決戦後
イタリア・ローマ イギリス亡命通信局ラジオキャスター(当時) ジェームズ・ハミルトン
ロンドン陥落によるイギリスの喪失以来、私の人生からは色が抜け落ちたも同然だった。
かつて、戦前はBBC系列のテレビ局でニュースキャスターとして働き、日々の出来事を人々に伝えていた。
しかし、祖国がベルゼブブ軍によって奪われ、放送局が破壊され、仲間が散り散りになったあの日から、私の「言葉」は希望を語るためのものではなくなった。
亡命政府とともにイタリアへ渡った私は、その後に設立された亡命政府直属の通信局で、ラジオキャスターとして再びマイクの前に立った。
だが、そこで伝えるのは、ほとんどが悲報だった。
失われた都市、壊滅した防衛線──言葉を発するたびに、胸の奥で何かが削られていくようだった。
そして時代とともに、私たちの物資は困窮し、放送設備も満足に整えられなくなった。
他国との通信も次第に途絶え、正確な情報が届かなくなっていった。
不確かな報告を、憶測や願望を混ぜながら伝えざるを得ないこともあった。
伝える側でありながら、希望を見出せない──それが何より苦しかった。
それでも放送を止めなかったのは、「誰かに現実を伝えなければならない」という義務だけが、かろうじて自分を支えていたからだと思う。
だからこそ、ガクラの出現とヨーロッパ奪還計画の発表は、私たちにとって希望そのものだった。
それまで途絶えがちだった通信網が、ガクラの棘弾によるエネルギー供給で次第に復旧し、各地との連絡が戻り始めた。
放送室の照明が安定して灯るたびに、胸の奥で少しずつ何かが戻っていくようだった。
そして、ヨーロッパ奪還計画が始動し、奪還の報せが届いた。
モナコ、ベルン、ミュンヘン──次々と都市が人類の手に戻っていく。
その度に、放送を聞く難民たちの間から歓声が上がった。
ラジオの向こう側で、人々が泣きながら抱き合っている姿が目に浮かぶようだった。
スタジオの私たちも、言葉を失いながら、それでも声を震わせてニュースを伝えた。
ようやく、希望を“伝えられる日”が戻ってきたのだ。
そして、ロンドン決戦。
ヨーロッパ奪還計画の最後にして、ヨーロッパの命運を左右する戦い。
だが、戦況については何一つ情報が入ってこなかった。
軍には、戦闘中にいちいち放送局に報告を寄せる余裕などなく、生中継など到底不可能だった。
私たちはただ、沈黙の中でその知らせを待つしかなかった。
戦いが始まってから半日以上が経った夕方頃だった。
突然、伝令が駆け込み、ニュース速報の準備をするよう指示が出た。
スタッフが慌ただしく走り回り、原稿用紙が私の前に置かれた。
そのわずか一文を目にした瞬間、息を飲んだのを覚えている。
私は震える手でマイクを握り、できる限り平静を装って放送を始めた。
しかし、声はわずかに震え、胸の鼓動が自分でもはっきりと聞こえた。
「──女王の討伐に成功。イギリス奪還。ヨーロッパを取り戻しました」
その言葉を言い終えた瞬間、スタジオは静まり返った。
次の瞬間、控室から、そして避難民の集まる広場から歓声が上がった。
誰もが泣き、抱き合い、名前も知らない者同士で手を取り合っていた。
マイク越しにそのざわめきが入り込んできて、放送を止めることができなかった。
あの日ほど、「伝える」という行為の意味を感じたことはなかった。
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イギリス・サウスサンプトン 医師 ウィンストン・アイク
子供の頃、ベルゼブブ軍の侵略でイギリスを放棄せざるを得なかったあの日、港にはフランスへ逃げる避難船を求めて、押し寄せるように人々が詰めかけていました。
サウスサンプトン港の海には、軍艦、輸送船、客船、漁船まで、あらゆる船が並んでいました。
けれど、その数はあまりにも足りなかった。
