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圧倒的戦力

イタリア・ミラノ ヨーロッパ連合軍イタリア北部戦域司令部司令官 大佐 アントニオ・ストラーロ


 冬が明け、巨獣が再び活発化する季節となった頃、我々が最も警戒していた脅威──ベルゼブブが、アルプス山脈を越えてイタリアに侵攻してきた。


 ヨーロッパ各地で幾つもの都市国家を崩壊させ、軍隊だけでなく社会そのものを破壊してきた「侵略的軍性巨獣種」の襲撃──この一報はミラノ防衛拠点の情報網を通じて即座に確認され、イタリア政府やヨーロッパ連合軍司令部、各地の地方行政機関へと伝達された。

 

 通信網が完全に健在だった時代とは違い、当時は衛星通信も地上回線も断続的で、情報共有には常に遅延があった。 

 それでもなお、この情報だけは異例の速さで拡散され、イタリア全土に緊張が走った。

 

 軍だけではない。

 行政、警察、民間企業、そして一般市民に至るまで、誰もがその意味を理解していた。

 それほどまでに、アルプス突破という事実は重大だった。


 国家存続の危機──その言葉は、決して大げさではなかった。


 私が司令官として担当していたのはアルプス防衛線の維持と、万一突破された場合の本土防衛計画の立案だった。


 アルプス山脈は、長い間、我々にとって天然の防壁だった。

 急峻な山岳地帯は巨獣の大群が移動するには適さず、軍隊的な生態を持つベルゼブブ群であっても、あの地形は簡単には越えられない。


 だから欧州の軍人の一部は、こう考えていた。

「アルプスがある限り、イタリアは最後まで持ちこたえる」と。


 だが、ベルゼブブは我々の想定よりも遥かに適応力が高かった。

 

 奴らは単に力任せに山を越えたわけじゃない。

 数年かけて下調べを行い、侵入ルートを計算したうえでの侵攻だった。


 まず、飛行型がアルプス上空の監視網を突破した。

 それは単独行動ではなく、明確に統制された編隊だった。

 偵察を兼ねた飛行型が先行し、続いて大型の爆撃型が空路を確保する。

 奴らは我々のレーダー網や対空砲火の弱点をまるで理解しているかのように、監視の薄いルートを選んで侵入してきた。


 そして、その空からの侵入に合わせる形で、地上部隊も動き始めた。

 アルプスのいくつかの山岳ルート──特に氷河の後退で露出した古い峠道を使い、ベルゼブブの地上部隊が南下してきた。

 

 先頭を進んでいたのは盾型。

 歩兵型より一回り大きい個体群で、戦車砲の直撃にも耐えるほどの外殻に覆われている。

 奴らはその巨体を並べて、生きた防壁として前進してきた。

 

 その背後に続くのが歩兵型の個体群だ。

 盾型ほどの防御力はないが、それでも装甲は分厚く、通常の歩兵火器じゃほとんど効果がない。

 近距離戦では戦車並みの脅威になる。


 さらに後方には、砲撃型と呼ばれる個体がいた。

 ベルゼブブ軍の主要火力でもある奴らは、角型の器官から強力な火炎弾を射出する能力を持っている。

 数キロ先の目標を正確に破壊できる厄介な存在で、都市戦では特に危険な個体だった。

 建物の内部に潜んでいる部隊を、壁ごと破壊してしまう。

 実際、ヨーロッパ各地の都市防衛戦で多くの守備隊がそれで壊滅している。


 飛行部隊、突撃部隊、そして砲撃支援。

 明確な役割分担を持った、長年訓練を積んだ軍隊のように組織化された戦術単位だった。


 空では飛行型と爆撃型が編隊を組み、防空網を攪乱しながら侵入する。

 地上では歩兵型が前進し、砲撃型が後方から火力支援を行う、典型的な“侵攻部隊編成”。

 ベルゼブブがヨーロッパ各地の都市を落としてきた時と、まったく同じ構成だった。


 アルプス防衛線が突破されたという報告が最初に届いたとき、参謀たちはしばらく言葉を失っていた。


 イタリアが各地の難民を受け入れ、ヨーロッパ連合国と呼ばれるようになってから数年。

 あれほど堅固だと信じられていた天然の防壁が、ついに破られた。

 

