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プールの底

 水面の揺れは、プールの真ん中で止まった。

 浮き上がってはこない。

「引っ込んだわ」

「光が嫌いなので」

 私はライトを消した。

 月明かりだけになると、水面は黒い板のように見えた。

「加納さん。どうするの」

「まず、水を抜きます」

「全部?」

「いえ」

 私は排水バルブの位置を校長に聞いていた。プールサイドの奥、鉄の蓋の下にある。

「全部抜くと、散ります。地面に出て、校庭を横切って、校舎に入る。そうなると手がつけられません」

「じゃあ、どれくらい」

「三十センチ残します」


 水位を下げるのには、三時間かかった。

 その間に、私は仕事をした。

 プールの排水は、そのまま川へは出さない。一度、校庭の雨水桝に落として、そこに目の細かい網を張った。

 卵は流れる。流したら、下流で同じことが起きる。

 二十年やっていると、この手の「先で困ること」ばかり考える癖がつく。

 排水口の格子に、目の細かい金網を二重に噛ませる。これで下からは出られない。

 プールサイドの四辺に、幅十五センチのアルミ板を立てて、外側へ折り返した。這い上がってきても、返しで落ちる。

 これは蜂でも鼠でも同じだ。逃げ道を全部塞ぐと、必ずどこかを食い破る。だから一本だけ開けておく。

 私が開けたのは、飛び込み台の脇にある古いプールサイドシャワーの排水溝だった。そこだけ返しを付けず、コンクリートの傾斜が続いている。

 その先に、鉄板を敷いた。

 そして、鉄板の向こうに剣を置いた。


「一本だけ開けるのね」

 郁が板の前に立って言った。

「神田と同じです」

「同じことをするんだ」

「同じことしかしないです。相手が変わるだけで」


 すずが金網の端を押さえながら言った。

「加納さん、さっきから一度も剣の話をしませんね」

「剣は持ってないので」

「ギルドの人は、まず何体いるかを聞くんです。加納さんは、どこから入ったかしか聞かない」

「入口を塞げば、数は関係ないので」

「……それ、書いていいですか」

「どうぞ」

 彼女はしゃがんだまま、ノートに何か書いていた。書きながら、笑っていた。


 水位が三十センチになった。

 底が見えた。

 藻と落ち葉の層の上に、黒いものが点々と沈んでいる。動かない。

「死んでる?」

「寝てます。水温が下がると動きが鈍るので」

「今なら殺せる?」

「入ったら足を取られます。それに」

 私は数を数えていた。見えている範囲で、四十。見えていないのが、その何倍か。

「殺し方が別にあります」

 すずがプールサイドに腹這いになって、水面を覗き込んでいた。

「加納さん。水温、十九度です」

「動きが鈍いわけです」

「十九度って、どういう意味を持ちますか」

「意味は二つです。一つは、逃げ足が遅い。もう一つは」

 私は缶の蓋を開けた。

「呼吸が浅い。長く息を止められません」

 私は軽バンから、灯油のような色の缶を二つ運んできた。

「油?」

「防除用の薄い油です。ボウフラを殺すのに使います」

「ボウフラ」

「蚊の幼虫です。水に油の膜を張ると、呼吸ができなくなって死にます。薬で殺すんじゃなくて、水面を塞ぐんです」

 郁が水面を見て、それから私を見た。

「……これ、六十センチの魔物よ」

「甲殻種は気門で呼吸します。ボウフラと同じです」

「同じ」

「同じです。大きいぶん、油を多く撒くだけです」

 すずが立ち上がった。

「待ってください。それ、論文になります」

「なりません」

「なります! 迷宮外個体の呼吸生理に、既存の物理的防除法が有効だという直接証拠で」

「ボウフラで百年前からやってます」

「……百年前」

「衛生害虫の教科書に載ってます。二千円くらいです」

 すずが動かなくなった。

「二千円」

「そのくらいです」

「私、三年かけました」

「そうですか」

「三年です。査読に落ちて、落ちて、また落ちて、その答えが二千円の本に載ってるんですか」

