時代の縮図
フィリピン・マニラ 避難民(当時) アンドレイ・パラス
巨獣時代の初期でも、崩壊していく国はいくつもあった。
確かに、巨獣は軍でも倒せた。
記録映像で見たことがある。
装甲車や航空機を動員して、時間をかければ仕留めること自体は不可能じゃなかった。
だが、それを「余裕を持ってできるか」と言われれば、話は別だ。
当時、それができたのはアメリカや日本みたいに、装備も人員も揃っていた一部の国だけだ。
俺たちみたいな国には、常に戦力が足りなかった。
装備は古く、弾薬も限られていて、部隊の展開にも時間がかかる。
小さな国や地方にとって、巨獣は“対処可能な脅威”なんかじゃなかった。
どの個体も凶暴で、異常に強靭だった。
1匹現れれば、それだけで農地は踏み荒らされ、家畜は食い尽くされる。
被害は一日や二日で済まない。
軍が到着するまで、ずっと続く。
フィリピンで初めて巨獣がマニラ近郊で現れた件では、軍が駆除するまでの間、たった1匹の巨獣がいくつもの農村を潰した。
田畑は踏み荒らされ、水路は壊され、家畜はほとんど残らなかった。
俺の住んでいた農村も、その一つだ。
最悪だったのは──それが、何度も繰り返されたことだ。
ようやく立て直しかけた頃に、また別の個体が現れる。
土をならし、水路を掘り直し、わずかに残った種を植え直す──そこまでやって、やっと「次の収穫が見えるかもしれない」と思えた頃に、巨獣は襲いかかってくる。
奴らは現れる度に道路も橋も水路も関係なく壊していった。
残していた種や乾燥させていた食料も、倉庫ごと破壊されるか、踏み荒らされて使い物にならなくなる。
俺たちが使える武器は、鍬や鎌、古い散弾銃くらいだったが、巨獣の皮膚には何一つ通じない。
弾は弾かれ、刃は折れる。
近づいたり、逃げ遅れた人間や家畜は奴らの餌になる。
叫び声が聞こえても、助けに行けない。
行けば、自分も同じように食われるだけだと分かっているからだ。
その繰り返しだった。
軍は来てくれるが、いつも間に合わない。
連絡手段もまともに残っていなかった。
無線は壊れ、道路は寸断され、救援要請が届いているのかどうかすら分からない。
ようやく部隊が来た時には、巨獣はもう移動した後で、残っているのは死体と瓦礫だけだ。
そして、倒された後には、何も残らない。
やがて、国からの支援も途絶えた。
最初は米や缶詰、医薬品が届いていたが、回数は減り、やがて完全に来なくなった。
後で聞いた話では、輸送船や車列が巨獣に襲われて、補給路そのものが維持できなくなっていたらしい。
「自分たちで何とかするしかない」と誰もが口にした。
しかし、言葉にすればそれだけの話だが、実際にはそんな余裕はなかった。
見張りを立てて、交代で夜を明かし、即席の避難壕を掘り、少しでも音や振動があれば全員で逃げる準備をする。
それを毎日続けるには限界がある。
農地を維持できなければ、食料が尽きる。
食料が尽きれば、体力が落ちて、逃げることすらできなくなる。
農地を失った農家は増え続け、働き手は減り、村そのものが維持できなくなっていく。
次第に土地を捨てて都市へ流れ込む者が増え、マニラは人で溢れた。
そのマニラも安全じゃなかった。
電力は不安定で、夜はほとんど闇だった。
給水は時間制になり、食料は配給制に変わったが、量は明らかに足りていなかった。
港には物資を求める人間が集まり、暴動寸前の状態が何度も起きていた。
そこでも巨獣が現れる。
都市のインフラは、農村よりも脆かった。
橋が一本落ちるだけで交通は麻痺し、発電所が破壊されれば都市全体が機能停止する。
消防も警察も手が回らず、火災や略奪が連鎖的に広がっていった。
食糧不足と都市の崩壊は、改善する兆しがなかった。
フィリピンは、ただ消耗していくだけだった。
そして──マニラが破壊された時だ。
あの日は、朝から様子がおかしかった。
港の方角で煙が上がっていて、軍のヘリが何度も低空で飛んでいた。
昼前には爆発音が断続的に聞こえ始め、夕方には通信がほぼ途絶えた。
その夜、政府からの通達が届いた。
「避難船での脱出を開始する」と。