 ヨーロッパ文明そのものを守る、最後の天然要塞だったアルプス山脈が突破されたということは──次に戦場になるのは、ローマ、ミラノ、フィレンツェといった都市そのものだという意味だった。

 

 我々はイタリア軍を中核に、国内に残っていたあらゆる戦力をかき集めて迎撃体制を急ごしらえで整えた。

 

 だが、戦力はどう見ても足りていなかった。

 

 ベルゼブブが侵攻してくる前から、イタリアはすでに何度も巨獣と戦っていた。

 各地で発生する巨獣災害に対応し続けた結果、人的資源も装備も消耗しきっていた。

 

 他国はそれぞれ自国防衛を優先するため、外部からの支援はほとんど期待できない状況。 

 制空権も、地上戦力の優位も、敵には遠く及ばない。

 

 それに加えて、当時のイタリア軍は統率面でも大きな問題を抱えていた。


 祖国を失ったヨーロッパ各国の難民と、その残存軍がイタリアに流入し、軍の再編が行われた。

 名義上はイギリス部隊、フランス部隊、ドイツ部隊といった形で祖国ごとの編成を維持していたが、実態はイタリア軍の内部に各国軍が混在している状態だった。


 当然、問題は山ほど起きた。


 国が違えば、軍のやり方も違う。

 指揮系統の考え方、戦術思想、装備運用、すべてが微妙に食い違う。 

 同じ言語で意思疎通ができたとしても、すぐに連携できるほど単純な話じゃない。

 長い時間をかけて作り上げた軍隊同士の文化の違いは、そう簡単には埋まらない。


 作戦会議一つ取っても、意見がまとまらないことが珍しくなかった。

 各国の指揮官が、それぞれの軍事常識で動こうとするからだ。

 戦術よりもまず「誰がどこを指揮するか」で揉めることさえあった。


 しかも、それを調整する余裕すら、当時のイタリアにはなかった。


 ヨーロッパ連合国と化したイタリアでも、日々増え続ける難民の収容と治安維持、物資の調達と分配──そのすべてを回しながら、同時に巨獣との戦闘が続いていた。


 国家としての体力は、常に限界まで削られ続けていた。

 我々は軍としての形だけは保っていたが、実情はほとんど崩壊寸前だった。


 終わりの見えない戦争。

 そして、故郷を失ったという現実。


 兵士も民間人も、誰もが疲れ切っていた。

 希望なんて言葉を口にする者は、いつの間にかいなくなっていた。


 アルプス山脈を背に、天然の防壁に頼りながら、せめて今日一日を生き延びる。

 明日のことは考えない。

 今日を乗り切ることだけを考える。


 そんな日々の繰り返しだった。

 そして、そんな時に奴らはその山を越えてきた。


 あの防壁を突破された時点で、状況ははっきりしていた。

 まともな防衛戦ができるかと聞かれれば──できるはずがない。


 それでも、戦うしかなかった。


 イタリア北部の最前線──ミラノ防衛線。

 あそこが陥落すれば、その先に大規模な防衛線はもう残っていない。

 つまり、それはイタリア半島全域の喪失を意味していた。


 我々に残されていた選択肢は、たった二つだけだ。

 戦うか。

 全滅するか。

 

 だが、状況が大きく変わったのは、その時だった。


 我が軍の戦車隊と、迫り来る巨獣軍の歩兵型が激突する直前──突如、戦場の横合いから強烈な熱線が放たれ、敵の前線部隊が一瞬にして消えた。

 比喩でもなんでもなく、本当に“消えた”としか言いようがない。


 先頭にいた歩兵型の群れ、その背後にいた数体の砲撃型、さらに後方の地面まで含めて、一直線に焼き抜かれていた。

 残っていたのは、赤く溶けた地面と、蒸発しきれなかった装甲片の残骸だけだった。


 破壊力だけ見れば、大規模な航空爆撃と変わらない。

 いや、下手な爆撃よりも正確だったが、味方の航空機は一機たりとも飛んでいない。

 ミラノ防衛線の上空は、すでにベルゼブブの飛来種によって半ば制圧されていたからだ。

 こちらの航空部隊は、迎撃のために散開していて、この戦区にはいなかった。

 

