指定業者
前の晩、私は事務所で帳簿を見ていた。
事務所といっても、市川のアパートの一階だ。六畳の部屋に机が一つと、スチール棚が三つ。棚に入っているのは、父の代からの施工記録だ。年度ごとに紐で綴じてある。一番古いのは三十二年前。
去年の売上は、六百二十万円だった。
そこから薬剤代と車両費と国民健康保険と、軽バンの車検が出ていく。手元に残るのは、勤め人の半分くらいだ。
それでも続けているのは、たぶん、他にやり方を知らないからだった。
翌朝、私はその帳簿を閉じて、一張羅の作業着に着替えた。
冒険者ギルド関東支部は、御茶ノ水にある。
九階建ての自社ビルだ。一階のロビーに、迷宮の素材で作った巨大なオブジェが置いてある。何を象ったものかはわからない。
ロビーは広い。広すぎる、と思った。
受付カウンターは四席あるが、座っているのは一人だけだった。掲示板に貼ってあるのは、講習の案内と、支部の統廃合の告知だ。
群馬支部と栃木支部を統合、と書いてある。日付は来月。
その隣に、討伐件数の推移が折れ線グラフで貼ってあった。
右下がりだった。
三十年分のグラフで、ここ五年だけ、はっきりと落ちている。
私はそれを五秒ほど見た。そのときは、それだけだった。
受付で名前を言うと、九階へ通された。
支部長室は、私の事務所の四倍あった。
「加納先生。お待ちしておりました」
鵜飼良隆は、立ち上がって手を出してきた。
五十代。仕立てのいいスーツ。髪が薄いのを隠していない。笑い方が自然で、感じがいい。
「業者です」
「はい?」
「先生ではないです。業者です」
鵜飼は一瞬止まって、それから笑った。
「失礼しました。加納さん」
私は手を握り返した。手が柔らかかった。この人は現場に出たことがない。
「神田と板橋、拝見しました」
テーブルに書類が置かれる。
「率直に申し上げて、うちの常識が間違っていたと思っています」
「そうですか」
「三十年、うちは出てきたものを倒す仕事だけをしてきました。出る前を止めるという発想が、制度の中にない」
彼はコーヒーを勧めて、自分だけ飲んだ。
「そこで、ご相談です。関東支部の指定業者になっていただきたい」
「指定業者」
「年間契約です。迷宮外案件のうち、うちが繁殖の疑いありと判断したものを、優先的にお回しします」
私は書類を引き寄せた。
一枚目の下に、金額がある。
年間、一千八百万円。
私の去年の売上は、六百二十万円だった。
金額を見て、まず思ったのは喜びではなかった。
この額を受けたら、うちは一社に依存する。依存した先が「明日から要らない」と言えば、その日で終わる。
二十年、私はそれを避けてきた。飲食店を百軒持っていれば、十軒潰れても死なない。
一社で一千八百万は、そういう商売ではない。
私はその紙を、最初から読んだ。
鵜飼が「後ほどゆっくり」と言ったが、そこで読まないと、あとで読む時間は絶対に取れない。二十年でわかっている。
十二ページ目に、免責条項があった。
「ここ、直してください」
「どちらです」
「作業中に発生した魔物由来の人身被害について、ギルドは責任を負わない」
「標準の書式でして」
「じゃあ標準を直してください」
鵜飼の笑みが、少しだけ形を変えた。
「加納さん。うちが責任を負うと、討伐扱いになります。討伐扱いになると、班を出さないといけない。班を出すと、あなたの段取りが崩れます」
「わかってます」
「では」
「人が刺されたとき、誰が金を払うかだけ決めておいてください。うちは払えません。年商六百万なので」
沈黙があった。
鵜飼はペンを取って、その行に線を引いた。
「法務と詰めます」
「お願いします」
それから、もう一つ聞いた。
「発注の優先順位は、どなたが決めますか」
「私です」
鵜飼は即答した。
「繁殖の疑いあり、という判断も、支部長が」
「現場からの上申を、私が見ます」
「見るだけですか」
「決めます」
彼はまだ笑っていた。
「加納さん。うちは三十年、討伐という一本の管でやってきた組織です。新しい管を通すには、上で決めるしかない。下に投げると、規定がないので誰も動けません」
筋は通っている。
通りすぎている、とも思った。
帰り際、廊下で沢渡に捕まった。
彼はクリアファイルを両手で持っていた。中身は報告書の様式だった。
「加納さん。これ、見てください」
「はい」
「分類欄を、直したんです」
用紙の「討伐」の横に、手書きで「防除」と書き足してある。定規で線を引いた跡があった。
「通りました?」
「差し戻されました」
「なんでです」
「様式外の記入がある、と」
「書いたのが様式外ですね」
「そうなんです」
沢渡はファイルを胸に抱え直した。
「でも、三回出します」
「三回」
「三回出すと、様式のほうが変わるんです。うち、そういう組織なので」
私はこの人のことを、少し見直した。
沢渡は四十二だと言っていた。新卒でギルドに入って、二十年、書類を回してきた人だ。
現場に出たことは一度もない。
だが、様式を三回出し直せば様式が変わることを知っている人間は、その組織の中で一番強い。
現場の人間は、たいていそれを知らずに怒鳴って終わる。
事務所に帰って、看板屋に電話をした。
軽バンの側面に貼ってある社名は、父が作ったものだ。もう二十八年貼りっぱなしで、白が黄色くなっている。
「文字、増やせますか」
「なんて入れます」
「冒険者ギルド関東支部 指定業者」
電話の向こうで、看板屋が黙った。
「……加納さん、なんかやった?」
「ゴキブリ取ってました」
「いつも通りだな」
「いつも通りです」
看板屋は父の同級生だ。三十年前、志渡町で店をやっていた。
あの町の看板は、ほとんどこの人が書いていた。今は市川で、軽トラの扉に社名を貼っている。
「親父さん、元気か」
「寝たり起きたりです」
「そうか」
電話の向こうで、紙をめくる音がした。
「加納さん。字、大きくしとくぞ」
「普通でいいです」
「でかくしとく。せっかくだからな」
三日後、郁から電話があった。
声が硬い。
「加納さん。神田の南京錠の件、覚えてる」
「忘れてないです」
「管理会社に支払いの記録がなかったから、うちの側を調べたの。備品の発注番号って、連番なのよ」
「欠番がありましたか」
「ある。去年の十一月、三つ」
私は手を止めた。
「紙の控えは残ってた。倉庫の奥に」
「見ましたか」
「見た」
郁が息を吸う音がした。
「品名は、南京錠。三個。納品先は、うちの支部じゃなくて、外部倉庫になってる」
「起案は誰ですか」
「起案は、退職した職員」
「決裁は」
少しの間があった。
「支部長」
私は事務所の壁を見た。
貼ったばかりの、年間契約の控えがある。
「加納さん。あなた、今日あの人と握手したのよね」
「しました」
「どうする」
私は控えを、壁から外さなかった。
「仕事は受けます」
「え」
「断ったら、現場に入れなくなります。入れないと、何も見えません」
電話の向こうで、郁が黙っていた。
私は言い方を変えた。
「班長。防除の基本は、逃げ道を一本だけ残すことです」
「……それ、今の話?」
「今の話です」
「私たちが残した道を、向こうが通るの? 逆じゃない?」
「逆かもしれません」
私は控えの紙を指で押さえた。
「どっちが罠を張ってるのかは、最後までわからないです。それでも、道が一本あるうちは、そこを見ていられます」
私は受話器を持ち替えた。
「班長。次の現場、いつ回ってきます」




