地下鉄
日本・大阪 会社員(当時) 岩瀬寛也
あの頃を知らない連中からすれば、巨獣が出現する前の時代は光り輝いて見えるそうだ。
巨獣に怯えることなく、娯楽が満ち溢れ、医者や薬に困ること無く、誰もが美味しい食べ物にありつける。
何より、誰でも仕事に就けて安定した生活が送れる。
それが平和な時代、だとな。
そんな時代は当時の俺からすれば、ただただ退屈な毎日だった。
俺は名門大学でそれなりに良い成績を収め、大企業に勤めていた。
誰もが羨むエリート街道まっしぐら……と、言いたいところだが、実際のところは、毎日会社のデスクに貼り付けにされて、意味があるのかも分からないプログラムをひたすら組まされていた。
打ち合わせの資料は誰が読んでるのか分からないほど形式的で、データ入力と分析は、何か結論が出る前に別の上司が別の指示を出して全部ひっくり返してくる。
そんな調子だから、やりがいなんてものは無いに等しかった。
目の前のパソコンをひたすらカタカタ叩いて、プリントアウトして、印鑑を押して、また訂正して、会議室で怒鳴られて、また修正して提出して……まるで、ただただ歯車として使い倒されてるような感覚だった。
そしてミスをすれば、誰よりも早く見つけ出して得意げに指摘してくる上司がいる。
「これは何の意図があるんだ?」「これ、どこを参考にした?」って、まるで取り調べのように詰められる。
意図なんてあるわけない。
上から言われたとおりに処理してるだけなのに。
でも、そんな言い訳は通じない。
下っ端がミスすれば、それは"考えが足りない"の一言で片付けられる。
そんな仕事だった。
退屈で、無意味で、ただただ精神を削られる毎日。
それでも、一つだけ救いがあった。
金曜日の後にやってくる休日。
仕事に追われることなく、誰にも邪魔されず、好きにテレビを見て、趣味に没頭できて、のんびりと過ごせる最高の2日間。
会社が忙しい時はその貴重な休みすら潰されて、上司の意味不明なこだわりのせいで資料を差し戻されたり、突貫の会議の準備に駆り出されたりもしたが……その日は定時に帰ることができた。
俺はルンルン気分で地下鉄の列車に乗った。
車内は色んな奴が席に座り、ラジオでニュースを聞き、同僚らしい奴とペラペラ会話する。
俺は隅の席に座り、ぼーっと窓の外を眺めていた。
別に地下鉄を見るのが好きなわけじゃなく、明日の予定に思いを馳せていた。
せっかくの休みだ。
ゆっくり、だらだらと家で寝転がって、映画でも見ようって。
列車が走り出し、地下鉄のホームが窓から離れた途端、いきなり強い衝撃が来た。
無警戒にイスに座っていた時、突然それが起きたものだから、衝撃に備えるなんてできなかった。
思いっきり頭を前の座席に打ちつけ、頭蓋骨が割れたのかと錯覚するような痛みに襲われた。
間抜けにも突然の揺れより、その時痛みの方が最優先だったよ。
痛みが引いた時になって、ようやく周囲に目を向けたよ。
車内灯は壊れていて真っ暗だったけど、誰かが持ち込んでいた懐中電灯で状況は把握できた。
周囲には先の衝撃で吹っ飛ばされたらしい人がうずくまっていたり、無事な人でも何が起きたか分からずオロオロとしていた。
列車は完全に瓦礫に埋もれていて、車体の一部が潰れ、まるで巨大な何かに踏み潰されたみたいな状態だった。
最初に頭をよぎったのは、地震だという想定だった。
とにかく冷静になって考えようとしたが、あまりにも異常な状況だったから、心の中ではかなり混乱していた。
それであの時、列車にいた俺たちが出した判断は、地下鉄車内で大人しくしていること。
地下が崩れている以上、無理に動けば瓦礫に巻き込まれる可能性が高い。
もし余震が来たら、構内がさらに崩れることもあるし、下手に移動すれば二次災害に巻き込まれるだけだ。
誰かが持ってたラジオは、衝撃でぶっ壊れてて何の情報も得られなかった。
