異常現象
日本・大阪 生物学者 塚田晴真
2003年に大阪から始まった巨獣災害。
その原因が大阪にあると見た各国は、日本政府に調査を要請しました。
政府はすぐに大規模な調査隊を編成し、現地へ派遣したのです。
生物学者だった私の父も、その隊に参加していました。
「必ず帰る」と約束して。
自衛隊一個大隊に調査員、最新の研究機材、防護服。
当時としては考えうる限りの万全の体制で、彼らは巨獣が出現した“穴”に進入していきました。
しかし、通信は途中で途絶え、調査は失敗。
誰ひとり、父も含めて、戻ってはきませんでした。
その後も大阪での再調査は何度か検討されましたが、巨獣災害の深刻化とともに、優先順位は下がっていきました。
やがて大阪は複数の巨獣が棲みつく“封鎖区域”となり、再び足を踏み入れることすら不可能になったのです。
原因がそこにあるかもしれないのに、誰も確かめられない。
……歯がゆい年月でした。
やがてガクラが巨獣を次々と撃破し、日本全体にようやく余裕が戻り始めた頃、私たちは政府に強く再調査を要請しました。
「巨獣の根源を突き止めなければ、真の終結はない」と訴え続け、国内外の学会や防衛関係者の一部からも理解を得て、少しずつ支持を広げていきました。
事実、ガクラの活動によって人類社会は立て直しつつありましたが、新たな巨獣の発生は止まっていませんでした。
このままでは、いずれガクラの対応が追いつかなくなる。
それは、多くの研究者や軍関係者が共有していた危機感でもありました。
人類が過去に最も追い詰められた原因──それは、度重なる巨獣襲撃による損耗と疲弊です。
もし再び、同じ循環に陥れば、今度こそ終わりかもしれない。
だからこそ、我々は“根源を探る”という一点に賭け続けたのです。
しかし、調査を実行することはできませんでした。
支持は広がっても、条件が整わなかった。
当時の日本は、いち早くガクラの恩恵を受けた国として、他国に比べれば著しく復興が進んでいました。
それでも、国の予算は依然として巨獣対策インフラの再整備や避難区の復旧に集中していました。
巨獣そのものを調べる研究や、素材確保のための調査には惜しみなく資金が投じられていましたが、一方で「巨獣がどこから現れたのか」を探る再調査については、政府も専門家も強い関心こそ抱き続けていたものの、実行には極めて慎重でした。
何よりも日本の建て直しが優先され、再調査はその後回しにされていったのです
政府の公式な見解は、“今は原因より対策を優先すべきだ”というものでした。
もし原因が大阪にあるのなら、封鎖し続けるだけでは何も変わらないことは誰もが理解していましたが、巨獣が巣くう大阪に再び踏み入るには、あまりに危険が大きく、犠牲が出るのは目に見えていた。
ガクラによって“守り”に余裕が生まれても、各地で新たな巨獣の出現と襲撃が続く状況は変わらず、決して安全と呼べる段階ではなかったのです。
現場の危険度評価は“極めて高い”まま更新されず、必要な装備や人員の確保にも見通しが立たない。
そして何より、初期調査の全滅という前例が、判断の重さを増幅させていたのです。
そのリスクを前にして、調査に賛成する政治家や官僚はほとんどいませんでした。
予算会議では再三却下され、申請書は何度も書き直しました。
“科学的調査よりも生存が優先だ”──当時の日本全体に流れていた空気を、まさに象徴する言葉でした。
実のところ、そうした判断は正しい側面もあり、私たち研究者も理解していました。
巨獣が蔓延る大阪では、調査するどころか、調査隊そのものが瞬く間に壊滅する危険が高すぎた。
ならば、時間がかかったとしても、安全な状況で調査できる日を待つしかない。
そう判断していたからこそ、私たちも強く主張し続けることは避け、「状況が整った時に、必ず初期調査をやり直す」──その一点に望みをつなぎ、準備を重ねていたのです。
しかし、年月を経るごとに、大阪では明らかに無視できない異常が積み重なっていきました。
巨獣が巣くう危険区域であるという事実とは別に、気象そのものが“変質”していたのです。
大阪上空には雲が集まり続け、晴天のはずの昼間でも、そこだけは常に薄暗い。