避難民の列は港の外まで続き、どの船もすでに人で溢れ返っていた。
桟橋の上では、誰を乗せるかで兵士と民間人が口論になり、泣き叫ぶ声と怒号が入り混じっていた。
船の甲板から手を伸ばして家族を引き上げようとする者、岸に残されたまま名前を叫ぶ者──あの光景は今でも忘れられません。
海の向こうへ渡れた人は、一握りだったと思います。
おそらく、他の港でも同じような状況だったのでしょう。
港は、すでに秩序を失っていました。
列を作る余裕など誰にもなく、皆が他人を押し退け、転んだ者を踏み越えてでも、船に乗ろうとしていた。
誰もが、生き残るために必死だったんです。
兵士たちは制止を叫んでいましたが、押し寄せる群衆を止めることはできませんでした。
銃を構えても、人の波は止まらなかった。
当時8歳だった私は、はぐれた親の言いつけ通りに避難船を探していました。
でも、周囲の光景はあまりにも過酷で、恐ろしくて、どこが“安全”なのかも分からなかった。
叫び声と汽笛と、銃声。
船に乗り込もうとしても、すぐに別の人の足に蹴られ、流されていきました。
ようやく近くの船、小さな漁船にたどり着きましたが、すでに大勢の人々で満杯でした。
「乗り込むな! これ以上は船が沈む!」
船長はなおも乗り込もうとする人々に銃を突きつけ、叫びながらエンジンを全開にして港から離れようとしていました。
私はただ呆然とその様子を見て、また別の船を探さなきゃと思っていました。
その時、背後から怒鳴り声が響きました。
「まだこいつは乗れるだろ!」
次の瞬間、自分の体が宙に浮き、漁船の甲板に叩きつけられました。
何が起きたのか理解するより早く、船は加速して港を離れていきました。
一瞬だけでしたが、私を投げた人の姿は今でも鮮明に覚えています。
赤い帽子、赤いリュック、自作らしい木のネックレス。
髭面の大男で、何の面識もない、赤の他人でした。
その人がいなければ、私は港の人混みの中で押し潰されて終わっていたでしょう。
私がイギリスに戻ったのは、エディンバラでベルゼブブ軍最後の残党が駆除されてから、2ヶ月後のことでした。
イギリスとアイルランド復興のための人員募集が始まり、私はその一員として参加しました。
祖国を離れてから31年、ようやく帰郷できたサウスサンプトン。
しかし、私の目に映ったのは「帰る場所」ではありませんでした。
港も街も荒廃し、建物は骨組みだけを残して崩れ、風に乗って鉄と潮の匂いが混じっていました。
最初に私が任された仕事は、街や港に残された遺体の収容と処理でした。
かつて避難できなかった人々の亡骸は、ベルゼブブの支配下では荒らされることもなく、ただ放置されていました。
風化した衣服や、崩れた骨の形、錆びついた金属片。
31年前の“あの日”の時間が、そこだけ止まっていたようでした。
あの時、私を救ったあの大男も、この港で──と、何度も思いました。
だけど、名も知らないあの人の遺体を見つけても、きっと確かめようがなかったでしょう。
それでも、医師として、ひとりひとりを丁寧に扱いました。
せめて誰かが最後に触れ、誰かがその存在を見届けたという事実が、救いになると信じたからです。
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イギリス・ロンドン 都市機能復旧班主任技術員 リチャード・アダム
俺は生まれた時からイタリア出身だったが、イギリス生まれの親父から何度もロンドンについて聞かされていた。
ちょっとした世間話でも、酒に酔っていた時でも、親父は住んでいた家や町の風景、日常生活についてよく語っていた。
煉瓦造りの住宅が並ぶ通りや、朝になるとパン屋から匂いが流れてくる話、通学路の裏手にあった細い路地のこと──そういう細かい話ばかりだった。
親父の世代では、そういう人間は珍しくなかった。
