孤児
日本・北海道 猟師 愛美
大人たちは“巨獣が現れる前”の時代でも、「昔もそれなりに大変だった」なんてことを口にしてた。
仕事がないとか、生活が苦しいとか、戦争やテロ、差別や暴動……そんな話。
でも、私には、そんなの分からなかった。
今みたいに寒い夜に毛布が足りないこともなければ、缶詰を分け合って飢えをしのぐこともない。
空から警報が鳴って、地下へ逃げ込む必要もなかった。
外で爆音が響くたびに、誰かが「今のは巨獣じゃない」って言い聞かせる必要も、なかった。
私たちの数少ない娯楽だったテレビで映る“昔の日本”は、嘘みたいにキラキラしてた。
親がいて、好き嫌いができるくらい食べ物に困ることなく、子どもが鞄を持って登校し、帰ったら家でアイスを食べてる。
それが幸せな部分の“切り抜き”でしかないと、わかってはいた。
でも、それでもいい。
ほんの一瞬でも、そういう日々があったなら私たちの今より、ずっと幸せだったんだと思う。
だって私は、一度もアイスを“当たり前”に食べたことがなかったのだから。
テレビの中で、美味しそうに食事をする人たちを眺めながら、パン──と呼ぶにはあまりにも粗末な、ただの小麦粉の塊を口にする。
どんな味なのかも知らないまま、想像だけでそれを補って、味気のない食べ物を飲み込む。
そうして私たちは、過去の“幸せ”を、ただ羨み続けていた。
まるで、御伽噺に出てくるお菓子の家みたいに。
手を伸ばしても届かない、触れることもできないもの。
私たちにとって“過去”なんてものは、テレビの中のフィクションか、誰かが語る夢物語にすぎなかった。
私は物心ついた頃には、すでに北海道の孤児院にいた。
親が誰だったのか、愛されていたのか、どうしてそこに預けられたのか──何一つ、わからない。
記録が燃えたのか、そもそも最初から存在しなかったのか、知る術はもうない。
けれど、そんな子どもは、私だけじゃなかった。
むしろ、親の記憶がある子の方が珍しかった。
ある日、同じ部屋の子が泣きながら言った。「ママに会いたい」って。
でも、私は「ママって何?」と聞き返してしまった。
それを聞いたその子は、もっと泣いた。
その子の気持ちなんて分からなかった。
だって私たちは、“失った”んじゃなくて、最初から“持っていなかった”から。
だからきっと、私は過去の明るいところばかりを見て、ただ羨むことしかできなかった。
平和とか、家族とか、そういう言葉の重みを知らない私たちにとって、過去はただの絵空事であり、手に届かない“幻影”だった。
孤児院では、幼いころから徹底的に戦闘訓練やサバイバル知識を叩き込まれた。
“自衛隊”の訓練というよりは、むしろマフィアや傭兵の裏マニュアルみたいなものだった。
ナイフの使い方、銃の分解整備、止血処置、物陰の使い方。
“相手の動脈はどこにあるか”、“どうすれば静かに殺せるか”そういうことを、私たちは九九を覚えるように学んだ。
怯えて拒んだ子もいた。
そういう子は、静かに荷物をまとめさせられ、別の孤児院に送られていった。
そこで武器とか車の製作、薬の知識、農作業の技術なんかを学ぶんだって聞いた。
“戦えない子ども”には、“戦わなくて済む技能”を与えるそういう仕分けは、ごく自然なこととして行われていた。
選ばせるわけじゃない。
割り振るだけ。
本人の意思なんて関係ない。
昔なら、きっと“非人道的だ”とか“子どもを兵士にするなんて”って言われてたはず。
でも、私たちにとってそれは“常識”だった。
何より、それで生き延びることができた。
ただ、殺すだけじゃなかった。
交流の中で「奪うな、交渉しろ」「生きるには、信頼も必要だ」と何度も教えられた。
“盗む”のではなく、“交換する”。
“殴る”のではなく、“共有する”。
そういう考え方を叩き込まれたから、私たちは単なる無法者にならずに済んだ。
たぶん、あの孤児院がなければ、私は今ここにいない。
どこかで死んでたか、巨獣に喰われるか、あるいは人間に裏切られて終わっていたと思う。
教育なんて名ばかりの訓練所だったけど、あそこで育てられてよかったと、私は思ってる。
13歳の時には、施設から離れて野良で生きることになった。
「技術を覚えたなら、あとは自分で生きろ」って言われた。
それが決まりだったし、それが普通だった。
