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スラム

インド・ムンバイ スラム住人 ヴィラット・ドーニ


 たいていの人間は、今の日常がこの先も続くと思い込んでいる。

 就職だの結婚だので人生の波は多少変わるが、世界そのものがひっくり返るなんて、まず起きないと考える。


 頭の中で貧乏脱却だとか人生逆転だとか夢を見ることはあっても、現実は違う。

 結局は何も変わらず、ただ貧乏な日々が繰り返されていく──それが普通だ。


 たとえ海の向こうで、とんでもない化け物騒動が起きていたとしても、「自分には関係ない」「どこか遠い国の話だ」と思ってしまう。

 特に、何も知らない、貧乏で無学な連中ほど楽観的なもんだ。


 俺の生まれはインドのムンバイだ。

 写真を見れば分かるだろ。

 高層ビルが立ち並び、観光地もあって、ボリウッドの中心地として知られた街だ。


 ──もっとも、俺が育ったのはそのすぐ隣にあるスラムだがな。


 華やかな世界は、壁一枚、道一本隔てた向こう側にあったが、俺たちには無縁だった。

 きらびやかな映画スターより、銃の音や怒号の方が身近だったし、殺伐とした空気の中で生き延びることの方が、ずっと現実的だった。


 その頃の俺にとって、世界はムンバイで完結していた。

 巨獣だの戦争だの、人類の危機だの──そんな話聞いても、まだ危機感が弱い時だった。


 少なくとも、あの日までは。

 

 予兆はあったのかもしれない。

 だが、俺からすれば日常が変わったのは本当に突然だった。

 

 その日はいつもと変わらない一日だった。

 朝から日雇いの現場に出て、瓦礫を運び、資材を担ぎ、怒鳴られながら時間を潰す。

 賃金は安いが、仕事があるだけマシだと思わされる世界だ。

 