 すぐに周囲を索敵させた結果──視界の先、煙と山の向こうに彼が立っていた。


 “ガクラ”。


 直前の情報では、オーストラリアのキャンベラで巨獣と交戦していたはずの存在。

 そこからここまで、地球半周にも及ぶ距離を、あまりにも短時間で移動してきたのだ。


 報告によれば、ベルゼブブの軍団の動きが確認されたほぼ同時期、巨獣の駆除を終えたガクラが海へ帰る際、突如として進路を切り替え、そのまま南米大陸を大きく迂回しながら大西洋を突き進んだという。

 

 海上移動の速度も異常だった。

 観測された水面の航跡や、海面温度の変化から逆算すると、通常の艦船の何倍もの速度で海中を移動していたらしい。


 そして、イタリア北西部──ジェノバ港付近の海岸線に突如出現。

 上陸するや否や、背中からジェットのような推進エネルギーを噴射し、姿勢を四足に切り替えると、地を這うような姿勢で進撃を開始した。


 速度は異常だった。

 ジェノバからミラノまでの距離は、およそ百数十キロある。

 普通の軍隊なら数時間どころか半日以上はかかる距離だ。

 

 だが、ガクラは防衛線の各所をかすめながら直進し、ほぼ休むことなく、信じがたい速さでミラノへと到達したという。

 人類のどんな車両や航空機とも比較にならない速度だった。

 

 ただ、当時の我々はその動きをほとんど把握できていなかった。


 巨獣戦争が長引いたことで、衛星通信網はすでに満足に機能していなかった。

 各地の監視システムも断片的にしか残っていない。

 そんな状況では地上レーダーと断片的な観測情報を繋ぎ合わせるしかなく、広域の移動を追跡するには、あまりにも不完全な体制だった。


 だから、我々がガクラの移動を完全に把握できたのは──彼がすでに戦場に姿を現した後だった。


 我々がその場に立ち尽くしている間にも、ガクラは容赦なく熱線を放ち続けていた。


 その威力は、今さら説明するまでもないだろう。

 一発で数十匹のベルゼブブをまとめて蒸発させる。

 装甲の厚い盾型だろうと、砲撃型だろうと関係ない。

 熱線が触れた瞬間、大爆発を起こして消滅する。


 しかも彼は、ただ無差別に撃っていたわけじゃない。

 照準は、驚くほどに正確だった。


 ベルゼブブ軍の隊列の中でも、火力を持つ砲撃型や爆撃型といった戦術的に重要な存在を、まるで見分けているかのように優先して破壊していった。

 熱線が放たれる度、一発で数十匹をまとめて消し飛ばすその圧倒的な威力によって、密集していた部隊はまとめて焼き払われていった。


 あれはもう、戦闘というより掃討に近かった。


 しかも戦場の状況が、彼にとって都合が良すぎた。

 当時、ベルゼブブ軍が侵入していた地域は、市街地から少し離れた工業地帯の外縁であり、すでに民間人の避難が完了していた。

 戦闘の激化を見越して、建物の多くもすでに放棄されていた。


 つまり、民間人も守るべきインフラもない。

 もしあれが都市の中心部だったら、被害はベルゼブブ以上だったかもしれないが、その時の戦域には出力を抑える必要も、破壊を遠慮する必要のない、完全な戦場だった。 

 ガクラはその状況を理解しているかのように、躊躇なく高威力の熱線を連射して叩き込むことができた。

 

 だが、何よりも決定的だったのは、ガクラの咆哮だった。


 あの力強い咆哮──ただの威嚇ではない。

 明らかに生物の闘争本能を刺激する、特殊な音波を含んでいた。

 

