侵食
アメリカ・ハワイ ホノルル市警察(HPD) 犯罪抑止課・観光地区担当 巡査部長 オニール・フリードマン
アメリカで初めて巨獣が現れたのは、2004年の初め頃だった。
当時はまだ「巨獣」という呼び方も定まっていなくて、政府発表でも「正体不明の巨大生物」「未確認巨大生命体」なんて曖昧な言い回しが使われていたのを覚えている。
日本、中国、インドネシアと、太平洋を囲む地域で立て続けに異常事態が起きて、連日ニュースはその話題一色だった。
当然、アメリカ政府も黙ってはいなかった。
軍の再配備、太平洋艦隊の展開計画の見直し、沿岸部での警戒レベル引き上げ。
巨獣がもし本土に現れた場合を想定した戦術案の作成や、州兵との連携訓練の話も、水面下ではかなり早い段階から進んでいたと聞いている。
国全体が、これまで想定したことのない脅威に備えるため、慌ただしく動いていた時期だ。
だが、少なくとも当時の俺たち警察官の日常は、表向きには大きく変わらなかった。
軍が戦争や国家存亡に関わる脅威と向き合う存在だとすれば、警察の役割はもっと地味だ。
俺たちは基本的に目の前の街と人間を相手にする。
強盗、傷害、麻薬取引、家庭内トラブル、観光客絡みの揉め事。
そうして犯罪者を捕まえ、街の秩序を保ち、市民同士の衝突を防ぐ。
それは巨獣の話題がどれだけニュースを占めようが、変わらない。
巨獣時代の初期、警察が直接「巨獣」と向き合うことはほとんどなかった。
俺たちはテレビや無線で海外の惨状を聞きながら、いつも通りパトカーで巡回し、窃盗や暴行、トラブルを起こす連中を相手にしていた。
少なくともその時点では、「怪物と戦う」のは軍や政府の仕事で、俺たちは街の中の問題を処理する存在だった。
ハワイという土地柄もあったと思う。
当時の俺の担当は、ワイキキを中心とした観光地区だった。
海外からの情報は入ってきていたが、「遠い国の出来事」という感覚が、市民の間にも、正直なところ警察の内部にもあった。
とはいえ、影響がゼロだったわけじゃない。
市民の空気は、確実に変わり始めていた。
海外で起きている異常事態は、海を越えて不安として伝染する。
観光客は目に見えて減り始め、夜の繁華街は以前ほどの賑わいを失っていった。
経済は冷え込み、人通りが減れば、当然犯罪の質も変わる。
観光客相手のスリや詐欺が減る一方で、地元同士のトラブルや、生活苦から来る窃盗が増え始め、治安も徐々に不安定になっていった。
終末論者は、巨獣の出現を「聖書の預言」だの「世界の終わりの兆候」だのと騒ぎ立て、街角やビーチでビラを配る。
彼ら自体は非武装でも、その主張に影響されて過激になる人間が出てくるのが厄介だった。
さらに厄介だったのは、先を読んで動き始めた連中だ。
食料、水、燃料、医薬品。
表向きは「備え」だが、実態は買い占めや強引な転売、倉庫荒らしに近い行為も多かった。
ただの生活防衛だと見る向きもあったが、現場に出ていれば分かる。
それは徐々に、線を越え始めていた。
物資を確保するために、平気で他人を突き飛ばす。
脅し文句に銃を混ぜる。
抵抗すれば奪う。
そういう連中が、まだ少数とはいえ、確実に増えていた。
俺たちはその都度対応し、逮捕し、押収し、報告書を書いた。
だが正直に言えば、追いついている感覚はなかった。
街全体が、目に見えない不安に押されて、少しずつ歪み始めていた。
ただ、その頃の俺たちは、まだ本当の意味では理解していなかった。
いずれ警察もまた、「巨獣」という存在と、直接向き合わされることになるという現実を。
あの時点では、怪物はニュースの中の存在で、遠い国の惨事で、俺たちの日常とは切り離されたものだと思っていた。
少なくとも、そう思い込もうとしていた。
異変に気づいたきっかけは、「子供が戻ってこない」という一本の通報だった。
よくある失踪案件の一つ──その時点では、誰もがそう判断していた。
子供が家に帰ってこない。
親が慌てて通報する。
それ自体は、警察にとって珍しい話じゃない。
門限を破って遊び回る子供もいるし、友達の家に行ったまま連絡を忘れることもある。
だから最初は、俺たちも「いつもの案件」として受け止めていた。
俺たちは手順通りに動いた。
街の治安悪化の影響で、大規模な人員投入はできなかったが、初動としては十分な体制だった。
パトカーを出し、無線を回す。
子供の年齢、身長、服装、持ち物、交友関係を確認。
家族と近隣住民から聞き取りを行い、最後に目撃された時間と場所を絞る。
こういう初動の速さが、失踪案件では何より重要だ。
時間が経てば経つほど、手がかりは消える。
聞き込みの結果、子供は夕方頃、住宅地の外れにある森の方へ向かうのを見られていた。
遊び半分で入ったのか、それとも近道のつもりだったのかは分からない。
だが、そこで足取りが途切れていた。