 日が沈み、夜中になってから、俺は少ない日銭を懐に入れて背中を丸めて足早に家へ戻っていた。

 スラムで夜中をぶらつくなんて、はっきり言って自殺行為だ。

 観光客が想像する「貧しいけど活気がある街」なんてものじゃない。

 街灯は壊れたまま、路地は迷路みたいに入り組み、どこに誰が潜んでるか分からない。


 チンピラどもは夜になると活発になる。

 麻薬の受け渡しなんて誰も隠そうともしない。

 銃声がしても、誰も驚かないし、警察も来ない。

 運が悪ければ、朝になって路地に転がっている死体を見るだけだ。

 昨日まで顔を見ていた奴が、翌日には路地の奥で冷たくなっている光景を見ても、驚かなくなるのがスラムだ。


 強盗に遭ったら自己責任。

 助けを求めて叫べば、むしろ目をつけられる。

 誰も他人のために命を張らないし、張れない。

 ここでは「生き延びた奴が正しい」それだけだ。


 裏の連中が地域を牛耳って、縄張り争いは絶えない。

 地域ごとにどこから先が誰の支配下か、住人は皆、肌感覚で知っている。

 境界を間違えれば、理由もなく殴られるか、最悪撃たれる。


 俺の住んでいた地域じゃ、道を歩く連中が銃や刃物を隠し持っているのは当たり前で、発砲沙汰があっても珍しくなかった。

 ポケットにナイフ、腰に拳銃。

 護身のためか、奪うためか、その区別もつかない。

 銃声が鳴っても、みんな一瞬だけ身をすくめて、また何事もなかったように動き出す。


 それが俺たちの“平和”だった。

 明日を考える余裕もなく、ただ今日を生き延びるだけの毎日。

 そんな場所にいると、世界が変わるなんて話は、冗談にしか聞こえなかった。


 だからその夜も、「何事もなく家に帰れればそれでいい」──それ以上のことは何も考えていなかった。

 視線を下げ、足早に、余計な路地に入らないよう注意しながら歩く。

 家にさえ着けば、鍵を掛けて、薄暗い部屋で横になるだけ。

 それが俺の日常で、それ以上でも以下でもなかった。


 ──少なくとも、その音を聞くまでは。


 突然、乾いた発砲音が響いて、俺は反射的に身構えた。

 いつものように、考えるよりも先に体が反応した。

 ああいう場所に住んでいれば、危機感知能力は嫌でも研ぎ澄まされる。

 音の種類、間隔、反響──そういうものを無意識に拾って、本能で動けるようになる。


 平和ボケした連中なら、銃声を聞いた瞬間に固まるか、無駄に叫んで走り出すんだろう。

 だが、スラムに住む人間がそうなるのは最初の一瞬だけだ。

 次に頭に浮かぶのは恐怖じゃない。

「今日はどこだ?」という確認だ。


 俺は足を止めて、周囲を素早く見渡した。

 音の方向、建物の配置、人の動き。

 見た目は静かでも、乾いた音が近くで聞こえたなら、開けた道に留まるのは論外だ。

 頑丈そうな建物に隠れるか、距離があるなら即座に離脱する。


 遠くから聞こえた場合は、脳内に叩き込まれた地図を使って道を選ぶ。

 どの路地が袋小路で、どこに裏道があって、どこを避けるべきか。

 それは学校で習った知識じゃない。

 生き残った回数だけ積み重ねた経験だ。


 そして、その発砲音が強盗なのか、抗争なのかを判断する。

 単発か、連続か。

 怒号が混じるか、悲鳴があるか。

 それが分かった瞬間、次にどう動くかは自然と決まる。


 今回も、俺は同じように身構えていた。


 発砲音は1発じゃ終わらず、間を置かずに連続して鳴った。

 次第に人々の怒号が混じり始める。

 怒鳴り声、罵声、誰かが走る足音。

 その組み合わせで、俺は即座に抗争だと判断した。

 それが分かれば、次にどう動くかはもう考えなくても決まっている。


 俺は一番近くにあった小屋へ駆け込んだ。


 中は物置代わりに使われていたらしく、工具やら壊れた家具やら、用途不明のガラクタが山積みになっていた。

 だが、人一人が身を縮めて隠れるだけのスペースは何とか確保できた。

 埃と油の混じった匂いが鼻を突く居心地の悪い小屋だが、身を守れるなら些細なもんだ。


 壁は薄い木板で、隙間だらけ。

 正直言って、流れ弾が来たらひとたまりもないだろう。

 それでも、外に突っ立っているよりはマシだし、変に人の住んでいる建物に入り込んで、住人と鉢合わせするよりはずっと安全だ。


 スラムじゃ、知らない顔が家に入っただけで撃たれることもある。

 事情を説明する前に引き金が引かれる。

 だから「無人に近い場所」に逃げ込めたのは、運がいい方だった。


 俺は息を殺して、外の様子に耳を澄ませた。

 銃声の間隔が短くなったり、逆に途切れたりするのを聞き分ける。

 どちらが押しているのか、どちらが引いているのか──そんなことまで、自然と考えていた。


「このまま、銃撃が止むまで待てばいい」


 その時は、そう思っていた。

 いつもの夜と同じように、やり過ごせるはずだと。


 だけど、銃撃は収まるどころか、逆にどんどん激しくなっていった。

 単発だったはずの発砲音は連なり、人の怒号や悲鳴が次々と重なっていく。

 そのうち、明らかに銃とは違う、腹の底に響く爆発音まで混じり始めた。


 爆弾なのか、ガスに引火したのかは分からないが、抗争にしては激しすぎる。

 あの辺りの連中は、金と縄張りのためなら撃ち合うが、無闇に街を壊す真似はしない。

 被害が広がれば警察や軍が出てくる。

 それは連中にとっても面倒だからだ。


 小屋の隙間から外を窺うと、大勢の人間が逃げ惑っているのが見えた。

 しかも、方向はバラバラじゃない。

 同じ場所から、押し出されるように流れてきている。


 全員、寝巻き姿だった。


 その時点で、俺は強く違和感を覚えた。

 本当に、これは抗争なのか?


