三件目の錠
川崎の食品倉庫だった。
冷蔵ではない常温側。乾物、缶詰、小麦粉、砂糖。二千平米。
天井が高い。十メートル近くある。梁の上に照明が並んでいて、その隙間が全部、暗い。
倉庫は、防除屋にとって一番やりにくい現場だ。
広くて、隙間が多くて、荷物が毎日動く。今日塞いだ場所が、明日パレットで塞がれて見えなくなる。
そして、餌が山ほどある。
指定業者になって最初の案件が、これだった。
「昨夜、夜勤の者が見ました」
所長が言った。五十代、作業着、顔色が悪い。
「フォークリフトのライトに、こう、白いのが横切ったと」
「大きさは」
「四十センチくらいだと」
「何匹」
「一匹です。……一匹だと思います」
私は棚の間を歩いた。
小麦粉の袋が、パレットごと積んである。二段目の袋の角が、丸く消えていた。
齧られている。
床に粉が落ちて、その上に足跡があった。
「ここ、出てますね」
「一匹じゃないんですか」
「一匹しか見えてないだけです」
足跡の大きさが二種類ある。片方は幼体だ。
私は棚の裏に回って、壁の巾木を見た。ここも隙間が開いている。倉庫はどこもそうだ。断熱材の裏が空洞になっている。
その空洞を、懐中電灯で奥まで照らした。
脱皮殻が四つ。全部サイズが違う。
「世代がありますね」
「世代」
「ここで生まれてます」
私は倉庫を一周した。
二千平米を、壁沿いに歩く。四十分かかった。
見るのは三つだ。隙間と、水と、餌。
隙間は、シャッターの下端に一センチ。搬入口の左右に指が入る。配管の貫通部が七箇所。換気扇のシャッターが二基、閉まりきっていない。
水は、床の清掃用の給水栓が二つ。どちらも下に受け皿があり、水が溜まっていた。
餌は、言うまでもない。
「所長。ここ、夜は誰かいますか」
「夜勤が二人です。二時から六時は、休憩で事務所にいます」
「その四時間で動いてますね」
私は手帳に時刻を書いた。
「人が動く音と振動を嫌います。だから、人がいない時間を覚える。覚えたうえで、その時間だけ出てくる」
「……覚えるんですか、あれが」
「覚えます。犬より頭がいいわけじゃないですが、四時間が毎日同じなら、それは覚えます」
排水は、倉庫の北側の桝に集まっていた。
蓋を開ける。
その蓋に、南京錠がかかっていた。
私はしゃがんで、錠を手に取った。
黒い。細身。鍵穴に埃が入っていない。
神田の地下で切ったものと、同じ型だった。
「所長。この錠、誰が付けました」
「うちじゃないです。前からあったと思いますけど」
「前から、というのは」
「……いや、すみません、正直わかりません」
私はボルトカッターを取りに戻った。
軽バンまでの百メートルを歩きながら、考えていた。
南京錠は二千円もしない。ホームセンターで買える。どこにでもある。
だが、排水桝に錠をかける人間はいない。桝は毎年の清掃で開ける場所だ。錠をかければ清掃業者が困る。困った業者は必ず所長に聞く。所長は「知らない」と言う。
つまりこの錠は、「開けられたくない」ではない。
「短いあいだだけ、誰も開けないでほしい」という意味だ。
孵るまでの、二週間ほどを。
切った。
蓋を開けて、中を照らす。
水面に油が浮き、壁に黒い殻が並んでいた。
三十個ほど。神田よりずっと少ない。置かれて、まだ日が浅い。
私は一つを剥がして、根元を見た。
平らだった。
切り口だ。
「三件目です」
後ろで郁が言った。
「三件目ね」
私は卵鞘を数えながら、すずに電話をかけた。
彼女は三コールで出た。研究室にいるらしく、後ろで遠心分離機の音がしていた。
「川崎です。三十一個」
「置かれてから何日ですか」
「殻の乾き方だと、十日前後です」
「じゃあ神田より新しいですね。神田は三十日以上でした」
「同じ人間が、順番に置いてます」
すずが黙った。機械の音だけが聞こえる。
「加納さん。それ、三件とも産卵場所として成立してるんです」