「載ってるのは、蚊のほうです」

「同じじゃないですか!」

 彼女はプールサイドにしゃがみ込んで、膝を抱えた。

「……いや、違いますね。違います。蚊で成り立つことが魔物で成り立つのを、誰も確かめてなかったんだから、そこは私の仕事です。うん。そうです。そうですけど」

 顔を上げた。目が赤い。

「ちょっとだけ、腹が立ちました」


 撒いた。

 三百トンぶんの水面ではなく、三十センチまで落とした水面だ。缶二つで足りた。

 薄い膜が、端から端まで広がっていく。

 十分ほどで、底が動き出した。

 一匹が浮き上がり、水面で足を掻いた。膜が破れない。もがくほど油が体に絡む。

 二匹目。五匹目。

 水面が、泡立つように騒がしくなった。

「上がってくるわ」

「上がってきます。苦しいので」

 奴らは壁を登り始めた。四辺のアルミの返しに当たって、落ちる。もう一度登る。また落ちる。

 そして一か所だけ、返しのない場所を見つける。

 シャワーの排水溝。

 そこへ、全部が流れ込んでいった。


 郁が鉄板の上に立った。

 私はその十メートル後ろから見ていた。

 今夜は、神田とは条件が違う。

 彼女はウェットスーツを着ている。足元は濡れた鉄板だ。そして逃げ道が一本しかないということは、相手が必ず正面から来るということだ。

 正面から来るのは、楽なようで楽ではない。

 休みがないからだ。

 神田の階段は、相手が上ってくるまでに時間がかかった。あの時間が、彼女の休みだった。

 今夜は、それがない。

 最初の三十体は、腕だけで処理していた。

 六十を超えたあたりから、腰が入るようになった。振り幅が大きくなったのではない。逆だ。小さくなって、体の中心に近づいた。

 力を節約している、と私は解釈した。

 八十。

 百二十。

 百六十のところで、彼女の足が滑った。

 油だ。追い出した個体の体に付いたやつが、鉄板に移っている。

 滑って、片膝をついた。

 その姿勢のまま、三体処理した。立たなかった。

 立つ時間がなかったからだ。

 私は数えながら、彼女の呼吸を聞いていた。

 吸う間隔が、最初の倍になっていた。

 百九十一。

「終わり?」

 声が掠れていた。

「あと、卵です」

「……ちょっと待って」

 彼女は鉄板の上に座り込んだ。

 鞘に納めるのに、今日は一度で入った。

 私は何も言わずに、ピットの縁に長靴を置いた。

「加納さん」

「はい」

「今の、何分だった」

「十四分です」

「……十四分か」

 彼女は自分の右手を見ていた。

「三時間振ってたころは、こんなに疲れなかった」

「三時間のほうが、たぶん楽です」

「なんで」

「三時間かかるということは、相手が来ない時間があるということです」

 私は膝を曲げた。

「今日は、十四分ずっと来ました。そういう段取りにしたので」

 郁はしばらく黙っていた。

「加納さん」

「はい」

「私、今日のほうがいい」

「そうですか」

「そう」

 彼女は立ち上がった。

 立ち上がるのに、手をついていた。


 プールの底に降りた。

 長靴が藻に沈む。腐った落ち葉の匂いが上がってくる。

 排水口の周り、コンクリートの目地。そこに、黒い米俵が並んでいた。

 ここは水が動かない。冷えない。日が当たらない。

 産む場所として、完璧だった。

「加納さん」

 郁がプールサイドから見下ろしている。

「私も降りる」

「濡れますよ」

「あなたが濡れてるでしょう」

「……ウェットスーツ、貸します」

「持ってるの?」

「軽バンに積んでます。父のですが」

 郁は少し黙った。

「お父さんの」

「サイズは合うと思います」

「……なんでウェットスーツを積んでるの」

「浄化槽に入ることがあるので」

 郁は何か言いかけて、やめた。それから取りに行った。


 二人で剥がした。

 へらを殻の縁に差し込んで、根元から起こす。割らないように。

 コツは力ではない。角度だ。