2003年当初の観測記録では「曇天が続く程度」でしたが、年を追うごとに雲の濃度は増し、やがて暗雲は複数の渦を描きながら回転し続ける巨大な嵐の核となり、上空には常に強風が吹き荒れました。
衛星写真には、渦が帯状に連なりながら市域に張り付く様子が記録され、その回転は季節や気圧配置に関係なく続く──既存の気象理論では説明が困難な“局地的永久嵐”でした。
問題はそれだけではありません。
落雷の発生頻度は年々増し、ある記録では同じ場所に数十回連続で雷が落ちる現象が確認されています。
加えて、原因不明の発火、低温でもないのに局所的な氷結が突如発生するなど、本来同時に起きない現象が混在しました。
初期は散発的だったそれらの現象は、年月が経つにつれ指数関数的に発生件数が増加し、もはや偶然や自然変動では片付けられないレベルに達していました。
このままでは異常現象は収束するどころか、むしろ加速し続ける──。
私たちと気象学者は、過去の大阪の気象データや都市の地形・構造、既知の気象理論と照らし合わせることで、この異常が自然現象の範囲を完全に逸脱していると判断しました。
直接現地に踏み入らなくとも、当時私たちにできたのは、蓄積されたデータ、過去の大阪の気象観測、周辺地域との比較、そして既存の理論を照らし合わせることでした。
分析の結果、巨獣出現以前の大阪には存在しなかった“エネルギーの集中”が、長期間にわたって継続しているという結論に至りました。
それが何であるのか、何が源なのかは、現地に踏み込まなければ分からない。
だけど無視すれば、いつか取り返しのつかない段階に到達する、それだけは明白でした。
しかし当時、世界は巨獣対策に追われ、人命に即座の被害を与えない異常気象への関心は著しく低いままでした。
他国の都市で小規模な異常現象が報告されても、世論は「巨獣ほどではない」と受け流し、政府内でも深刻視されていませんでした。
そうした空気の中で、私たちは大阪の異常気象を体系的にまとめ、継続観測データと解析結果を一つの報告書に仕上げ、その危険性を明確に記したのです。
暗雲の滞留、渦の持続、雷撃頻度、発火・氷結……それらの連続性と加速度性を示す証拠を整えた上で、「大阪で発生している異常現象を放置することは、巨獣災害とは“別の形”の危機を呼び込む」「この異常は巨獣そのものと同じか、あるいはそれ以上に深刻な兆候である」と政府に進言しました。
その報告書を前にして、ついに政府も動かざるを得ませんでした。
気象分野に詳しくない政治家であっても、数字と記録に裏付けられた異常の加速を前にすれば、無視することはできなかった。
衛星写真の比較映像、雷撃地図の年次推移、暗雲の層が積み重なる断面解析──それらを一堂に提示した時、たとえ気象学に疎くとも、常軌を逸していると理解できるだけの圧倒的説得力があったのです。
ついに政府は再調査に乗り出しました。
その判断に至った背景には、ガクラが出現してから実に十年目にして巨獣対策が一段落しつつあるという情勢の変化もありましたが、何より──“大阪で進行している何か”が放置できる段階を越えていると、誰もが認めざるを得なかった。
そう言っていいと思います。
しかし、承認が下りたからといって、すぐに調査が始まったわけではありません。
護衛の確保、装備の調達、そして現地での輸送経路の確保──どれも、巨獣の巣窟と化した大阪では容易なことではありませんでした。
大阪は当時、完全な封鎖区域でした。
主要道路や鉄道網は崩壊し、川に架かる橋の半数以上は落橋したまま。
わずかに残った橋や高架路も、重量物の移動に耐えられる状態ではなく、補修や架設を行う余裕もありませんでした。
航空機や無人ドローンによる上空偵察も試みられましたが、巨獣による撃墜の危険だけでなく、渦を巻く暗雲や突発的な落雷、上昇気流に巻き込まれるリスクが常に伴いました。
結果として、地上から徒歩で進入する以外の方法が残されていなかったのです。
護衛の確保、装備の調達、そして調査員と機材を安全に運ぶための輸送経路──。
どれもが、巨獣の巣窟であり、異常現象の中心地と化した大阪では容易ではありませんでした。
調査隊として最低限必要な要素すら、ひとつずつ地道に整えていくしかありませんでした。
さらに、政治的な調整も難航しました。