国に関係なく、自分の子供や周囲の人間に、当たり前のように故郷の話を繰り返す。
それも、ただの思い出話じゃない。
失われた日常をなぞるように、やけに具体的に語るんだ。
当時から不安定な時代だったというのに、まるで理想郷みたいに語るんだ。
聞かされる側からすれば、現実感のない話だったよ。
既に失われている場所の話を、まるで今もそこにあるかのように語るんだからな。
それでも、あの頃の大人たちは皆どこか似たような顔をしていた。
諦めたように見える連中でも、故郷への帰郷を夢見て、それを唯一の希望にして生きていた。
亡くなった後でも、せめて故郷の地に骨を埋めてほしい──そんな話も、珍しくなかったな。
そういう話を聞かされる子供は、親の故郷に理想を抱く。
写真や記録で見ることもできない場所を、言葉だけで思い描いて、いつか行きたいと素直に願う。
俺も、小さい頃はそうだった。
ロンドンの街並みを、実際に見たこともないのに頭の中で勝手に作り上げていた。
争いも貧困も無い、理想郷。
だが、思春期に入って現実が見えてくると、その無邪気な願望も薄れていく。
何せ話で聞いただけでしかないからな。
実際に存在する保証もなければ、自分の居場所でもない。
親と違って特別な思い入れも無いし、人生の唯一の希望として縋る理由もない。
それに、あの時代は余裕がなかった。
日々の生活を維持するだけで精一杯で、存在するかどうかも分からない場所に想いを馳せる余裕なんて無かったんだ。
俺もまた、「未練がましい」「割り切れよ」と思いながら聞いていた時期はあったさ。
イギリスを占領していたベルゼブブ軍が壊滅し、復興人員募集が始まった頃だ。
親父は真っ先に応募しようとしていた。
復興に協力したいというより、ただ故郷へ帰りたかったんだと思う。
だが、申請は通らなかった。
確かに復興には膨大な人員が必要だったが、誰でも歓迎というわけじゃない。
求められていたのは建設技術者や重機オペレーター、インフラ関係者、医療従事者、治安維持要員といった専門人材だ。
それに、奴らが壊滅したとはいえ、奪還したばかりでまだ防衛設備が間に合っておらず、未だ崩壊した街で瓦礫の山だ。
巨獣やベルゼブブ軍の残党の襲撃も予想されていた。
そんな場所へ送り込む以上、最低限の技能や体力は必要だった。
元町工場の事務員で、特別な資格も体力も持たない親父は、選考の段階で外された。
そんな親父を──元々建築関係に勤めていた俺は、復興のためにイギリスへ向かう際、技術員としての権限を使って同行させた。
私情で権限を使ったのは事実だが、決して職権乱用ではない。
名目上は、長年放置されたロンドンの街を把握するための重要参考人の一人だ。
都市構造の評価と再建計画の策定する現地調査において、“過去の都市を知る人間”の証言も正式な資料として扱われる。
旧市街の構造、生活圏の動線、戦前の都市機能──そういった情報を知る“生き証人”は重要な人物だった。
実際、似たような理由で家族を連れてきた連中は少なくなかったと思う。
どれだけいたかは知らない。
ただ、俺もその一人だったというだけだ。
と言っても、親父にとっては、そんな建前はどうでもよかった。
ロンドンに帰れる、それだけが全てだったんだろう。
道中はひどいもんだった。
船は揺れるし、上陸してからもまともな道路なんて残っていない。
バスで瓦礫を避けながら進むたびに車体が跳ねた。
だが親父は気にしていなかった。
故郷に帰れる──それだけで、あらゆる不快さを感じていなかったんだろう。
ようやくたどり着いたロンドンは、想像以上に酷い有様だった。
ただでさえ奴らに占領されていた上に、最終的には奪還戦の主戦場にされた街だ。
主要道路は砕け、建物は骨組みだけを残して崩れ、地下インフラもほとんどが寸断されていた。
俺が配属されたのは、瓦礫の撤去やインフラ再接続を担う復旧班だった。