 地面が震え、空気が波打つような、胸の奥まで響く低い振動音。

 それを耳にして最初に感じたのは、恐怖でも威圧でもなく、もっと原始的な感覚だった。


 体の奥にある、本能みたいなものが無理やり引きずり出される感覚だ。


 人間ですらそうだった。

 ベルゼブブにとって、あれがどれほど強烈な刺激だったかは想像に難くない。

 

 その咆哮を浴びたベルゼブブたちは、歩兵型や飛行型など種類問わず、整然と隊列を組んで前進していた奴らが、突然ばらばらになった。

 隊列が崩れ、個体同士がぶつかり、統制が完全に失われた。


 そして奴らは、一様に自我を失ったかのように暴走し、自らの隊列や命令を無視して、狂ったようにガクラへと襲いかかった。

 まるで理性を奪われた野生動物みたいだった。


 ベルゼブブ軍と戦ったことがある奴なら分かるが、奴らとの戦いにおいて最も厄介なのは、個体の強さだけではない。

 指揮型を中心に構築された“戦術的集団行動”だ。


 歩兵型は突撃を担当し、砲撃型は後方から火力支援を行う。

 飛行型は索敵と空中制圧。

 そして指揮型が、それらすべてを統合して動かす。

 

 その連携は、人間の軍隊とほとんど変わらない。

 いや、場合によってはそれ以上だった。

 個体の能力を最適に配置し、まるで軍隊のように連携を取るあの戦法は、人類の防衛線を何度も破ってきた。


 どれだけ兵器があっても、戦術で負ければ意味がない。

 ベルゼブブ軍は、その戦術でヨーロッパを崩壊させてきた。


 だが、ガクラの咆哮は、その高度な戦術体系そのものを破壊した。

 

 それは単なる衝動的な咆哮ではない。 

 生物の闘争本能を強制的に刺激することで敵の指揮系統を破壊し、戦術を無効化し、群れを暴走させる。

 結果としてベルゼブブ軍は、自分たちの最大の武器──組織的戦闘能力を自分から捨て、隊列もなく、支援もなく、ただ突撃するだけの群れになった。

 

 それは最早、敵の指揮系統と連携意識を寸断する、意図的かつ致命的な“戦術兵器”と呼ぶべき代物だった。


 そして統制を失い、巨大な獣として連携も支援もなく、ただ本能のまま突進してくるベルゼブブ軍。

 強みである統率を失ったとはいえど、あの数だ。

 奴らが弱くなったわけでも、個体の大きさも、力も、数も、何一つ減っていない。

 

 むしろ暴走したことで、より危険になったとも言える。

 数百、いや千単位の巨体が、ただ本能のままに突進してくる。

 それぞれが戦車に匹敵する質量と力を持っている。

 しかも恐怖も後退もなく、ただ本能のまま敵へ向かって走り続ける。


 本来なら、それだけで国家が一つ消える規模の災害だ。

 戦術理論で考えれば、防ぎようのない自然災害に近い。

 津波や火山噴火のように、戦術でどうにかできる範囲を完全に超えている。

 

 それを前にして、ガクラは一歩も退くどころか、むしろ、迎え撃つ姿勢を取った。


 暴走する群れを正面に据え、ゆっくりと体勢を低くする。

 そして体表の隙間から漏れていた赤い光が、はっきりと強さを増していった。


 ベルゼブブ軍が押し寄せる中でも、ガクラは動かない。

 焦りも、迎撃の予備動作も見せず、ただ内側に何かを溜め込むように静止していた。

 あれは体内で急速に膨大なエネルギーを生成して圧縮し、蓄積していた。


 そして群れが目前まで迫った、その瞬間──ガクラは動いた。

 溜め込んだエネルギーを腕部へ一気に集中させ、殴りつけるように地面へと打ち込んだ。


 直後、大地が爆ぜた。


 現象としては、火山の噴火に近い。

 圧縮されたエネルギーが一斉に解放され、岩盤が砕け、土砂が弾け、衝撃波が正面へと奔流のように走った。


 たった一撃。


 それだけで、ガクラの目前にまで迫っていたベルゼブブ軍の多くが、消し飛ばされた。

 地上の歩兵型も、空中から降下していた飛行型も、数百、数千体がエネルギーの噴火に飲み込まれて消えた。

 