防衛省は「護衛部隊を出すなら、首都圏の防衛線が手薄になる」と難色を示し、再調査隊の人員を確保するにも、防衛省からの派遣枠はわずか。
結果、調査許可が下りてから実際に出発するまで、半年以上を要しました。
防衛関連任務に多くの部隊が取られており、我々の護衛に回せるのは、自衛隊の残余部隊30名ほど。
調査員はわずか5人。
機材も最低限で、かつての初期調査のような大規模な体制とは、とても比較にならない規模でした。
──それでも、私たちにとっては失われた調査の続きを始めるための、唯一の一歩だったのです。
封鎖区域を越え、無人となった市街地を抜け、私たちは生存者の痕跡すら残らない大阪中心部へと進みました。
輸送車両は途中の外縁部までしか入れず、そこから先は徒歩で異常現象の中心地へ。
その時点で、調査隊は完全な自給自足体制に移行せざるを得ませんでした。
異常現象は想像以上で、進むほど大阪は「自然」と呼べる状態ではなくなっていきました。
常時吹き荒れる暴風に、ほとんど間を置かず落雷が降り注ぐ。
雨が突然降り始めたかと思えば、数百メートル先では路面が高熱で蒸発し、熱風が渦巻いている。
さらに、別の区画に踏み入れば、そこは一面が凍り付いたまま──真夏と真冬と灼熱の砂漠が、同じ都市の中で同時に存在する、そんなあり得ない環境でした。
時には熱波と極寒が突発的に入れ替わり、一歩先は灼熱の砂漠のように気温が跳ね上がり、次の瞬間には空気中の水分が凍りつくほど冷え込む。
世界中の自然環境でも観測されない現象であり、既知の気象理論とも一致しない。
特別な断熱装備や絶縁処置された衣服がなければ、数分と持たなかったでしょう。
専用テントを張るだけでも時間がかかり、各地点で放散する高熱や極低温から距離を測りながら、安全な場所を探さなければならない。
一度の判断ミスで、即座に全滅していたはずです。
そして、異常現象以上に私たちを悩ませたのが、巨獣の存在でした。
地上は既に巨獣の巣と化しており、昼間の移動は不可能に近い。
そこで私たちは、巨獣の活動圏を地図と照合しながら迂回し、夜間を中心に移動する方針を徹底しました。
倒壊したビルの内部を伝い、瓦礫の影に身を潜め、時折吹き上がる風の音に紛れながら、遠く響く足音が去るのを待つ。
巨獣がどこを徘徊しているのか、完全に把握できるわけではない。
姿を見れば引き返す、足音が近づけば息を潜める──それを11日間、繰り返しました。
あの時の緊張は、今でも体の奥に残っています。
11日間の行軍の末、我々はようやく目標地点に到達しました。
そこは、かつて梅田駅だった場所の地下──崩れ落ちたトンネル群の奥。
瓦礫の通路を慎重に抜け、崩壊した線路跡を足場にしながら前進すると、不自然なほどに大きく地面がえぐれた空洞が見えてきました。
懐中電灯の光が届かず、底が見えないほど深い闇。
その周囲には、巨獣たちが掘削したような痕跡がいくつも走り、骨や金属片が散乱している。
それが、初期調査が消息を絶った“穴”。
巨獣が寝ぐらとする空間を避けながら、音を立てないよう慎重に進み、私たちはその縁に立ちました。
父が帰らなかった場所であり、巨獣災害の発端とされる場所でもあるその“穴”は、今も口を開けたままでした。
初めのうちは線路やトンネルの崩落した瓦礫が続いていましたが、進むにつれ光景は徐々に変わっていきました。
やがて、構造物としての壁が途切れ、人工的な施工跡とは明らかに異なる“何かに穿たれた”巨大な穴へと姿を変えたのです。
地質学的にも説明のつかない、円形で滑らかに磨かれた内壁。
内部から地表方向へ向けて掘り進んだ痕跡──おそらく巨獣の一種によるものだと判断されました。
その通路の果て、ひらけた空間に出た私たちは、そこで“それ”を見つけました。
錆びつき、変形した外殻。
NASAの識別番号。
打ち捨てられたシャトル。
あの“火星探査隊シャトル墜落事件”で消息を絶った機体でした。
そして周囲には、かつて派遣され、消息を絶った初期調査隊の遺物が点々としていました。
遺体そのものは時の流れに朽ち果てていましたが、装備や記録媒体、破損した無線機の残骸、そして私の父の手帳──彼らがそこにいた痕跡は確かにありました。