電力網の仮設復旧、地下鉄の閉塞区間の調査、崩落した居住区の安全確認──そういう、戦闘とは無縁だが、都市を“生き返らせる”ための仕事だ。
もっとも、俺の立場は単なる作業員じゃない。
主任技術員として、現場の安全判断と優先順位の決定を任されていた。どこに人を入れるか、どこを封鎖するか──最初に線を引く役だ。
復旧班として現地に入って最初にやったのは、作業計画の立案じゃない。
立入可能区域の選別と、崩落リスクの再評価だった。
図面も記録も、戦闘でほとんど失われていたからな。
残っているのは衛星写真と、崩れた現地だけだ。だからまず、“入っていい場所かどうか”を決める必要があった。
俺の担当地域は住宅地だった。
瓦礫の撤去と安全確認、地下配管の生存調査が主な任務だったが、そこは親父の生家がある地域だった。
そこで重要参考人である親父の出番だ。
俺に配属されたメンバーの中で、誰よりも当時の街を知る人物だからな。
参加させない理由がない──少なくとも、仕事の上ではな。
初めて踏み入れた時、正直に言えば“作業対象の一区画”としてしか見ていなかった。
地図上の番号と、危険度評価、それだけだ。
そこに誰が住んでいたかなんて、判断材料には入っていない。
地域に着くなり、親父は興奮して周囲を駆け回るように、グルグルと歩き回った。
「この角にパン屋があった」とか、「あの裏手に細い路地がある」とか──目の前の瓦礫の前で叫んでな。
瓦礫の山しかない場所に、親父だけが“街”を見ていた。
何も無い幻想でしかなくとも、その地に戻れただけで、親父が三十四年も求め続けていた念願は、確かに叶っていたんだと思う。
半分役目を忘れていたみたいだったが、誰も咎めなかった。
ああいう反応になることは、現場に来る前から分かっていたからだ。
それでも俺は、記録係に位置と発言を全部残させた。
感傷じゃない。
あれもまた、都市を復旧するための情報だったからだ。
戦前の生活動線、路地の抜け方、建物の配置。
図面もデータも失われたこの街で、それを知っている人間の言葉は、それだけで復旧の手がかりになる。
たとえ、本人がそれを思い出話のつもりで口にしていたとしてもな。
そして、住宅地の角にあった一軒を見て、足が止まった。
位置も構造も、親父の話と一致していた。
あれが、親父の家だった。
長年放置されていたせいか、建物は既に潰れていて、雨風すら凌げない状態だった。
外に放置されていたポルシェも、外装が剥がれ落ちて、錆びた鉄の塊になっていた。
瓦礫をどかして内部を確認したが、生活の痕跡だけは妙に残っていた。
壁際に押し潰された家具や、湿気で波打った写真の束──その中には、親父の少年時代や家族と写ったものも混じっていた。
この時になって初めて、自分の祖父母と叔母の顔を見た。
作業として踏み込んだはずの家だったが、妙な感覚があった。
一度も来たことのない場所なのに、どこかで知っているような──そんな感覚だ。
親父は、家の中で通れるところを一通り回った。
ガレージ、浴室、書斎──自分の部屋に入ると、放置された子供の玩具を手に取って、しばらく動かなかった。
最後に、リビングだった場所に行くと、机に突っ伏して泣いた。
「ようやく帰れた。俺は帰れたんだ」
おそらく家族で食事を囲んでいたであろう机に、親父は声を上げて泣いていた。
俺は、その様子を少し離れた位置から、親父が泣き終わるまで見ていた。
安全確認も、記録も、一通り終わっていたからな。
……気づいた時には、涙が出ていた。
理由ははっきりしない。
ただ、あの時の俺には、イギリスが他所の国には思えなかった。
生まれた場所じゃなくても、帰りたいと思う場所はある──そういうことだったのかもしれない。
それまで、親父が故郷を語る度に冷めた顔で聞いていたが、あの時になって、ようやく理解した。
親父にとってここは、単に帰りたい場所じゃない。
帰るべき場所だったんだ。




