自衛隊
日本・東京 陸上自衛隊 東部方面隊所属・第1普通科連隊 第3小隊 分隊長(当時)/網倉荘所長 網倉総司
私たちのやり方を間違いだと、非人道的だと非難したければ、好きにすればいい。
だが、誰がなんと言おうと、私は胸を張って「間違いではなかった」と応える。
むしろ、私たちにできる唯一の“守る方法”であり、それ以外に選択肢は無かった。
2003年、最初の巨獣が大阪に出現して以来、日本各地いや、世界各国で、巨獣は次々と現れ、私たち人類はそれまで想定すらしなかった“種の存続”という問題に直面した。
当時、私は東部方面隊に所属する一般の普通科部隊歩兵として、災害出動に名を借りた巨獣対応に動員された。
戦争でも災害でもない、正体不明の脅威に対して、どのように向き合えばよいのか分からないまま、現場に立たされた。
都市部に現れた大型巨獣は、見た目からして圧倒的だった。
わずか数分で街を破壊し、人々を飲み込み、時には基地すら一撃で踏み潰す。
戦車や重火器すら通じない場面もあった。
それが「巨獣」という言葉の印象を決定づけた側面はあるだろう。
だが、私たち自衛官特に前線の普通科にとって、現実的で日常的な恐怖とは、むしろ“小型巨獣”だった。
人間と同じ、あるいはそれ以上の体格を持ち、クマやイノシシの比ではない俊敏性と攻撃性を備え、何より“人を狙う習性”を持つ個体群。
都市を蹂躙するような中型から大型個体は、確かに脅威だったが、それは空爆や重火器といった「軍としての対応」が可能な敵だった。
一方で奴らは夜の林道に現れ、仮設住宅を襲い、検問所を突破し、逃げ遅れた子どもや高齢者を引き裂いた。
時には排水溝や通風口をすり抜け、地下施設に巣を作り、あるいは学校や保育所に侵入する。
制圧には時間がかかり、被害はあっという間に広がった。
そして何より、奴らは“市民の暮らし”と、あまりにも近い場所にいた。
市街戦でもなく、戦線でもない。
日常に踏み込んでくる異物を、私たちは一体ずつ“手で潰していく”しかなかった。
そのとき、我々が持っていたのは、小銃と手榴弾、状況によっては散弾銃や火炎放射器程度。
建物の中での交戦では、貫通や跳弾がそのまま民間人の被害に直結する。
だから射撃一つとっても、通常の戦闘とはまるで勝手が違った。
引き金を引くまでに“撃っていい状況か”を一瞬で判断しなければならない。
だが、それでも民間人よりはるかにマシだった。
市民が手にするのは、棒きれかナイフか、運が良くて火炎瓶か。
連絡手段も不十分で、襲撃があっても外に伝わる頃には手遅れになっていることが多かった。
当時の記録には「自衛隊による掃討」「有害生物の駆除」といった言葉が並んでいるが、現場の実態はそんな整ったものじゃない。
都市近郊の夜間戦闘、山間部での斥候殲滅、崩れた住宅街の廃墟で逐一個体を排除し、“人が暮らせる区域”と“奴らの領域”をなんとか分ける、そんな日々だった。
夜間に襲来する個体も多く、任務中は常に緊張が張り詰めていた。
最前線では、捕食音が聞こえれば即出動。
銃声よりも先に、骨が砕ける音や、引きずる音で場所を特定することも珍しくなかった。
現場で我々が行うのは、遺体の回収ではない。
──そもそも、回収できる状態で残っていること自体が、稀だった。
多くの場合、“胃の中から出てきた市民の遺留品”を回収する。
時計、指輪、社員証、子どもの靴。
それらを一つずつ袋に分け、血と内容物を洗い流し、記録し、身元を照合する。
誰がどこで襲われ、どの個体に捕食されたのか。
それを突き止めることが、そのまま次の被害を減らす手掛かりになる。
……そういう意味では、あれも立派な“戦闘行為”だった。
ただ撃って終わりじゃない。
何が起きたのかを記録し、次に繋げる。
それを怠れば、同じやられ方を、別の誰かが繰り返すことになる。
だから私たちは、どれだけ消耗していても、その作業を省くことは許されなかった。
それを繰り返すうち、現場で戦っていた私たちは、この国の状況はいずれもっと悪化する、と確信するようになった。
“悪化する”という確信は、単なる悲観ではなく、前線に出れば出るほど、個体数の増加と出現範囲の拡大を、肌で実感できたからだ。
小型個体の出現は、まるでどこかから湧いてくるかのようで、駆除しても、別の地区で報告が上がる。
人員を増やしても、装備を増強しても、対応は常に“後追い”だった。
拡大し続ける巨獣の出現範囲、増え続ける犠牲者、補充されない物資、訓練が追いつかない新兵たち。
現場では、数字としての報告よりも早く、“空気”でそれが分かる。
昨日まで静かだった地域に、急に痕跡が増える。
鳴き声が聞こえる頻度が変わる。
見回りの間隔を詰めても、侵入を防ぎきれなくなる。
──要するに、押し負け始めていた。
海外に支援を求めようにも、状況は同じだった。
