避難
日本・東京 避難船〈みずほ丸〉船長 安達将弥
人類ができる最後の抵抗だった核攻撃が失敗したと聞いたのは、避難船〈みずほ丸〉の艦橋にいた時でした。
続いて、アラーガがそのまま東京へ向かって進行していると通達が入り、都内では即座に避難が始まりました。
東京は巨獣出現の初期から、日本が国家総力を投じて防衛線を敷いてきた場所です。
市街地に残る古い建物が今も形を保っているのは、これまでの巨獣が全部、迎撃網で止められてきたからです。
言い換えれば、巨獣が来ても“東京だけは守れた”という実績があった。
だから人も集まっていたし、拠点としても維持できていたわけです。
──でも、アラーガは違いました。
初めて偵察映像を見た時からわかっていましたが、あれは他の巨獣のカテゴリに入れていい存在じゃない。
あの異常な嵐、空間を抉るような落雷、形容しがたい光。
それに、ただそこに浮いているだけで、周囲を物理的に破壊していく。
しかも核攻撃でも傷一つつかないと分かった以上、どれだけ戦力があろうが、東京に到達された瞬間に“防衛線という概念そのもの”が消し飛ぶのは明白でした。
状況をさらに悪化させたのは、アラーガの出現に反応して、既存の巨獣どもが各地での暴走が続いていたことでした。
避難支援に出ていた部隊が足止めされ、新しい個体も次々出現し、そいつらの対応でまた人と装備が削られる。
防衛省の本隊も、アラーガ迎撃に向かった艦隊の損失で戦力がスカスカになっている。
──あの時点で、「東京で抵抗する」という選択肢は現実から消えていたんです。
これまで築いてきた迎撃網も、蓄えた戦力も、全部、アラーガの前では意味を持たない。
それが誰の目にも明らかになってしまった瞬間、都民が一斉に動き出したのは自然な流れでした。
俺の船〈みずは〉を含めて十数隻の避難船が東京湾に集結し、港で避難民の受け入れを始めました。
本来なら、一隻あたり数千人規模の避難を想定していたはずなんですが、あの日だけは桁が違っていた。
早い段階で既に数万人が押し寄せ、どの船も乗客で限界まで詰まっていました。
港近くに住む住民が殺到するだろうとは思っていましたが、それにしても明らかに数が合わない。
人の波が港全体を埋め尽くし、岸壁は怒号と泣き声で満ちていた。
もう、行き先なんて誰も気にしてない。
“ここにいたら死ぬ”ということだけが全員に共通していたんです。
本来の安全基準なんて守れるわけがありませんでした。
積載の赤ラインは完全に超え、船体のあちこちが軋みを上げるのが、艦橋にいても分かるくらいでした。
荷物を持っている人なんてほとんどいなかった。
ただ、どんな人も──子供の手だけは絶対に離していませんでした。
“東京はもう守れない”
その空気を、誰もが肌で感じ取っていたということです。
それでも、不思議なほど文句を言う者はいませんでした。
「乗せてくれ」じゃなく「立つ場所だけでもいい」って言ってくる人ばかりで……あの切迫感は、言葉じゃ説明しきれません。
みんな、生きるチャンスをほんの少しでも掴みたかっただけなんです。
そんな状況の中で、アラーガが東京湾の外縁に到達しつつあるという報告が入った瞬間、港全体が一斉に凍りつきました。
遠くの水平線に、明らかに異常な嵐が見える。海面は泡立つようにざわつき、空の色は灰色から紫に変わっていた。
あの気配は、生物じゃなく災害そのものでした。
その光景を見たとき、俺ははっきり思いました。
──間に合わないかもしれない。
その言葉が頭をよぎった瞬間、艦橋の空気が一段と重くなったのを覚えています。
船の速度なんて、あんな相手にはほとんど意味がありませんでした。どれだけ全力を出したところで、アラーガの嵐に追いつかれたら終わりです。
港を離れなければ即死、離れたところでどうせ追いつかれる。
そんな“選択のようで選択になっていない状況”でした。
それでも、俺たちには避難民を置き去りにして逃げる、なんて選択肢は最初からなかった。
甲板に溢れかえった人々の顔を見れば、そんな判断はあり得ませんでした。
子供を抱いた母親、老人を支える若者、手ぶらで駆け込んできた学生……みんな、ただ「生きたい」ただそれだけでここに来ていた。
それ以上に、現実的な問題がありました。
アラーガと奴が引き連れている嵐の規模と速度は、想像をはるかに超えていました。
東京湾の遥か外側にいるはずなのに、風が既に逆巻き始め、港の照明塔がギシギシと軋んでいた。
港を出たところで、どうせすぐに巻き込まれる。
助かるか沈むかの差は、“港で巻き込まれるか、海の真ん中で巻き込まれるか”の違いしかなかった。
“逃げ切る”なんて発想そのものが、あの巨獣の前では無意味でした。
しかも、逃げたところで、どこへ行けばいい?