 抗争に巻き込まれた時に、一番やってはいけないのは走り回ることだ。

 銃弾が飛び交う中で無闇に動けば、流れ弾に当たる確率は一気に跳ね上がる。

 走る人間は目立つし、混乱の中じゃ敵と誤認されて撃たれることだってある。


 だからスラムじゃ、こういう時は隠れる。

 物陰に身を潜めるか、壁や車体、瓦礫を盾にして耐え凌ぐ。

 それが長年の経験で身についた、暗黙の常識だった。


 もちろん、近くに何もなかったとか、明らかな隙があったから逃げる、なんてことはある。

 だから、必ずしも走るのが間違いとまでは言わない。

 

 だが、今回は明らかにおかしかった。

 逃げる人間が多すぎる。

 しかも音が聞こえてくるのは、スラム街のど真ん中だ。

 俺の知る限り、あの辺りには隠れられる場所も、盾になるものもいくらでもある。


 それなのに、みんな逃げている。

 しかも寝巻き姿で。


 つまり、ついさっきまで自分の家か、ぐっすり眠れるような安全な建物にいた連中だ。

 本来なら一番安全なはずの場所を捨ててまで、外に飛び出してきている。


 その光景を見て、背中に嫌な汗が流れた。


 さらによく見ると、逃げている中に、腕っ節に自信がありそうなチンピラ連中や、明らかに裏社会の人間と分かる奴らが混じっていた。

 普段なら絶対に弱気な姿を見せない連中だ。


 屈強な大男が、銃を片手に、鬼気迫る表情で走っていく。

 誰かを追っているんじゃない。

 明らかに、何かから逃げている。


 その時点で、現実感が一気に薄れた。

 こんな光景、今まで一度も見たことがなかった。


 耳を澄ますと、最初は人間の怒号に紛れて気づかなかったが、そこに別の音が混じっているのが分かった。


 獣の声だ。


 ただの動物ではなく、腹の奥から絞り出すような、低く、重く、異様に響く咆哮。

 人間の喉じゃ、あんな音は出せない。


 この時になってようやく理解した。

 今起きているのは抗争なんかじゃない。


 次の瞬間、視界の先で、建物が壊れた。


 壁が崩れ、屋根がひしゃげ、まるで紙細工みたいに吹き飛んだ。

 爆発じゃない。

 何かが、力ずくで叩き壊した。


 姿を現したのは──化け物だった。


 巨大な牙を生やし、ヤマアラシの毛のような鬣を持った、ライオンに似た姿。


 だが、サイズが違う。

 俺の感覚じゃ、ライオンをトラック並の大きさまで何倍にも膨らませた塊が、そこに立っていた。


 今は「ネメア」って呼ばれてる奴らは、「小型巨獣」なんて分類されているらしいが、その時の俺には、ただただ──とんでもなくデカい怪物にしか見えなかった。


 しかも、そんな化け物は1匹じゃなかった。

 何匹もだ。

 さっきみたいなトラック並みのデカさや車程度のデカさと、大小様々な個体が群れを成して、逃げ惑う群衆に襲いかかっていた。


 動きが異常だった。

 猛スピードで地面を蹴り、瓦礫や屋台、壊れかけの塀を一瞬で飛び越える。

 道を塞ぐ建物があれば、回り込むんじゃなく、壁ごと叩き壊して進んでくる。

 スラムの路地は入り組んでいて、人間同士の抗争なら逃げ道になるはずだったが、あいつらには意味がなかった。

 

 標的を見つけたら、確実に仕留めるまで追い回す。

 人間の足じゃ、どれだけ障害物があろうと関係なく絶対に追いつかれる。


 逃げる人間に追いつけば、迷いなく首元に食いつく。

 

 そうなれば終わりだ。

 化け物の目ん玉でもどこでも、必死に殴ろうが、ナイフを突き立てようが全て無駄。

 そのまま首を顎で砕かれるか、強引に体から引きちぎられる。


 一噛みで終わる運の良い奴もいれば、運の悪い奴は転ばされ、複数匹に囲まれて腹を食い破られていた。

 内臓を引きずり出される様子まで、はっきり見えた。


 裏の連中も必死だった。

 腕利きだと噂されていた男が、連射銃を構えて化け物に向かって乱射していた。

 距離も近かったし、外れた様子はなかった。

 弾は全部、確実に当たっていた。


 それでも、化け物は一切ひるまなかった。

 弾が当たった箇所の皮膚が裂けても、動きは鈍らない。

 そのまま男に飛びかかって、数秒で食い殺した。


 俺はと言えば──あの小屋の中で、じっとしていた。


 正解だと思って隠れていたわけじゃない。

 冷静な判断ができていたわけでもない。

 ただ、理解が追いつかなかったんだ。


 あれは何なんだ。

 どこから出てきた。

 軍の実験か?