むしろ、日本以上に崩れている地域はいくらでもあった。
通信越しに入ってくる報告は、どれも似たような内容だったからな。
都市機能の停止。
地方の放棄。
軍の再編成と後退。
だから、「いざとなれば他国が助けてくれる」という希望的観測は、絵に描いた餅に過ぎなかった。
そもそも、日本という国自体があまりにも脆いのだ。
国土の多くは山林で覆われ、都市部と港湾に人口と産業が集中している。
裏を返せば、そのどちらかが崩れれば、国家機能は連鎖的に麻痺する構造だ。
過去の震災阪神淡路のとき、主要都市の一角が崩れただけで物流も通信も寸断された。
その記憶がまだ新しい中で、さらに巨獣という“動く災害”を相手にするのだ。
しかも今回は、壊されたら終わりじゃない。
壊した側が、そのまま居座る。
復旧しようとした場所が、そのまま“巣”になる。
補給線を引こうとした道路や港が、次の襲撃地点になる。
災害対応の延長でどうにかなる段階は、すぐに過ぎ去った。
食料自給率は輸入に依存し、島国である以上、資源は限られている。
食料もエネルギーも輸入に依存する島国で、海上輸送が一度止まれば都市は三日と持たない。
実際、巨獣による港湾地域への襲撃が増えるにつれ、燃料と弾薬は消費にまったく追いつかなくなっていた。
入ってくる量より、使う量の方が多い。
それが数週間続けば、もう計算は成り立たない。
現場に届くのは、「節約しろ」という命令だけだ。
撃つなとは言われないが、“無駄撃ちはするな”という圧力は常にあった。
だが現実には、無駄かどうかの判断は撃つ前には分からない。
だから結果的に、対応はさらに遅れる。
自衛隊は確かに整った装備と訓練体系を持つが、その役割はあくまで“国土防衛”であり、継続的な消耗戦を前提とした組織ではない。
想定していたのは、明確な敵と戦線、補給線が維持される戦争だ。
だが相手は違う。
前線は存在せず、後方も安全ではない。
補給は途切れ、戦力は徐々に削られていく。
隣国情勢を念頭に置いた備えはあっても、実戦経験は事実上皆無と言える。
海外派遣はあっても、対巨獣戦の戦訓はゼロから積み上げるしかなかった。
それでも現場では休む間もなく、昨日の常識が今日には通用しなくなる相手と向き合い続けた。
その一方で、現実を直視しない意見も少なくなかった。
「巨獣と共存できる」と主張し、自衛隊の存在や対応を真っ向から否定する声だ。
理屈の上では、いくらでも共存を語れる。
しかし、現場で“襲われ、喰われ、消える”人々の存在を無視した議論は、到底受け入れられるものではなかった。
危険生物と暮らせると言い張るのは、奇声を喚きながら刃物を振り回して話が通じない相手と平然と同居できる、と言うに等しい。
そしていざ、自分が襲われる立場になれば、決まって「助けてくれ」「撃ってくれ」と抜かす信念の無い連中だ。
綺麗事を掲げながら、最後には自らが否定した武力に救いを求める──その無責任さと身勝手さには、強い憤りを感じた。
ネットに齧り付く連中の中には、優れた情報収集手段を持ちながら、「自衛隊がいれば日本は無敵だ」と都合のいい断片だけを拾い上げる者もいた。
断片を繋ぎ合わせて、自分にとって都合のいい“全体像”を作る。
その上で、掲示板やら何やらで言葉をぶつけ合い、優劣を競って満足する。
だが、現場から見れば、それは単なる時間稼ぎに過ぎない。
現実が追いつくまでの、猶予だ。
生活は安泰だと信じ込み、現場を知らない者同士で言葉をぶつけ合い、満足してしまう。
自分の無力さや不安から目を逸らすために、他人を嘲笑する。
画面の向こうでだけ強者を気取る──そういう連中が掲げる「この国は滅びない」「巨獣だって倒せる」という言葉に、根拠はなかった。
ただの、願望だ。
そして、その願望を支えていた基盤──電力、通信、流通。
それ自体が、少しずつ崩れていった。
日を追う事にネットインフラも維持困難となり、情報が遮断される地域が続出する。
そうなると、もう比較もできない。
他がどうなっているのか分からない以上、自分のいる場所がどれほど悪い状況なのかすら判断できなくなる。
情報があるうちは、まだ“逃げ場”がある。
他と比べて、自分の位置を測れるからだ。
だがそれが無くなると、人は目の前の現実だけで判断するしかなくなる。
ネットを通じて“現実”に向き合う余裕すら失われた頃。
世界の動向も、国内の被害の実態も、都合よく隠していた現実が否応なく目に飛び込んできた時には──既に準備も判断も、やり直す時間は残っていなかった。
行政に目を向ければ、現場との乖離は明らかだった。
民間への銃の配布が検討された時の話だ。
小型巨獣が一体現れただけでも、警察や自衛隊が到着するまでに、多くの人間が死ぬ。
ならばせめて、その場にいる人間が抵抗できる手段を持つべきだ。