 この時点で、すでに壊滅的な被害が出ていた。


 だが、それでも奴らは止まらない。

 前列が吹き飛び、空白が生まれたその隙間を埋めるように、後続がそのまま突っ込んでくる。

 上空からは、飛行型と爆撃型が一斉に降下を開始した。


 数で押し潰す。

 ただそれだけの行動。


 それでも十分に脅威だった。


 それに対してガクラは、飛行部隊が目前まで迫った瞬間、空へ向けて火炎を放った。

 先ほどのエネルギー解放とは質が異なる、だが同等規模の出力。


 莫大なエネルギーを使ったであろうにもかかわらず、空に向かって放たれた火炎放射が、まるで戦場全域に地獄の天蓋を広げるかのように空を赤黒く染め上げた。

 その灼熱は逃げ場すら与えず、飛来していた飛行部隊の軍勢を一網打尽に焼き落とした。


 地上では、押し寄せる無数の歩兵型が、間断なく撃ち込まれる高出力熱線により前線ごと切り裂かれ、崩れていった。

 

 運よくその熱線をくぐり抜けて接近戦に持ち込めたとしても──結果は同じだった。


 歩兵型たちは集団で取り囲み、巨体に密着して攻撃を仕掛ける。

 普通なら、その質量と数でどんな相手でも押し潰せる戦法だ。


 だが、ガクラには通用しない。


 歩兵型が押し寄せて体に取り付くたびに、ガクラの全身から無数の棘が槍のように突き出し、次々と体を貫いていく。

 突き刺さった巨体が暴れるたび、周囲の個体まで巻き込まれて崩れていった。


 それでも数で押し切ろうと、さらに群れが密集した瞬間──ガクラの体から膨大なエネルギーが、巨大な衝撃波として解き放たれた。

 爆発のような衝撃が全方位に広がり、周囲に群がっていた歩兵型をまとめて吹き飛ばした。

 巨大な体が宙に浮き、破片のように転がっていく。

 

 その威力は、近距離の砲撃にも匹敵していた。

 数も、外殻も、巨体もほとんど意味を持たず、群れで取り囲んでも、近づいた瞬間に吹き飛ばされるだけだった。


 厚い外殻を誇る砲撃型や盾型すら、ガクラは躊躇なく肉弾戦で叩き伏せた。

 

 奴らは歩兵型より大柄で、厚い外殻を持つ。

 通常兵器ではほとんど傷がつかない。

 人類の防衛戦では、あいつらが突破口になることが多かった。

 あの個体が前に出るだけで、防衛線が崩れることも珍しくない。

 砲撃型は後方から強力な火炎弾を撃ち込み、盾型は前線で砲撃を受け止める。

 その後ろに歩兵型が続く。

 あれがベルゼブブ軍の定番の突破戦術だった。


 しかし、それもさえも、ガクラには何一つ通じなかった。

 

 今でも強く印象に残っている光景がある。


 ガクラが自分より大柄な砲撃型を掴んで振り回し、周囲の歩兵型と砲撃型をまとめて薙ぎ払うあの光景。

 巨大な体が鈍器みたいに使われて、ベルゼブブ同士が次々に吹き飛ばされていく。

 