 パキスタンの生物兵器か?

 頭の中で色んな可能性が浮かんだが、どれも現実味がなかった。


 人間同士の争いなら、経験がある。

 撃たれるかもしれない、刺されるかもしれない、その程度なら覚悟もできる。

 だが、あんな化け物に襲われる想定なんて、今まで一度もなかった。


 逃げたところで捕まるのは目に見えていたし、かといって、隠れていたところで長く持たないと思ってた。

 どう動けば助かるのか、何が正解なのか、何一つ分からないまま、俺は息を殺して、小屋の隙間から外を見ていることしかできなかった。


 スラム街が破壊されていく。

 人が追われ、食われ、悲鳴が途切れていく。

 その中心にいながら、俺はただ隠れていた。


 あの惨状の中心にいながら、俺が襲われずに済んだのは、たぶん小屋の中に詰め込まれていた道具のおかげだ。

 機械油、廃材、腐った布切れが混ざった、鼻を突く不快な臭いが充満していた。


 今になって思えば、あの臭いが人間の匂いを誤魔化していたんだろう。

 汗や恐怖の臭いよりも、油と腐臭の方が強かった。

 化け物が嗅覚に頼る生き物だったとしたら、あの小屋は最悪の場所で、同時に最高の隠れ場所だった。


 ただ、その時の俺にそんな分析をする余裕はなかった。

 ひたすら見つからないでくれと祈りながら、音を立てないように息を殺していた。

 外では人の悲鳴と、建物が壊れる音、獣の咆哮が途切れず続いていて、時間の感覚も完全におかしくなっていた。


 軍が来たのは、それから数時間後だったと思う。

 正確な時間は分からない。

 ただ、夜明け前だったのは覚えている。


 まず武装ヘリが飛来して、いきなり化け物に向かって機関銃をぶっぱなした。


 避難誘導も警告も無しだ。

 到着して早々、戦闘開始。

 機関銃掃射で建物が壊れ、ガスに引火して爆発が起きても、攻撃は止まらなかった。


 地上には歩兵隊も投入されてきた。

 重装備で隊列を組み、互いにカバーし合いながら前進していく。

 遮蔽物の使い方も、進み方も、スラムの銃撃戦とはまるで違う。


 スラムの連中が使うどんな銃よりも、彼らの装備の方が圧倒的に強力だった。

 それでも、化け物相手には一方的とは言えず、互角に近い形で渡り合っているように見えた。


 歩兵隊は、アサルトライフルを撃ちながら前に出て、まず武装ヘリの攻撃で負傷した個体を優先的に狙う。

 動きが鈍ったところに集中射撃を浴びせて、確実にトドメを刺す。


 それでもまだ動く奴や、無傷で突っ込んでくる奴には、バズーカやグレネードランチャーを使って、一気に大ダメージを与えていた。

 建物ごと吹き飛ばすような使い方だ。


 火炎放射器も使われていた。

 建物の影や瓦礫の裏に潜んだ化け物に向かって、炎を叩きつける。


 燃え移った家屋から黒煙が上がり、逃げ遅れた人間が中にいたかどうかなんて、誰も確認しちゃいなかった。

 残された住民がいても、スラムの連中はどうでもよかったのか、もう全員死んだと判断したのか、それとも、そんな余裕すら無かったのか──そこまでは分からない。


 化け物共は、機関銃を受けて倒れる奴も確かにいた。

 頭を撃ち抜かれて即座に崩れ落ちる個体もいれば、胴体を蜂の巣にされて動かなくなる奴もいた。


 だが、それは全体の一部に過ぎない。


 数が多すぎた。

 そして、とにかくしぶとい。


 何発も撃ち込まれて、体の一部が吹き飛ばされても突進してくる個体がいた。

 脚をやられても、前脚だけで地面を掻き、獲物に食らいつこうとする。

 