市販のライフルで奴らを倒すのは容易ではないが、それでも――“何もできずに死ぬ”状況よりは、生き延びる可能性をわずかでも引き上げられる。
それだけの話だった。
だが、犯罪への転用や治安悪化の懸念を理由に、法整備は遅々として進まなかった。
理屈は理解できる。
平時であれば、当然の懸念だ。
だが当時は、平時じゃない。
国会で議論が続いている間にも、現場では人が死んでいた。
本来なら自衛の手段になり得たものが、手に入らないまま、抵抗すらできずに犠牲になる。
その一方で、現場は結果だけを求められる。
守れなければ責任を問われるが、守るための手段は与えられない。
……歪んでいたよ。
あの頃の仕組みは、どうしようもなくな。
さらに厄介だったのは、その歪みが制度として存在していたことだ。
例えば、猟師だ。
土地勘もあり、銃の扱いにも慣れている。
本来なら、地域防衛の中核になり得る存在だった。
だが、いざ市民を守るために無許可で発砲すれば、司法はそれを犯罪として扱う。
状況の特殊性を考慮する動きは、初期段階ではほとんど見られなかった。
結果としてどうなったか。
撃てる人間が、撃たなくなる。
あるいは、撃っても報告しなくなる。
どちらにしても、統制は崩れる。
現場は現場の判断で動き、制度は制度の論理でそれを縛る。
そのズレが広がるほど、被害は増えていった。
1945年から長い間、実戦を経験しなかったがために、危機感を持つべき時に持てず、“自分たちは守られて当然”という甘えが社会に蔓延していた日本は、平和という温度のぬるま湯に浸かりすぎていた。
平和が長く続くことに越したことはないが、それが危機感を弱らせた。
それにより、世界的災害を前にしても、正しく状況を認識できず、行動する力を失う結果となった。
そうした中で、“現実逃避的な思考”が幅を利かせるのも当然だったと言える。
自分たちが何に直面しているのか、どれほど脆い立場にあるのかその理解が追いついていない。
だから、人は見ない。
あるいは、自分に都合のいい形でしか見ない。
状況を理解しない行為や言動も、一種の防衛反応だったと言える。
だが現場にいると、それがどれだけ危ういかが、嫌でも分かる。
理解が追いついていないまま、状況だけが悪化していく。
脆い足場の上で、それに気づかないまま立ち続けている。
それが当時の日本だった。
その現実を前にして、私はある結論に辿り着いた。
“守れないのなら、守られる側に戦わせるしかない”と。
戦う意思のない者をいくら庇っても、いずれ限界が訪れる。
国が瓦解し、行政が麻痺し、補給が途絶え、兵站が崩壊した時、武器を扱えるのが自衛官だけ、という体制では、どこまでも守り切れるはずがない。
守る側が尽きた瞬間、すべてが終わる。
だから発想を変えた。
“守る対象”を、そのまま“戦力”に変える。
……言葉にすれば、それだけの話だ。
特に重視したのは子供たちへの戦闘訓練だ。
誤解のないように言っておくが、あれは理想でも理念でもない。
単なる優先順位の問題だ。
大人は消耗する。
負傷すれば戻らない。
精神的にも、限界が来るのが早い。
一方で子どもは、吸収が早い。
環境への適応も早い。
そして何より、長く生き残る可能性がある。
もちろん、それは護身術や避難誘導といった甘いものではない。
私が目指したのは、自衛隊の基礎訓練に加え、中東やアフリカなどで実際に実施されていた“少年兵教育”の現実的手法も取り入れた、極めて現実主義的かつ過酷な訓練だ。
銃器の操作と整備、複数人による陣形行動、時には単独での斥候・潜入行動、生存に必要な野営技術、罠や即席武器による敵の無力化。
すべては、“生き延びる”ために必要な能力に特化していた。
要するに、兵士を育てるのではなく、生き残る子供を残すための訓練だ。
巨獣の脅威は、軍や警察だけでは到底支え切れない規模に達していた。
だから私は、誰もが武器を扱え、誰もが戦闘行動に参加できる社会──すなわち、“生存者総戦力化”を目指し始めたのだ。
日本という国が崩壊しても、日本人である彼らだけが未来を手繰れるように。
無論、倫理的な問題は理解していた。
だが、私たちはすでに“人道”と“安全”の境界線を超えていた。
この訓練がなければ、未来の子供たちはただ殺されるだけだった。
自衛隊が守りきれないのなら、自分の命は自分で守るしかない。
それは、情けや理想を語る前に、この国の現実が突きつけた残酷な真理だった。
私は現場の仲間たちと共に、上層部を通して政府へ提言した。
我々が指導も責任も全て引き受ける。
予算も装備も最低限で構わない。
必要なのは理解と法整備だと。
だが、返ってきたのは、机上の空論と反発ばかりだった。
「教育の場に武器を持ち込むのは言語道断だ」
「予算の割り振りが決まっている」
「倫理的に未成年に戦闘を教えることなど許されない」
……そう言った連中は一度でも現場に立ったことがあるのか?