 そして最後には、その砲撃型は遠くへ投げ飛ばされ、地面に衝突した。

 その瞬間、戦場の轟音の中でも、敵の体節が粉砕される鈍い衝撃音が響いた。


 人類の兵器にも耐えるほどの装甲を持つ個体同士で、あれだけの勢いでぶつけられる。

 そのうえ、数十トンはある巨体が地面に叩きつけられる。

 ただで済むはずがなく、砲撃型の体節は完全に砕けていて、もう二度と動かなかった。


 常識では考えられない光景だった。


 人類が何発も砲撃して、ようやく倒せる個体が──ただ投げられただけで殺されている。

 巨大な個体が、自分より小柄な巨獣に投げ殺される。

 そんな戦い方は、人間の戦争の常識には存在しない。


 血塗れになったベルゼブブの砲撃型が、最後の抵抗としてガクラへ火炎弾を放った時だった。


 奴はすでに瀕死だった。

 それでも、自分へ止めを刺そうと迫るガクラへ向け、至近距離から砲撃を叩き込んだ。


 ただでさえ、一発で戦車大隊に損害を与える火炎弾だ。

 しかもあれは、死力を振り絞って放たれた一撃だった。


 直撃の瞬間、爆炎が周囲一帯を呑み込み、熱風だけで周辺の大地が吹き飛んだ。

 まともな生物なら、原形すら残らない。

 少なくとも、我々の常識ではそうだった。


 だが──ガクラは止まらなかった。

 吹き飛ばされることも、怯むことすらない。


 爆炎の中から、そのまま振り上げた盾型を、躊躇なく砲撃型の頭部へ叩き下ろした。

 鈍い破砕音と共に、砲撃型の頭部外殻が陥没し、巨体がその場へ崩れ落ちた。


 それで終わりだった。


 最後の抵抗。

 命を削った反撃。

 それすら、まるで意味を成さなかった。


 私はあの時、自分より巨大な敵に恐れすら抱かず、真正面から踏み潰していくガクラの姿を見て、頼もしさより先に“戦慄”を覚えた。


 あれだけの砲撃を受けても、吹き飛ばされない。

 いったいどれほどの質量を持っているのか。

 どういう構造なら、あの衝撃に耐えられるのか。


 物理法則そのものが、あの存在だけ別の理屈で動いているようにしか見えなかった。

 

 しかもガクラは、どれほどの傷を負おうと一歩も退かず、ただひたすらに前進を続けた。

 ただ前へ進み、目の前の敵を叩き潰し続ける。


 数では圧倒的にベルゼブブ軍が上だった。

 本来なら、それだけで戦いは決まるはずだった。

 数千の巨獣が一体の敵を包囲している状況など、戦術理論で言えば、勝敗は最初から決まっている。

 どれほど強力な個体でも、四方八方から押し潰されれば終わる。

 それが普通の戦場の理屈だ。


 だが、あの戦いはその理屈を完全に裏切っていた。

 ベルゼブブ軍は確かに数で包囲していたのに、押していたのはガクラの方だった。

 ベルゼブブ軍がたった一体の存在に押し返されるという現実は、その戦術理論を根底から否定していた。

 

