。どこから手をつければよいか、生き残ったもののすべてが呆然と立ち尽くした。