日が落ちる前に確認すべきだと判断して、俺たちは捜索班を組んだ。
森に入ったのは、経験のある警官2人だった。
無線を持たせ、定期的な連絡を義務づけて送り出した。
最初の十分は、何も問題なかった。
「足跡らしきものを確認」「もう少し奥を見てくる」──そんな報告が淡々と入る。
だが、その次の定時連絡が来なかった。
無線で呼びかけても応答はない。
雑音すら入らない、不自然な沈黙だった。
機材の不調か、地形の問題だろうと最初は考えた。
森ではよくあることだ。
それでも、五分、十分と経っても反応は戻らない。
その日の夜、子供が最後に目撃されたという森へ入った2人の警官は──戻ってこなかった。
その出来事が起きてすぐ、俺たちは警戒態勢を敷いた。
単なる遭難では説明がつかない。
無線が途絶え、2名の警官が同時に消息を絶つなど、通常の事件の範囲を超えている。
殺人か、誘拐か──あるいは、当時まだ半信半疑だった巨獣絡みの異常か。
日常の延長で説明できる可能性を一つずつ潰しながら、現場としては最悪の事態も想定して動いた。
俺たちは森の周囲を封鎖し、増援を投入した。
夜間の追加捜索は危険だと判断され、重装備を整えたうえで再突入を計画した。
だが、その準備の最中に、異常は続いた。
同じ地区で、数日の間隔を置いて人が消えていった。
帰宅途中の学生。
自宅にいたはずの主婦。
コンビニで夜勤していた店員。
配送中のトラック運転手は、エンジンがかかったままの車両だけを残して消えていた。
気づけば、周辺で寝泊まりしていたホームレスたちの姿も見えなくなっていた。
それだけじゃない。
住民から「最近ペットがいなくなった」という通報が増え、森の方から聞こえていた鳥や小動物の気配も消えていた。
一つ一つなら偶然で片づけられたかもしれない。
だが、現場にいる誰もが思っていた。
これは重なりすぎている、と。
俺たちは失踪地点を地図に落とし込み、時間と位置の相関を洗い出した。
最初は別々の案件として処理されていた失踪届が、地図上で線を引くと、奇妙な円を描いた。
すべてが、あの森とその周辺区域に収束していた。
その森の中心になっていたのは、「立ち入り禁止区域」に指定された、古い雨水用の下水道施設だった。
観光開発の計画から外れ、長年放置されていた区域だ。
公式には閉鎖されているはずだったが、現地を確認するとフェンスは老朽化し、ところどころ破れていた。
人一人が無理なく通れる隙間はいくらでもあった。
つまり──誰かが意図的に入り込んでいても、不思議じゃない環境だった。
俺たち警察は、そこに何かが隠れていると判断した。
人為的な犯行なのか、それとも説明のつかない別の何かなのか。
少なくとも、失踪が集中している以上、放置する選択肢はなかった。
そして何より不自然だったのは、入口周辺に残された痕跡だ。
人の足跡ではなかった。
ぬかるみに深く沈み込んだ、巨大な足跡。
幅が異様に広く、靴底の模様もない。指のような凹凸があり、しかも一歩ごとの間隔が長すぎる。
あれは、体重が数百キロどころでは済まない何かが踏みしめた跡だった。
最初に見つけた若い巡査は、冗談めかして、ただ言葉の裏には願望混じりに「クマか何かですかね」と言った。
だがハワイに、あんなサイズの野生動物はいない。
仮にいたとしても、あの足跡の“形”は説明がつかなかった。
その瞬間、現場の空気が変わった。
犯罪者を追うときの緊張とは違う。
容疑者が人間なら、動機も行動パターンも、ある程度は推測できる。
銃を向ければ止まる可能性もある。
だが、あの足跡の主が何なのか、誰一人として分からなかった。
銃で対処できる相手なのかどうかも分からない。
それでも、そこに“いる”ことだけは確実だった。
俺たちは現場を封鎖し、即座に州警察と軍へ情報を回した。
そして、ハワイのSWATから緊急編成された捜索隊が下水道へ突入することになった。
懐中電灯、ショットガン、アサルトライフル、暗視装置、簡易防護具。
実戦を想定した完全装備での突入だった。
原因は分からないにせよ、巨獣の可能性が存在する以上、通常の警官ではなく特殊部隊の派遣は妥当だった。
州政府も異例の速さで承認した。
巡査部長だった俺は、地上の指揮所で無線を聞いていた。
だから、彼らが下で何を見たのかを、全部“声”で聞くことになった。
最初に報告されたのは異臭だった。
腐敗臭に、鉄のような血の匂いが混ざっている、と。
やがて、懐中電灯の光が照らしたのは動物の死骸だった。
ただ死んでいる、という状態じゃない。
明らかに何かに食い荒らされていた。
犬、猫、ネズミ。
種類も大きさもばらばらだが、共通点があった。
どれも腹部を中心に抉られ、内臓が失われている。
肉は乱雑に削ぎ取られ、骨が露出していた。
報告の声が一瞬詰まったのを、今でも覚えている。
「数が……多すぎる」
同じ区画に集まりすぎていた。