日本中、いや世界中が巨獣だらけで、安全な場所なんてひとつも残っていない。
海に出たところで別の個体と遭遇する可能性の方が高い。
まして満載の避難船団で強行突破なんて、自殺行為でした。
それだけの危険を冒してどうにか生き延びたところで、次の場所が楽園になるわけじゃない。
俺たちが行ける先なんて、どこにもなかった。
だから、最終的に出した答えはひとつ。
港に留まり、避難船そのものを“巨大な避難所”として機能させる。
湾の地形と港湾施設を盾にして、少しでも風と波の直撃を避ける。
逃げるんじゃなく、ここで耐える。
もし嵐の中心に巻き込まれても、すぐ近くに陸がある分、転覆よりはマシ。
ノアの方舟じゃないけど、あの鉄の箱に全員でしがみつくしかなかった──そんな、限界まで追い詰められた苦肉の策でした。
甲板に押し込まれた人々は、誰一人声を発しませんでした。
皆、黙ったまま、港の向こうで渦巻く巨大な雲の塊を見つめていた。
“諦め”と“祈り”の境目みたいな目をしていました。
「もう、どうにもならないんだな」
その空気を、誰もが共有していたと思います。
母親が子供の頭を抱き寄せ、老人が若者の腕を握り、知らない者同士が肩を寄せ合っていた。
甲板には、ただ波と風の音だけが響いていました。
アラーガの光が雲の奥で瞬くたび、甲板から小さく息をのむ音が連鎖するように広がりました。
雷ではない、まして天候現象でもない。
あれは“巨獣そのものが放つ光”だと、誰もが理解していました。
その時の俺はもう船長ではありませんでした。
避難民を守る責任者という肩書きも、艦橋の制帽も、その瞬間だけは何の意味もなかった。
ただの一人の人間として、ただの“生きたい”という願いを抱えた存在でした。
──どうか、この船だけでも生き残ってくれ。
──どうか、この人たちだけでも助かってくれ。
その祈りみたいな思いを胸に、俺は嵐の方向から目を離せず、艦橋に立ち続けていました。
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日本・東京 保育士 曽田陽香
船にいた奴は、みんな同じ顔してたよ。
目は開いてるのに、もう何も見てないみたいな顔だ。
アラーガは地球を乗っ取ったまま。
ガクラが死んで、核攻撃も失敗した。
世界中で巨獣が暴れて、街を片っ端から壊してる。
そんな状況で船を出したって、どこへ行けばいいのかも分からない。
ただ、“ここにいたら死ぬから離れる”って、それだけで動いてた。
……だからさ、本当はアタシだって、あいつらと同じ顔してたと思う。
でも、できなかったんだよ。
目の前に子供がいたから。
泣き出す子もいれば、状況が分かってなくてはしゃぐ子もいた。
「遠足みたいだね」なんて言う子もいてさ──ああいうの、きついんだよ。
だからアタシら保育士は、笑ってた。
無理やりでも声を明るくして、「大丈夫だよ」って言い続けた。
本当は何一つ大丈夫じゃないって、分かってたのに。
ガクラのおかげで、一度は世界が落ち着きかけてたんだ。
子供たちも、やっと普通の生活に戻れるはずだった。
それなのに──よりにもよって、このタイミングで生まれてきた。
運が悪い、なんて言葉で済ませるには、あまりにもひどすぎる話だと思ったよ。
……それでも、あの子たちは泣きながらでも、ちゃんと前を見てた。
だからせめて、隣にいる大人くらいは、崩れちゃいけなかったんだ。
すぐに現実に打ちのめされるのは分かってた。
外に出れば、嫌でも思い知らされる。
それでも──それを、あの場でアタシたちの口から突きつけることだけは、どうしてもできなかった。
せめて、あの船の中にいる間くらいは。
ほんの少しでも、“まだ大丈夫だ”って思わせてやりたかった。
……甘いって言われても、仕方ないと思うよ。
現実から目を逸らさせてただけだって、今なら分かる。
それでも、あの時のアタシには、あれしかできなかったんだ。