さらにその先──シャトルの残骸を覆うように、巨大な植物構造体が絡みついていました。
その中心部には、まるで心臓部を保護するように“繭”状の巨大な塊が形成され、植物組織に縫い留められるような形で固定されていました。
近接観察で確認されたのは、内部での明確な運動反応。
表面には生体反応の指標が複数観測され、微弱ながら連続的な電流、低周波の熱反応、そして周期的に収縮する脈動が記録されました。
私自身は、目の前の“繭”を確認した瞬間に理解しました。
──これが父たちの消息を絶たせ、そして現在大阪で発生している一連の異常現象の根源そのものだと。
その確信は証拠の積み重ねではなく、現場を前にした直感に近いものでした。
低周波の鳴動、生体反応の検知、人工物では説明できない植物組織──どれを見ても“無害”という判断には到底至れませんでした。
“繭”の表面には微細な裂痕が網目状に残されており、それらはいずれも“内側から外側へ押し広げようとしていた”形跡でした。
まるで、何度も殻を破ろうと試み、その度に押しとどめられている──そう読み取れる痕跡です。
私たち調査班が出した結論は明確でした。
調査は継続。
ただし“繭”への直接的接触は禁止。
以後、内部温度や拍動、電流値を継続計測し、周辺の地質・植物構造・金属腐食・環境サンプルのみを採取する方針へ切り替えました。
“繭”そのものについては、粘性物質の表面採取のみとし、それ以上の刺激は与えない──そう決めたのです。
しかし、全て無駄でした。
粘液採取と計測器設置の準備を整え、機器を起動させた直後──“繭”の表面が突如として強い発光を示し、次の瞬間、通路全体を揺らすほどの凄まじい風圧が吹き荒れました。
こちらからの刺激は確認されませんでした。
それでも、あの反応は“偶発”では説明できません。
あれは、明確に私たちの存在を認識したうえでの排除行動でした。
後に私たちはこれがきっかけで“災厄”を引き起こし、多くの損害と犠牲者を出した原因として世間から非難を浴びることになりました。
これについて、私は反論するつもりはありません。
もし、私たちが調査することがなければ、それは未だ眠ったままで猶予が残っていたでしょう。
例えそれが突然目覚めたとしても、万全の体制で迎え撃つことができたのかもしれません。
ですが、その目覚めの時はすぐそばまで来ていたのかもしれません。
現場で観測されていた異常値は加速度的に上昇していましたし、いずれ“繭”の活動が表面化するのは必然だったと今では思います。
ただ今回、それが引き金を引いてしまったのは“たまたま私たちの接触だった”──言い訳に聞こえるでしょうが、繭と大阪での異常気象の規模を考えるとそう思うのです。
繭が放ったのは、単なる風ではありませんでした。
雷、炎、水、氷、そして黄金の光──あらゆる自然現象が一度に暴走したかのような、異常な嵐でした。
その中心から放たれた衝撃波で地盤が揺れ、周囲の岩盤が崩れ落ち、地上で待機していた護衛部隊との通信が完全に途絶しました。
同時に、穴の周囲にいた巨獣たちが一斉に暴走を始めたのです。
私たちは回収したサンプルと記録データを抱え、命からがら地上へ脱出しました。
地上に出た時には、大阪の街全体が嵐に包まれていました。
そして──その嵐を纏いながら、“奴”が現れたのです。
私は、避難用ヘリの窓越しに、その“目覚め”を見ました。
まるで、あの繭そのものが形を変え、この地上に姿を現したかのようでした。
私はその存在の正体が何なのか知るべく、回収したシャトル内の遺物、父の残した手帳を開きました。
その中にヒントが無いかと必死に記録を辿りましたが、中には繭に関する記録は一切ありませんでした。
おそらく、彼らは繭を発見した直後に──記録を残す間もなく、全滅したのでしょう。
ただ一つだけ。
手帳の最後のページに、震えるような筆跡で書かれた言葉がありました。
『暗嵐禍』。
私の故郷に伝わる、災いの嵐の名です。
https://www.pixiv.net/artworks/146934239
https://youtu.be/STO2bUMKxBw
https://www.nicovideo.jp/watch/sm46521958