マニラが破壊されたことで、政府はフィリピンという国土そのものを維持することを諦めたんだと思う。
行政機関も通信網もほとんど機能していなかったし、各地の軍も補給が途絶えて動けなくなっていた。
それでも、「人間だけでも生き残らせる」──最後に残った判断が、それだった。
その通達が来た瞬間、俺たちは迷わなかった。
あの頃にはもう、「ここに残る」という選択肢自体が消えていた。
その避難船がどこへ向かうのか、当時の俺たちは知らなかった。
中国なのか、日本なのか、それとも東南アジアのどこかか。
もしかしたら、どこにも辿り着けないまま海の上を彷徨うだけだったのかもしれない。
実際、港に流れてきた噂の中には、「受け入れ先が決まっていない船もある」という話もあった。
だが、そんなことはどうでもよかった。
俺たちにとって重要だったのは、巨獣がいない場所へ行けるかどうか。
巨獣の足音や、夜中に聞こえる咆哮を気にせず眠れるなら、行き先なんて関係なかった。
奴らと隣り合わせの世界から逃げられるなら、どこでも同じだった。
とはいえ、避難計画なんて呼べるような代物じゃなかった。
港に来られる者から順に乗せる。
迎えを寄越すなんてことはしない。
燃料も車もない人々は歩くしかないが、道路は至る所で寸断されていた。
橋は落ち、水路は崩れ、舗装は巨獣の足跡でえぐれていた。
俺たちは、農業用の荷車を引いて進んだ。
壊れかけの車輪を何度も直しながら、食料と水を分け合い、昼はできるだけ日陰に隠れて、夜に移動した。
昼間は危険だった。
巨獣は必ずしも夜行性じゃない。
むしろ日中に活動する個体も多かったし、上空を飛ぶ個体に見つかれば終わりだった。
道中で何度も引き返す者とすれ違い、何度も死体を見た。
襲われた跡が残っているものもあれば、ただ力尽きて倒れているものもあった。
荷物だけが散乱していて、人間の姿が無い場所もあった。
俺たちは、運が良かった方だ。
仲間の中に、かつてトラックの整備をしていた男がいてな。
放置されていた車両から部品を取り外して、荷車の補強や簡単な修理をしてくれた。
そのおかげで、途中で動けなくならずに済んだ。
それでも、何日かかったのか、正確には覚えていない。
水が尽きかけたこともあったし、途中で仲間の一人が歩けなくなって、置いていくしかなかったこともある。
そうして、どうにかしてマニラまで辿り着いた。
だが、そこで待っていたのは「避難」なんて言葉で片付けられる光景じゃなかった。
完全にインフラも街も崩壊しきったマニラは、俺たちと同じ、「安全な場所」を求めて辿り着いた人々で埋め尽くされていた。
その群衆に流されるように辿り着いた港は、すでに限界を超えていた。
家族連れ、負傷者、老人、子供──皆が同じ方向を見ていた。
沖合に停泊している船だ。
だが、その数は明らかに足りていなかった。
兵士たちが必死に列を作らせようとしていたが、そんなものはすぐに崩れる。
押し合いになり、怒号が飛び交い、時には殴り合いにまで発展する。
乗れないと分かった瞬間に暴れ出す者もいた。
海に飛び込んで、直接船へ向かおうとする者もいたが──多くは途中で力尽きた。
潮に流されるのか、途中で沈むのか、最後まで見届けた奴はいなかったが、戻ってくる者はいなかった。
俺たちは、大人しく兵士の言うことを聞いて列に並んでいた。
長い旅路を経て、ようやく辿り着いた港だ。
すぐに船に乗れると、どこかで期待していたのは確かだが、こうなるのは分かりきっていた。
変に騒げば、兵士に押し戻されるか、最悪その場で排除される。
何より、もうそんなことをする体力が残っていなかった。
列に並ぶだけで精一杯だった。
炎天下の中、じりじりと進む列。
潮の匂いと、人の汗と、どこかから漂ってくる腐臭が混じっていた。
近くには簡易的に寝かされた負傷者もいて、うめき声が途切れず聞こえていた。
水も食料も、まともに配られていなかった。
兵士が持ってくるわずかな物資を、列の前方から順に分けていくが、後ろまで回ってくることはほとんど無い。
倒れる奴もいた。
そのたびに列は乱れ、兵士が怒鳴り声を上げて押し戻す。
それでも、誰も列を離れなかった。