それじゃあ、どこに行けば安全なのか分からない。
だから、列車という金属の箱の中にとどまるのが、最も安全だと判断した。
今の状況なら変に動くより、救助が来るまで待ってる方が良い、とな。
実際、他の乗客も似たような判断をしていたようだった。
泣き叫ぶ子どもを必死で抱きかかえる親、黙り込んで手を握り合うカップル、何度も何度も車内の様子を確認しようと立ち上がっては頭をぶつけて座り直す中年男性。
誰もが恐怖に押し潰されそうになりながらも、勝手に行動する者はいなかった。
誰かが「たぶん地震や」「待ってたら助け来るって」と言い、それが一つの希望のように静かに広まっていった。
誰も確証なんて無かったけど、その言葉を否定できる材料も無かったからこそ、皆それにすがるように車内にとどまり続けた。
俺もその一人だった。
ただ、この時はまだ、この先自分たちを襲う現実を、誰も想像すらしていなかったんだ。
あれから多分1時間経った頃だったと思う。
突然、俺よりずっと前方にある隣の車両から、窓が割れる音と一緒に悲鳴が響いた。
何が起きたのか確かめようと、近くにいた数人がその車両の方へ様子を見に行った。
だがすぐに、彼らは血相を変えて戻ってきて、叫びながら俺たちの方へ駆けてきた。
「やばい、逃げろ!!」
何が何だか分からなかったが、あの表情を見ればただ事ではないのは明らかだった。
だから、とにかく素直に従って走った。
他の乗客と一緒に後方の車両へと駆け込み、行き止まりの車掌室付近までたどり着いた時、思わず振り返った。
そこで俺が見たものは、ムカデだった。
ただのムカデじゃない。
大型犬ほどもある太い胴体、車両の長さに匹敵するような異様な体躯。
何よりも、そのアゴと前足にべっとりとこびりついた赤黒い血が、あの怪物がどんな奴で、何をしてきたのかを雄弁に物語っていた。
ドアの前にいた誰かが必死で扉を開けると、俺たちは我先にと流れ込むように車外へ飛び出し、脇目も振らずに地下鉄のホームへ向かって駆け出した。
逃げる途中、後ろからは何人もの悲鳴が響き、肉が裂けるような生々しい音が地下空間に反響していたが、誰一人として振り返ることはなかった。
ただひたすら、自分が生き延びることだけを考えて走った。
だが、ホームにたどり着いた時、俺たちはさらなる絶望を突きつけられた。
そこにもいたんだよ、あのムカデが。
しかも一匹じゃない。
複数が、ホームに逃げ込んでいた人たちを追い詰め、噛みちぎり、引き裂いていた。
地上に続く通路の前、まるで出口をふさぐように陣取ってさ。
前にも、後ろにも、あの化け物たちがいる。
もう、どこに逃げればいいのかなんて、誰にも分からなかった。
誰かが「もうダメだ!」と叫び、誰かが泣き崩れ、誰かが無言で走るのをやめていた。
完全にパニックだった。
俺は、ただ本能で動いてた。
気づいたら、トイレの入り口に向かっていた。
地下鉄構内の、あの汚れた薄暗いトイレだ。
……で、俺が駆け込んだのは、女子トイレの個室だった。
恥とか外聞どころか、そもそもそこがトイレなのかすら気づいてなかった。
どこかに隠れなきゃ、何とかしのがなきゃ──それだけだった。
俺はドアを閉め、鍵をかけ、便器の上に足を上げて身を隠した。
とにかく音を立てないように、息を殺し、気配を消して、ひたすら祈った。
ムカデどもに見つかりませんように。
頼む、頼むから──ここにだけは来ないでくれって。
――――――
岩瀬氏含む数名の生存者が救助されたのは、地下鉄崩落の原因であった牛鬼出現から12時間後の事であった。
地下鉄構内にはムカデ以外にも2種の巨大生物が確認されたが、突入した自衛隊との交戦で全て駆除された。
https://www.pixiv.net/artworks/146367283