「そうですね」
「置いた人は、どこに置けば増えるか知ってます。素人じゃありません」
私は錠の切れ端を拾って、袋に入れた。
「勉強してますね」
「してます」
すずの声が低くなった。
「腹が立つんですけど」
「はい」
「私の分野なんですよ、そこ。十年、私しかやってなかった。誰も金も出さないし、誰も読まない」
遠心分離機が止まった。研究室が急に静かになった。
「それを、その人はちゃんと使ってるんです。人を刺すために」
「そうですね」
「加納さん、怒ってます?」
「怒ってはいないです」
「怒ってくださいよ」
「怒ると、手元が狂うので」
「……ずるいです、その言い方」
現場の外へ出た。
桝のまわりの土を見る。雨が降っていないので、足跡が残っていた。
私のものと、所長のものと、郁のものと、もう一つ。
私はしゃがんで、ソールの型を見た。
波型の深い溝。爪先の外側だけが極端に減っている。
「班長。これ、うちの業界の靴じゃないです」
「わかるの」
「わかります」
私は自分の長靴を見せた。
「うちが履くのは、これか、安全靴です。一足五千円から八千円」
「これは?」
「たぶん四万します」
「四万」
「岩場で滑らないやつです。うちの業界、その靴は高くて買えません」
郁がしゃがんで、足跡を覗き込んだ。
しばらく見て、それから低い声で言った。
「……これ、うちの装備よ」
「冒険者ですか」
「装備販売の三大メーカーの、中級モデル。B級以下がよく履く」
彼女は指で、減り方をなぞった。
「爪先の外が減るのは、迷宮の下りを速く歩く癖。訓練で直されるんだけど、直らない人がいる」
「元冒険者ですかね」
「かもしれない」
私は立ち上がって、土を払った。
「魔物を生かしたまま運べるのは、そっちの職業だけです」
「……そうね」
「うちには無理です。卵を鞄に入れて電車に乗ったら、途中で孵ります」
「乗らないでよ」
「乗りません」
防除自体は、半日で終わった。
桝の卵鞘を三十一個回収して、焼いた。倉庫側の巾木を全部塞いで、棚の下にベイトを打った。
所長が何度も頭を下げた。小麦粉の在庫は、全部廃棄になるらしい。それは私の仕事ではない。
見積は四十二万円だった。
所長は、小麦粉のパレットを見ていた。
「これ、全部ですか」
「齧られた袋があった段は、全部です。同じパレットの下の段も」
「二百八十万ぶんあります」
「保健所が入ったら、どのみち止まります」
私は伝票を破って渡した。
「明日、うちが証明書を出します。防除を実施した日付と、施工範囲。それがあると、再開の相談ができます」
所長は伝票を両手で受け取った。
この人が一番怖かったのは、虫ではない。
取引先に「あそこは虫が出た」と知られて、契約を切られることだ。
二十年、飲食店で同じ顔を何百回も見ている。
帰り支度をしていたとき、郁が桝のほうから戻ってきた。
手に、何か持っている。
「加納さん」
「はい」
「これ、あなたのよね」
彼女が差し出したのは、粘着トラップの板だった。
折り畳み式の、紙の箱。開いて床に置くタイプ。虫が乗ると剥がれない。
私はそれを受け取って、裏を返した。
側面に、印刷がある。
加納防除サービス。電話番号。父が作った古いロゴ。
「……うちのです」
「置いた覚えは」
「ないです。今日はまだ一枚も出してません」
私は板をもう一度見た。
新しい。糊が乾いていない。置かれたのは、せいぜい数日前だ。
そして、何も掛かっていない。
「班長」
「なに」
「これ、使ってないやつです」
郁の顔から、表情が消えた。
「置いてあるだけ」
「置いてあるだけです」
私は板を折り畳んで、袋に入れた。
卵鞘を置いた人間が、同じ現場に、私の名前の入った道具を置いていった。
理由は一つしか思いつかない。
「次にどこかで人が死んだら」
私は袋の口を縛った。
「俺が置いたことになります」