ここを離れたら、もう二度と船に乗れない。
全員がそれを分かっていたからだ。
並びながら、俺はただ周囲の人間を眺めていた。
何かしていないと、気が狂いそうだった。
少し前にいた若い男は、まだ二十歳そこそこに見えた。
腕には、どこかの学校の腕章みたいなものを巻いていた。
学生だったのかもしれない。
巨獣がいなければ、あいつは普通に働いて、普通に家庭を持って、普通の人生を送れたのかもしれない。
その隣には、母親に抱かれた赤ん坊がいた。
泣く気力も無いのか、ぐったりとしたまま動かなかった。
こんな時代に生まれてしまったことを、可哀想だと思った。
何も知らないまま、全部奪われていく。
後ろには、身なりの良い男もいた。
腕時計も服も、明らかに質が良かった。
金を持っていた人間なんだろう。
だが、ここではそんなものは何の意味も無かった。
巨獣がいなければ、一生安泰だったはずの人間も、俺たちと同じように列に並んでいる。
皆、同じだった。
何を持っていたかなんて関係ない。
どこで生まれたかも、何をしていたかも関係ない。
ここではただ、「船に乗れるかどうか」だけが全てだった。
そんなことを、ぼんやり考えながら俺は列の時間をやり過ごしていた。
……そして、ようやく順番が近づいてきた時だ。
鳥が一斉に騒ぎながら海へ飛び立った。
最初は気にしていなかった。
港では常に怒鳴り声が上がり、どこかで人が泣いていたからだ。
そんな喧騒の中で、鳥の騒ぎなど雑音以外何でもなかった。
だが次の瞬間、後方の山から木が折れる音が響いた。
乾いた枝が砕ける音じゃない。
太い木が根元からへし折られるような、重くて、腹に響く音だった。
それが一度だけでなく、何度も連続して聞こえてきた。
避難民のざわめきよりもはっきり聞こえる、その音につられて、みんな一斉に振り返った。
山の頂上──そこに、巨獣がいた。
巨大なカニのようだけど、タコのような頭部に、ハサミのある腕と細長い4本足で直立する異形の怪物。
輪郭しか見えない距離だったが、それでも十分すぎた。
木々の高さと比べて、明らかに異常な大きさ。
ゆっくりと動くたびに、周囲の樹木が押し倒されていく。
足を踏み出すたびに地面が揺れる振動が、港まで伝わってきた。
あの瞬間、港の時間が止まったように感じた。
誰も声を出さなかった。
さっきまで怒鳴っていた連中も、泣き叫んでいた子供も、兵士に食ってかかっていた男も、みんな同じ顔をしていた。
息を止めたまま、ただ山の上の影を見ていた。
どれくらいの時間だったのかは分からない。
数秒だったのかもしれないし、もっと長かったのかもしれない。
……そして、誰かが叫んだのが合図だった。
それを合図にしたみたいに、あちこちで悲鳴が上がり、港全体が崩れた。
悲鳴が重なり、怒号が飛び交い、人の流れが一斉に船へ向かった。
誰もが、目の前の人間を押しのけた。
荷物を抱えていた奴はそれを捨て、子供を抱えていた奴は必死に腕を引き上げ、転んだ者はそのまま踏みつけられた。
押し寄せる人の波に飲み込まれて、次々と足を取られ、倒れていく。
桟橋の手前で、人が折り重なるように崩れると、その上を後ろから来た人々が踏み越えていく。
もはや船に乗るというより、先に押し込むために暴れていた。
自分だけでも助かりたい、それしか頭になかっただろう。
俺も仲間も同じだった。
さっきまで「騒げば乗れなくなる」と分かっていたくせに、もうそんな理屈は吹き飛んでいた。
ただ、「ここで止まったら死ぬ」という感覚だけがあった。
後ろを振り返る余裕なんて無い。
巨獣がどこまで来ているのかも分からない。
ただ前へ、船へ、少しでも近づこうとした。
群衆に押されるまま、桟橋の方へ流されている感覚さえあった。
肩がぶつかり、誰かの肘が顔に当たり、足元では何かを踏んだ感触があった。
それが荷物なのか、人間なのか、確かめることもできなかった。
その間にも、地面が重い衝撃で揺れていた。
鈍い足音が、建物が踏み潰される音と共に伝わってくる。
コンクリートが砕ける音、鉄骨がねじ曲がる音、それに人の悲鳴が重なる。
あれが、確実に近づいてきていた。