銃弾の飛び交う市街で、泣き叫ぶ子供と向かい合ったことがあるのか?
自衛隊員が食糧すら分け合って、命をかけて民間人を守ろうとした、その現実を知っているのか?
私はそう叫びたかったが、結局それは届かなかった。
「戦わせたくない」という建前と、「戦わせなければならない」という現実の間で、誰も決断できなかった。
政府に頼るのは無駄だ──そう判断した私は、志を同じくする仲間たちと共に、自衛隊を抜ける決断を下した。
そして正式な承認も法的な裏付けもないまま、我々独自の“戦闘訓練計画”を始動させた。
退役の手続きは、驚くほどスムーズだった。
人手が貴重な状況であるにもかかわらず、書類はあっさりと受理され、引き留めの言葉もなかった。
それが意味するものを、私は理解していた。
上層部の多くもまた、私たちの意志と危機感を共有していたのだ。
立場上、表立っては動けないが、内心では賛同していた。
自衛隊という組織が公的に容認することはできないが、現場で人を失い続けてきた彼らもまた、「このままでは国は守れない」とわかっていたのだろう。
こうして我々は、いわば“公には存在しない訓練部隊”となった。
資金は自腹、施設は廃校や空き地を改修し、装備は退役時に合法の範囲で確保したもの、あるいは民間ルートでの調達。
訓練対象は、保護者を失った子供たち、都市部から逃れてきた孤児、街で行き場を失っていた少年少女たちだった。
そして、訓練を受ける意思のある子供の募集を開始すると、想像を超える数の志願が集まった。
子供であっても、いや子供だからこそ、この世界の過酷さと、守られることの難しさを理解していたのだろう。
我々は彼らを甘やかさなかった。
むしろ、“生き延びること”に全てを捧げるよう教えた。
殺人も教えた。
正確には、“殺すことに迷わないための技術”と、“躊躇が死に繋がる場面での判断”を叩き込んだ。
ナイフの扱い、銃器の分解整備、罠の仕掛け方、そして殺意を向けられた時にどう動くか。
訓練中に何度も子供たちは泣き、吐き、逃げ出し、ある者は仲間の死体を見て沈黙したまま戻らなかった。
だが、それでも残った者たちは、生きるために必要なことを、歯を食いしばって受け入れていった。
もちろん、全員が“戦う道”に進んだわけじゃない。
挫折した者、向いていないと判断された者には、薬学、通信、整備といった支援分野の道を用意した。
我々は殺し屋を育てていたのではない。
ただ、巨獣という脅威の中で「生き残るための選択肢」と「力」を与えていただけだ。
かつて自衛官だった私たちが教えてきた“国家を守る戦い方”ではなく、“個人が生き延びるための戦術”それが、我々の新しい教練だった。
それは軍隊ではない。
命令で動く兵士ではなく、自ら判断し、逃げることさえ戦術にする、生存のための集団。
彼らが国家を背負うこともなければ、軍旗の下で散る義務もない。
だが、そうする道を選ぶ自由はあった。
実際、後に正式に自衛隊に志願し、前線で戦った者も少なくない。
子供たちに、戦う手段と、選ぶ自由を与える。
それが、我々の建てた孤児院の“存在意義”だった。
ただし、我々が彼らに課した任務は、たった一つだけだ。
「次の一日を生き延びろ」──それだけだった。
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