 銃弾が効いていないわけじゃない。

 効いているはずなのに、止まらない。

 それが一番恐ろしかった。


 中には、どう見ても知恵があるとしか思えない動きをする個体もいた。

 ただ突っ込んでくるだけじゃない。

 銃撃や爆発が来ると、建物の影に身を寄せ、壁や瓦礫を盾にしてやり過ごす。

 爆風が収まった瞬間に顔を出し、次の行動に移る──そんな判断をしているように見えた。


 さらに厄介だったのは、群れでの動きだ。

 数匹が正面から暴れ回って兵士やヘリの注意を引き付けている間に、別の個体が裏道や建物の裏側を使って回り込み、背後から襲いかかる。

 完全に役割分担ができていた。


 あれは偶然じゃない。

 何度か同じような動きを繰り返していたから、学習しているとしか思えなかった。

 

 そして、決定的だったのが武装ヘリへの攻撃だ。

 死角を使って一気に距離を詰め、建物を踏み台にして空中へ跳び上がる。

 壁を蹴り、屋根を踏み砕き、崩れ落ちるコンクリートやトタンを足場にして、さらに高度を稼ぐ。

 あの高さまで届くなんて、少なくとも現場の兵士も、操縦していたパイロットも想定していなかったはずだ。

 

 1機の武装ヘリが、避けきれずに捕まった。

 機体側面に化け物が張り付き、次の瞬間、爪で思い切り叩きつける。

 金属が歪む嫌な音がして、ヘリは姿勢を崩し、そのまま制御を失って墜落していった。


 墜落したら、もう終わりだった。

 すぐに他の化け物が集まってきて、機体を引き裂き、中にいたパイロットを引きずり出す。

 悲鳴が上がったかどうかは覚えていない。

 次の瞬間には、無惨に食い殺されていた。


 歩兵隊も相当な被害を出していた。

 遮蔽物の陰から突然飛び出してきた個体に押し倒され、数人が一瞬で引き裂かれる場面もあった。

 仲間を助けようと撃ち続けても間に合わず、最終的には重火器でまとめて吹き飛ばすしかない。


 人間相手なら圧倒的なはずの軍の火力が、完全な優位とは言えなかった。

 重火器も、航空支援も、確かに強力だった。


 だが、あいつらは違った。

 

 撃たれること、爆破されることを理解して動いているように見えた。

 射線を避け、死角を使い、危険な場所と安全な場所を理解している。

 ただの獣の反応じゃない。


 戦場で見た光景は、隠れていた小屋の中から見える範囲だけだった。

 視界は限られていたし、煙と炎で遠くまでは見えなかった。

 それでも、断片的な情報だけで十分だった。


 ──ああ、これはもう、人間の手に負える相手じゃない。

 そう、はっきり理解した。

 

 爆発の衝撃で、周囲の建物が次々と崩れていく。

 トタン屋根が宙を舞い、レンガの壁が粉々になって路地が塞がれる。

 どこかで倒壊した建物が連鎖的に崩れ、地面が波打つみたいに揺れた。


 もはや、どこがスラムで、どこが戦線なのか分からない。

 街全体が、一つの巨大な戦場になっていた。

 

 人間同士の争いなら、どれだけ酷くても、どこかに理屈があった。


 だが、この夜に起きたことには、それがなかった。

 ただ、生き残れるかどうかだけが、すべてだった。


 スラムはその夜で、街としては死んだ。


 朝を迎えた時、俺が隠れていた小屋は、流れ弾と爆発と、化け物に踏み潰されたせいで完全に倒壊していた。

 天井だったものが崩れ、壁だったものが折り重なり、俺は瓦礫の下に半分埋もれた状態で意識を取り戻した。


 体中が痛くて、どこか骨が折れている感覚もあった。

 喉は焼けるように渇き、頭はまともに働かなかった。

 それでも、本能だけで瓦礫を押しのけ、這い出した。


 外に出た瞬間、強烈な臭いが鼻を突いた。

 焦げた木材、燃えた油、血と肉の混ざった臭い。

 息をするたびに、吐き気が込み上げてきた。


 周囲にあったのは、焼け焦げた瓦礫の山と、誰のものかも分からない肉片と、そして、生き残った人間たちの虚ろな顔だった。


 泣き叫ぶ声は、ほとんど聞こえなかった。

 怒鳴り合いも、罵声もない。

 みんな、何が起きたのか理解できていない顔をしていた。

https://www.pixiv.net/artworks/146405959

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