空気そのものが震えるような、低い唸り声が背後から届いていた。
叫び声や怒号よりも、よほど不気味だった。
振り返る余裕なんて無かったが、振り返らなくても、奴らがすぐそこまで来ているのだけは分かった。
さらにパニックを加速させたのは、避難船が次々と港を離れ始めたことだった。
おそらく、巨獣が接近した時点で、乗ってた奴だけ乗せて出港する手筈だったんだろう。
港に残された連中は、あとは知らない──そういう判断だったんだと思う。
冷静に考えれば、それが正しい判断だ。
だがそんな理屈は、あの場の俺たちには関係なかった。
目の前で船が離れていく。
助かる方法が減っていく。
その事実だけで、「置いていかれる」という恐怖が一気に広がり、群衆は完全に壊れた。
何がなんでも乗る。
押し退けてでも、しがみついてでも、船に乗り込む。
それ以外、何も考えられなかった。
誰かが転んでも、もう止まらない。
踏みつける感触が足に伝わっても、それが誰なのか確認する余裕は無い。
ただ前へ進む。
仲間の一人が叫んでいた気がした。
その声が途中で途切れたことだけは、はっきり覚えている。
確か俺の名前を呼んでいたが、その声が本当に俺を呼んだのか、それとも周囲の騒音の中でそう聞こえただけなのか──今では曖昧だ。
とにかく、あの時はそれどころじゃなかった。
人の波の中で息をするのがやっとで、足を止めたら最後、後ろから押し潰される。
だから、周囲の肩を掴み、腕を使い、どうにか前へ出るしかなかった。
荷物なんて、もうなかった。
途中で落としたのか、最初から捨てたのかも覚えていない。
そして、どうにか最後の避難船にたどり着いた時、船は既に隙間が無いほど人で満杯だった。
甲板も通路も、人で埋め尽くされていて、まともに立つ場所すらない。
それでもなお、乗り込もうとする連中が桟橋から押し寄せていた。
船に乗れた者と、乗れずに取り残される者が、同じ場所でぶつかり合っていた。
船倉の入口では、乗り遅れた者が外からしがみつこうとしていた。
指が白くなるほど縁に食らいつき、引き上げてくれと叫んでいたが、兵士はそれを蹴り落とした。
一人落ちれば、その下にいた別の誰かにぶつかり、さらに海へ落ちる。
俺は、その隙を突くように人の波をかき分けた。
押される力を逆に使って、流れに乗るように前へ出る。
そして、半ば転がり込むように、船内へ入り込んだ。
船に乗り込んだ瞬間、全身の力が抜けた。
肺が焼けるみたいに痛くて、まともに息ができなかった。
喉は乾ききっていて、空気を吸っているのに足りない感覚だけが続く。
その場に倒れ込んで、しばらく動けなかった。
周囲を見回してようやく気づいた。
仲間がいなかった。
あれだけ一緒にここまで来た連中が、一人も見当たらない。
名前を呼ぼうとしたが、声が出なかった。
あるのは、俺と同じように転がり込んだ避難民たちと、岸で起きている光景だけだった。
マニラに、巨獣が入り込んでいた。
それも1匹じゃない。
少なくとも、俺が見えた範囲で数匹いた。
そいつらが建物を踏み潰し、ハサミから墨のような液体を噴射していた。
消防車の放水みたいな勢いで撒き散らされた液体が、建物にぶつかるたびに煙を上げ、壁を溶かし、木材も鉄も区別なく崩していく。
逃げ遅れた人間は、それを浴びた瞬間に倒れた。
悲鳴を上げる暇もなく、黒い液体に呑まれて動かなくなる奴もいた。
船に乗れず、逃げ場を失った人間たちは、桟橋や倉庫の影に殺到していた。
桟橋の端にしがみつく者、海に飛び込んで船を追おうとする者、倉庫の扉を叩き続ける者──誰もが、もう後がない顔をしていた。
避難船はそんな彼らを置き去りにして、ゆっくりと港を離れていく。
距離が開くにつれて、音が遠ざかっていった。
最初ははっきり聞こえていた悲鳴も、やがて断片的になり、最後には波の音に紛れて消えていく。
その代わりに何かが踏み潰される、鈍い音だけは響いていた。
おそらくあの中には、さっきまで一緒にいた仲間もいたはずだ。
本来なら、同じ船に乗るはずだった彼らが。
名前を呼んでいたあいつも、荷車を直してくれたあいつも、あの中にいたのかもしれない。
俺は何もできなかった。