“卒業”って言葉を使う大人もいたけど、それはただ、住む場所と食料の配給が打ち切られることの言い換えに過ぎなかった。
大抵、そうやって施設から放り出された子供が選ぶのは、三つだけ。
自衛隊に入るか。
どこかの組織の一員になるか。
猟師をして生計を立てるか。
他に道があるように見せかけて、実際にはそれしかなかった。
働き口なんて滅多にないし、義務教育なんてものも消えて久しい。
“戦えるかどうか”だけが、そのまま“価値”だった。
自衛隊も、組織も、戦えるなら誰でも歓迎した。
年齢なんて関係なかった。
むしろ、私たちのような子供の方が使いやすいとさえ言われてた。
小柄で動きが速くて、訓練されてて、命令に従順でそれに、死んでも“兵士が一人減った”としか数えられない。
私が猟師を選んだのは、戦い以外がからっきしで要領も悪かったから。
それに、自衛隊のような命令遵守と強い上下関係にはどうしても馴染めなかった。
組織の都合で行動を縛られるのが嫌だったし、自分のミスでチーム全体に迷惑をかけるような職場そんな責任の重さも、耐えられないと思った。
猟師はそういうのとは違った。
基本はチームで動くけど、判断や行動は自己責任。
上下関係もゆるくて、自衛隊みたいに“階級”じゃなく“経験”で話ができた。
先輩と後輩って関係はあっても、それは“教え合える関係”であって、“命令する関係”じゃなかった。
やることも単純明快。
小型の巨獣を倒して、その素材を業者に売るだけ。
やり方なんてどうだっていい。
銃で撃ち抜こうが、バットでひたすらぶん殴ろうが、車で轢こうが素材がきれいに取れさえすれば、それでいい。
肉は保存して食料になる。
外殻は防具や刃物に加工できるし、大型のものなら車両の外装や、簡易シェルターの資材にもなる。
だから、倒した数じゃなくて、「どれだけ使える部位を、どれだけ綺麗に持ち帰れたか」が全てだった。
質のいい素材を運べば、それだけ報酬も跳ね上がり、立場が一気に変わることだってあった。
命懸けだけど、夢のある仕事ではあった。
どんなに歳が若くても、どんなに過去の経歴がなくても、“今ここで何をできるか”だけが、評価の全てだった。
だから私は、そこにいた。
私には、その実力主義の世界が、何よりも居心地よかった。
……といっても、自衛隊や組織に入ってる連中より、こっちはずっと制約が多かった。
安定した収入なんて無くて、毎日がギャンブルみたいなもんだった。
質のいい素材が毎回手に入るわけじゃないし、同業者は多い。
他の連中に先を越されれば、それで終わり。
一日中張り込んで、何の成果もなく帰ることなんてよくあった。
それどころか、薬や装備の消耗で赤字になるのも、別に珍しくなかった。
武器も薬も、自分でどうにかするしかない。
銃は高すぎて手が出なかったし、弾もまともに流通していなかった。
普段は温存。
奇襲で一発撃って重傷を負わせてから、ナイフやバットでトドメを刺すのが基本のやり方。
それ以外だと緊急時か、仕留めきれないと判断した時にだけ使う。
弾が切れたら、銃身で殴るしかない。
そのころの私は、槍とかナイフ、拾った鉄パイプが相棒だった。
最初の頃なんて、フェンスを引きちぎった鉄筋に布を巻いて、自作の槍をこさえてた。
それでいて、仕事はあまりにも危険すぎた。
だって相手は人間じゃない。
それよりずっと力があって、反応も早くて、こっちの事情なんかお構いなし。
小さいやつでも、大人の男よりずっとデカくて、本能に忠実で、ただただ獰猛な生き物だった。
「真正面からタイマン張る」なんて、それ自体が自殺行為だった。
奇襲、罠、連携そうやって少しずつ仕留めるしかない。
だからこそ、戦い方を間違えた瞬間に、命が終わる。
実力があっても、経験があっても、判断を一つ間違えればそれまで。
昨日まで普通に話してた人が、次の日にはもう姿を消してるそんなの、日常茶飯事だった。
誰かがいなくなっても、名簿でチェックされるわけでもないし、報告義務もない。
命を落としても、誰も責任なんか取っちゃくれない。
せいぜい「惜しい人を亡くしたな」って誰かが一言つぶやいて、それで終わり。
そういう世界だった。
……それでも、私はここにいた。
ここにしか、私の居場所がなかったから。