 前進するたびに歩兵型が吹き飛ぶ。

 飛行型と爆撃型は空ごと焼き尽くされる。

 砲撃型は最後の抵抗すら通じず、叩き潰される。

 盾型が振るわれるたびに外殻が砕ける。

 熱線が走るたびに、前線そのものが消し飛ぶ。


 包囲しているはずの側が、逆に押し潰されていく。

 そんな光景、誰も想像していなかった。


 その姿はまさしく、一個師団にも匹敵する“意志を持った兵器”だった。


 それでも、ベルゼブブ軍は止まらなかった。


 本来の奴らなら、あれだけの損害が出れば撤退を選択する。

 そうでなくても、隊列を組み直すか、指揮型の命令で戦術を修正する。

 そういう反応が必ずある。

 ベルゼブブ軍は本来、それほど高度に統制された軍勢だからだ。


 だが、あの時の奴らにはそれがなかった。

 闘争本能を刺激され、冷静さを完全に失っていた。

 自軍の損害も、戦況も、何も認識していない。


 ただ目の前の敵を倒す。

 その衝動だけで後続の個体が、倒れた仲間の上を踏み潰して進んでくる。

 死骸の山が積み上がっても、奴らは止まらない。


 戦場は完全に狂っていた。


 だが、その狂気の戦場にも終わりは来た。  

 戦線中央にいた指揮型──ベルゼブブ軍の中枢たる存在が、ガクラの熱線により跡形もなく消し飛ばされた瞬間、奴らはようやく自分たちの状況を理解した。


 統率を失った敵軍は、戦術的撤退ではなく、恐慌に駆られた逃走を始めた。

 あれほど整然と連携していた巨獣たちが、蜘蛛の子を散らすように四方へ逃げ出していく。

 互いにぶつかり合いながら、味方同士で踏み潰し合う個体もいた。


 もしかすると、暴走していた最中でも、わずかに残っていた理性があったのかもしれない。

 その理性によって、指揮型の存在が軍における最低限の生命線であることを忘れさせていなかった。

 

 つまり、あいつが生きている限り、群れはまだ「軍隊」だった。


 だが、その存在が消えた。

 その死を理解した瞬間、ベルゼブブ軍は完全に崩壊した。

 

 あれは、人間の軍隊でも似たようなことがある。


 戦場の混乱の中で、司令部や指揮官を失った軍隊がどうなるか。

 統率を失った部隊は、戦術的な撤退ではなく、ただの逃走に変わる。

 規律は崩れ、命令系統は消え、兵士はそれぞれ自分の命だけを守ろうとする。

 

 あの時のベルゼブブ軍は、まさにそれと同じ状態だった。


 我々は、ただ息を呑んでその光景を見ていた。


 ベルゼブブ軍の大部隊が壊滅し、残党が我々から逃げていく。

 戦略的撤退ではなく、完全な敗北による逃走。

 奴らが出現して以来、ヨーロッパ戦線で一度も見られなかった光景だ。

 あれほど組織的に戦っていた巨獣の軍勢が、統制を失い、恐慌状態で逃げ出している。

 

 その事実がどれほど衝撃的だったか。 

 戦場にいた誰もが言葉を失った。


 だが、同時に胸の奥底に残ったのは、どうしようもない悔しさだった。

 我々には、あの勢いに乗じて追撃できるだけの戦力がなかったのだ。

 いかに目の前の軍勢を粉砕できたとしても、それはベルゼブブ軍の数ある部隊の一つに過ぎない。

 

 当時の我々の状況では、防衛でさえ精一杯──ここで攻撃に転じれば、次の戦いでは守ることすらできなくなると予想された。

 だから、歯噛みしながらも、我々は戦力を温存し、戦況を見守るしかなかった。


 やがて、ガクラに叩きのめされたベルゼブブ軍は、アルプス山脈を越えて撤退した。

 ガクラもまた、山脈を越える意思はないのか、ミラノ付近の残党を始末し終えると、静かに海へと向かった。

 我々は、その全てを見送るしかできなかった。


 戦場に残されたのは、瓦礫と焦げた大地、そしてガクラの落としていった棘弾。

 その内部に蓄えられた莫大なエネルギーは、我々の発電方法となり、枯渇しかけていた都市部の電力網と、兵站の資源を回復させた。

 

 そして、制御できぬとはいえ、ガクラという新しく、かつ圧倒的な戦力が我々の側に現れたことは、間違いなく戦果の一つだった。

 ガクラの介入は戦場での勝利だけでなく、イタリアという国家そのものを立て直す時間を与えてくれた。


 だが、課題は山積みしていた。


 防衛戦に勝利したとはいえ、それは我々の力ではない。

 たった一体の巨獣──ガクラが戦況を覆したに過ぎず、以後も巨獣災害が起これば、その力に頼らざるを得ない場面が続くだろうという現実は、誰の目にも明らかだった。

 

 軍人として、それは決して健全な状況じゃない。

 だからこそ、ヨーロッパ連合国としてのイタリアは、急ぎ部隊を再編し、物資の分配を整え、次なる戦いに備えなければならなかった。

 

 国土には、まだ数え切れないほどの難民がいる。

 都市は半分以上が機能不全に陥っている。

 そんな状態で、ただ現状維持に甘んじることはできなかった。

https://www.pixiv.net/artworks/146732049

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