手を伸ばすことも、声をかけることもできず、ただ甲板の上から見ているだけだった。
避難船に乗れて、安全な場所に行ける──そんな安堵も、期待も、まるで湧いてこなかった。
胸の中にあったのは、謝罪と、後悔と、自分だけが生き延びてしまったことへのどうしようもない罪悪感だった。
あの時、もう少し違う動きをしていれば、誰かを引き上げられたんじゃないか。
名前を呼ばれた時、振り返っていれば何か変わったんじゃないか。
そんな考えが、頭から離れなかった。
せめて、これが悪夢であってほしい。
目が覚めれば、全部なかったことになっていてほしい。
現実だと分かっていても、そう願わずにはいられなかった。
……だが、悪夢は終わらなかった。
最初に異変に気づいたのは、船の揺れ方だった。
それまでとは違う、不自然な揺れ。
波に乗るような上下じゃない。
下から突き上げられるような、断続的な振動だった。
次に、水面の様子が変わった。
船のすぐ下から、黒い影がゆっくりと広がっていくのが見えた。
最初はただの濁りかと思った。
だが、その影は形を変えながら、確実にこちらへ近づいてきていた。
避難船に乗っていた俺たちがそれが何なのか察し、甲板の空気が凍りついたと同時に、水面が大きく盛り上がった。
次の瞬間、海が弾けた。
爆発みたいな勢いで凄まじい水飛沫が上がり、視界が一瞬で真っ白になった。
その中から、さっきまで陸にいた連中とは、違う種類の巨獣が現れた。
全身が濡れた黒い皮膚で覆われ、光を反射してぬらりと光っていた。
長く伸びた胴体が水中からせり上がり、船体と並ぶほどの高さに達していた。
そいつは感情なんてものは感じ取れない、獲物を認識しているだけの目で、俺たちを見ていた。
誰かが悲鳴を上げた。
それをきっかけに、全員が叫び始めた。
さっき港で聞いたものとは、まるで違う声だった。
港と違って、逃げるための足場がない。
船の上では、どこへ逃げても同じだった。
下がればそこは海だ。
身を隠す場所もなければ、逃げ切るための距離もない。
逃げ場が無いと分かっている場所での、純粋な恐怖の声だ。
皆が後ずさりして、甲板の上で再び押し合いが始まった。
誰かが誰かを突き飛ばし、誰かが甲板に倒れ、また別の誰かがその上を踏んで進もうとする。
さっきまで「助かった」と思っていた人々が、同じ絶望の顔をしていた。
誰かが泣き叫びながら、柵を乗り越えて海に飛び込もうとしていた。
だが、今さら海に飛び込んだところで、助かる見込みなんてない。
それでも飛び込まずにいられないくらい、全員が追い詰められていた。
その巨獣は、大口を開けて避難民ごと船に噛みついた
目の前にいた人々が、そのまま消えた。
悲鳴すら、奴の口の中で途切れた。
木も鉄も、まとめて削り取られる音が響き、甲板の端が一気に抉れ、そこへ海水が流れ込んだ。
たったの一撃で避難船が崩れるように一気に傾き、全員が一斉にバランスを失った。
俺はその時、たまたま奴の口のすぐ隣にいた。
噛み砕かれた場所のすぐ横を、ほんの数歩の差で逃れた。
傾いた船から、俺は足を踏ん張る暇もなく、そのまま滑り落ちた。
手を伸ばして何かを掴もうとしたが、何も掴めないまま、体ごと斜めに流されて甲板の縁から放り出された。
次に感じたのは、冷たい海水だった。
肺に水が入って、息が止まった。
塩辛い水が鼻にも口にも流れ込んで、呼吸どころじゃない。
体が浮く感覚すら、すぐには分からなかった。
目を開けた時に見えたのは、破壊されて沈もうとする避難船だった。
俺たちを安全な場所へ連れていくはずの避難船は、もうまともな形を保っていなかった。
甲板が裂け、傾き、煙や水しぶきが上がっていた。
その船体から、人間が破片や荷物の残骸と一緒に落ちてくる。
落ちた人々は、最初は何とか浮こうとしていた。
腕を振り回し、口を開けて息を吸おうとし、互いの頭を掴んででも上に出ようとしていた。
助けを呼ぶ声もあったが、それに答える者はいなかった。
海に落ちた時点で、もう終わりだった。
海中では、既に別の巨獣たちが取り囲んでいた。
さっきの1匹じゃない。
様々な種類の巨獣が群れとなっていた。