偶然死んだ動物が流れ着いた量ではない。
意図的に、そこへ運び込まれたとしか思えなかった。
無線の声が、その時点で少し変わった。
隊員たちは状況を淡々と報告していたが、言葉の端に緊張が混じっていた。
さらに奥へ進んだ隊員が、声のトーンを落とした。
「……人間です」
大人、子供、ホームレス。
失踪していた彼らが、そこにあった。
“あった”としか言いようがない状態だった。
自分たちが見た惨劇を、隊員が言葉にしようとして何度も言い直した。
それほど酷かった。
全員が同じように、無惨な状態だった。
内臓は食い荒らされ、四肢は欠損。
首は噛み砕かれ、骨が露出している。
体には、鋭い爪で深く貫かれたような裂傷が残っていた。
中には、頭部そのものを失っている者もいた。
状況を整理すればするほど、一つの結論しか残らなかった。
何かがここで“狩り”をしている。
遺体の配置は、まるで捕食後の残骸をまとめて溜め込んだかのようだった。
人も動物も区別なく、食い散らかされた“食べカス”みたいに積み上がっていた。
無線越しでも、隊員たちの緊張は伝わった。
普段は冷静なベテランが、呼吸を荒くしながら報告していた。
無線の向こうで誰かが小さく悪態を吐き、別の隊員が「集中しろ」と言ったのを覚えている。
あれは、恐怖を押し殺すための声だった。
誰も冗談も、軽口を言わなかった。
地上にいた全員が、無線に耳を奪われていた。
誰も言葉を発しなかった。
無線越しに伝わる隊員たちの呼吸の速さと、押し殺した声だけが現実だった。
これは事故じゃない。
単純な犯罪でもない。
しかも、足跡のサイズと死体の損傷から推測すると、
犯行に及んだ“何か”は、下水道内を自由に移動できる大きさでありながら、
人間を容易に押さえ込み、持ち運び、解体できる力を持っている。
それが意味することは、一つだった。
確実に「何か」が、すでに人間の生活圏の下に入り込んでいた。
しかも、それは偶発的に迷い込んだ存在ではない。
あそこを“巣”にしていた。
あの夜、俺は初めて理解した。
事故でも、単純な犯罪でもない。
すでに巨獣は遠い海の向こうの話じゃない。
ニュース映像の中の出来事でもない。
俺たちの足元──確実に「何か」が、すでに人間の生活圏の下に入り込んでいた。
その認識だけは、現場にいた全員が共有していた。
正体は分からない。
数も分からない。
だが、規模と危険性だけは嫌というほど伝わってきていた。
俺たちは即座に動いた。
警察内部の各部署──刑事課、生活安全課、交通、機動部隊。
州の行政機関。
そして、可能な限り早い段階で軍にも情報を回した。
報告内容は断片的だったが、隠す余裕はなかった。
下水道内で多数の遺体を確認。
動物、人間、子供。
共通する損傷。
捕食痕と思われる形跡。
未知の存在が下水道網を移動している可能性。
何が起きているのかは、正直分からない。
だが、モタモタしている時間だけは無いことくらい、誰にでも理解できた。
封鎖されていた下水道で、隊員たちが続けて内部調査を行ったところ、壁面に異様に大きな穴が開けられているのが見つかった。
自然に崩落した亀裂ではない。
何者かが、意図して掘り開けたとしか思えない穴だった。
しかも、その先は別の下水道区画へと続いていた。
かなり離れた地点まで、だ。
あの下水道網は、ハワイ全域に張り巡らされた巨大なインフラだ。
雨水、生活排水、古い放棄区画。
地上の道路網と同じくらい複雑で、しかも一般市民の目には触れない。
広大で、どこにでも通じていて、どこにでも行ける。
住宅地の真下を走り、学校の下を抜け、観光地の足元を通っている。
そこを「何か」が自由に移動しているとしたら──被害は下水道の中だけで終わるはずがなかった。
いつもの警察対応で済むはずがない。
封鎖が必要だった。
だが、どこを封鎖すればいい?
入口は無数にある。
全てを止めれば、都市機能そのものが麻痺する。
それでも、やるしかなかった。
原因となる存在を特定し、どうにか封じ込める。
今動かなければ、確実に取り返しのつかない事態になる。
現場では、そう判断した。
少なくとも、俺たちはそう信じて動いた。
それでも──遅かった。
彼らを餌にしたそれは、すでに地上へ出て、動き始めていた。
最初の通信が入ったのは、その日の夜だった。
無線に割り込むような形で、緊急コードが鳴った。
下水道処理施設で異常発生。
作業員と連絡が取れない。
設備の一部が停止。
原因不明。
場所を聞いた瞬間、嫌な予感が確信に変わった。
下水道網の要所だ。
あそこを押さえられれば、流れは一気に広がる。
軍に正式な連絡が届いているかどうかも分からない段階で、最悪の想定は、あっさり現実になった。
下水道から、地上へ。
地下の異変が、街そのものに浮上する。
それが、ハワイにおける「巨獣時代」の本当の始まりだった。