 殻はコンクリートに、糊のような分泌物で貼り付いている。真横から起こすと割れる。三十度ほど寝かせて、てこの支点を殻の外に置く。

 私はそれを、二十年で十万回やっている。

 郁は最初の三つを割った。四つ目から割らなくなった。飲み込みが早い。


 落ち葉の層を掻き分けたとき、私の手が硬いものに触れた。

 卵鞘ではなかった。

 温度が違う。

「班長」

 言い終わる前に、落ち葉が持ち上がった。

 油膜の下にいたのではない。泥と落ち葉の中に潜っていたものだ。

 腐った葉の中は、酸素が薄い。薄い場所では、呼吸がほとんど要らない。冬眠に近い状態で沈んでいたのだと、あとで戸田さんが言った。

 そのときは、何も考えていなかった。

 四十センチが、私の顔の高さにあった。

 郁の手が、私の防護服の肩を掴んだ。

 引かれた。

 私は尻から水に落ちて、そのまま一メートル滑った。

 滑った先から見えたのは、彼女が私のいた場所に踏み込んで、下から斬り上げるところだった。

 ウェットスーツで、藻の上で、足場がない。

 それでも、一撃だった。

「加納さん」

「はい」

「油、効かない場所ある?」

「あります」

 私は水の中で立ち上がった。

「泥の中です。膜は、水面にしか張れないので」

「先に言って」

「言うべきでした」

「そうよ」

 彼女は剣を下ろして、水面を見回した。

「まだいる?」

「たぶん、いないです」

「たぶん」

「……確認します」

 二人で、落ち葉を全部掻き出した。

 一時間かかった。もう一体出た。

 それは、彼女が先に見つけた。

「これ、何個あるの」

「百九十は超えます」

「一つで四十匹」

「そうです」

 彼女の手が一瞬止まった。

「三日待ってたら、八千匹が校舎に入ってたのね」

「八千は入りません。餌がないので、途中で共食いします」

「……そういう慰め方、ある?」

「慰めてないです」

 郁は手を止めなかった。

 ウェットスーツの袖が藻で緑になっている。彼女はそれを気にしていない。

「加納さん」

「はい」

「私、今日、剣を三十秒しか振ってない」

「十分です」

「今までの現場は、三時間振ってた。それで褒められてた」

 へらの先が、また一つ殻を起こした。

「三時間振らなくて済む現場を、作ればいいだけです」

「……それ、上に言ったら怒られると思う」

「怒られるでしょうね」

 私は次の殻に手をかけた。

「でも、あんたが怒られたぶん、誰も刺されてないです」


 午前六時半。

 校門に、食材のトラックが入ってきた。

 菊田さんが給食室の鍵を開けて、中に入る。私はプールサイドから見ていた。

 しばらくして、彼女が出てきた。

 こちらへ歩いてくる。作業着のまま、走りはしなかった。

「終わったんですか」

「終わりました」

「匂い、しませんでした」

「しないようにやりました」

 彼女は何度か頷いて、それから言った。

「今日、カレーです」

「そうですか」

「八百十二人ぶん」

 それだけ言って、給食室に戻っていった。

 私は缶の火を見ていた。

 こういうのには、二十年やっても慣れない。


 午前四時。

 二百三個。

 ドラム缶で焼いた。殻の弾ける音が、誰もいない校庭に響いた。

 東の空が白み始めている。

 六時半には給食の食材が届く。間に合った。


 缶の脇で、郁が卵鞘を一つ、手の中で転がしていた。焼く前に一つだけ、すずに渡すために残してある。

「加納さん」

「はい」

「これ」

 彼女が指先で、殻の一点を示した。

 私はライトを近づけた。

 根元が、平らだった。

 へらで起こした跡ではない。私がやると、必ず縁がぎざぎざに残る。

 これは、切ってある。

 刃物で、まっすぐに。

「……神田と同じですね」

 私は言った。

 郁は卵鞘を握ったまま、プールの水面を見ていた。

「二件目」

「二件目です」

 彼女が振り返った。

「加納さん。これ、誰かが置いていってる」

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