サメのような奴や、人型の奴、全部が逃げ場のない獲物を狙っていた。
巨獣は容赦無く、目に付いたものに襲いかかる。
奴らに一度捕まったら、もう終わりだ。
噛み砕かれるか、引きずり込まれるか、どちらにしても助からない。
逃げることも、戦うこともできず、ただ食われるしかない。
海は地獄になった。
避難船を襲った巨獣が、残った人間を食い荒らす。
海では、サメみたいな形をした巨獣が、甲板から投げ出された人間の足を狙って下から噛みつき、そのまま水中へ引きずり込む。
逃げようとしても、まともに泳ぐ前に食われる。
すぐ隣では、まだ小さな女の子を二匹の巨獣が奪い合っていた。
片方が首元を咥え、もう片方が足に噛みつく。
女の子が絶叫しながら、体が海面で引きちぎられていくのが見えた。
まだ生きている人々も大勢いたが、海ではまともに泳げない。
服は重く、手足には力が入らないし、周囲には浮き具になるようなものもなく、何より頭が追いつかない。
ほんの少し立ち泳ぎが続いただけで、すぐに巨獣に見つかり、次の餌にされる。
その瞬間には、叫ぶ間もなく引きずり込まれて消える。
助けを求める声が上がったと思えば、すぐ途切れる。
水面に浮かんでいた腕だけが、しばらくの間、痙攣みたいに動いていたのを覚えている。
その腕も、すぐ見えなくなった。
そんな地獄の中で、俺はただ必死に泳いだ。
どこへ向かえばいいのか分からなかったが、目に入った陸地だけを頼りにした。
マニラ湾の外へ逃げたはずなのに、結局またフィリピンに戻る形になったが、そんなことを気にする頭は残っていなかった。
あの時は、陸地しか見えていなかった。
腕を動かして、足を動かして、息を吸える瞬間に必死で吸う。
途中で何度も意識が飛びかけ、腕も脚も痙攣し、海水を飲んでむせて、肺が焼けるように痛かった。
何かが近づいてくる気配があった。
水面の下で影が動くたびに、背中が冷えた。
近くで誰かが引きずり込まれたのか、それとも噛み砕かれたのか──そんなことを確認する余裕は、もう無かった。
後ろを見れば死ぬ。
横を見ても、誰かが食われている。
止まれば自分が食われる。
だからそこへ進むしかなかった。
生き延びる──それ以外何も考えず、必死に泳いだ。
あの状況で岸に辿り着けたのは、奇跡以外の何ものでもない。
砂浜に手が届いた時も、しばらくは自分が上がれたのかどうか分からなかった。
腕が震えて、体がまるで自分のものじゃなかった。
何度か転がるようにして浅瀬を抜け、ようやく砂の上に倒れ込んだ。
それでも、すぐには安心できなかった。
息を整える余裕もなく、俺は反射的に振り返った。
そこには、巨獣時代に起きていた現実の縮図があった。
マニラ港は、巨獣たちに踏み荒らされていた。
建物や桟橋は壊れ、あちこちで火が上がり、人が逃げ込んだ倉庫も押し潰され、道の上には捨てられた荷物と倒れた人間が散っていた。
その死体だらけの街に、陸に逃げた人間を探すように巨獣があちこちを歩き回っていた。
海の方では、まだ宴が続いていた。
船の残骸の周囲を、巨獣が群れて泳ぎ回り、落ちた人間を次々に引きずり込んでいた。
崩壊する街。
真っ赤な海。
逃げ遅れた人間を食い荒らす巨獣。
奪い合いになって、同じ人間を引き裂く巨獣。
港に来れば助かると思った。
船に乗れれば終わると思った。
海に出れば、少なくとも陸の巨獣からは逃げられると思った。
だが、何一つ違っていなかった。
どこへ行っても、また別の巨獣がいて、別の死が待っているだけだった。
陸では踏み潰され、海では食われる。
俺はただ呆然と見ていた。
体は動かなかった。
立ち上がる気力も、逃げる気力も無く、目の前で起きていることを、理解することだけで精一杯だった。
農地を失い、巨獣に怯える日々から逃れられる安全な場所を求めて、必死で避難船に向かった。
仲間と一緒に、荷車を引いて、何日もかけて。
それなのに、仲間も荷物も全てを失い、結局フィリピンから出られなかった。
残ったのは自分の体ひとつだけだった。
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