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給食室

 電話が鳴ったのは、朝の六時だった。

「加納さん。板橋。小学校よ」

 緋山班長の声は、あれから三度目だ。番号を登録するかどうか、まだ迷っている。

「規模は」

「成体が一体、駆除済み。それから幼体が十匹前後。給食室」

「学校、いつ始まります」

「明日」

 私は起き上がって、軽バンの鍵を取った。

「行きます」


 板橋区立の小学校。

 正門の前で、校長が私を待っていた。頭を下げる角度が深すぎて、こちらが困った。

「明日、始業式なんです」

「聞きました」

「児童が八百十二名います。給食も出します」

 私は腕時計を見た。午後四時。

「間に合わせます」


 給食室は、思っていたよりきれいだった。

 案内してくれた栄養士は、菊田さんといった。四十くらいで、背が低く、声が大きい。

「二学期の準備で、昨日から入ってたんです。そしたら、これくらいのが」

 両手を開く。二回開いて、二回とも大きさが違った。

 人は、驚いたものの大きさを正確には覚えていない。それでいい。私は殻を見れば済む。

 ステンレスの調理台は磨いてある。床は毎日洗われている。排水溝に蓋がしてある。

 こういう現場は、正直に言うと厄介だ。

 汚い厨房は原因がすぐわかる。きれいな厨房で虫が出るときは、原因が建物の側にある。

「どこで見たんですか」

「ここです」

 栄養士の女性が、壁を指した。配膳室との境の壁。腰の高さに、コンセントの蓋がある。

 蓋を外した。

 中の空洞に、黒い殻が二枚落ちていた。脱皮殻だ。幅は十センチ近い。

「大きいのが出ました。この、これくらいの」

 彼女が両手を開いた。五十センチほど。

「それは成体ですね」

「他にも、小さいのが……十匹くらい」

 私は懐中電灯を空洞の奥へ向けた。

 壁の中を、配線が上へ伸びている。その脇に、乾いた糞が積もっていた。

 量を見た。

 積もり方を見た。

「ここで暮らしてはいませんね」

「え?」

「通り道です。寝床は別です」


 ギルドの車が二台、校庭に入ってきた。

 郁が降りてくる。後ろから沢渡が書類を抱えて走ってきた。

「加納さん。支部の判断が出ました」

「はい」

「校舎を全面封鎖して、三日で掃討します。始業式は延期の方向で」

「三日」

「安全第一ですので」

 私は校長を見た。

 顔が白くなっていた。八百十二人ぶんの連絡と、給食業者への連絡と、共働きの家庭への連絡が、今から始まるという顔だった。

「一晩で終わります」

 沢渡が止まった。

「……は?」

「今夜やります。明日の朝、給食も出せます」

「いや、規定では」

「規定はそちらの話です。こっちの見積では一晩です」

 郁が沢渡の肩に手を置いた。

「課長。神田を思い出して」

「……あれは」

「三時間で終わらせて、六回湧いた」

 沢渡は書類を抱え直した。それ以上は言わなかった。

 それでも、彼は電話をかけに行った。

 規定を外すには支部の承認が要る。当然だ。

 五分で戻ってきた。顔が少し妙だった。

「通りました」

「早いですね」

「早かったです。支部長決裁でした」

「支部長」

「鵜飼です。業者の判断に任せる、と」

 郁が眉を寄せた。

「支部長が直接? こんな小さい案件に」

「私も、初めてです」

 私は図面を丸めた。

 そのときは、ありがたい話だとしか思わなかった。


「あの」

 校長が遠慮がちに手を挙げた。

「殺虫剤の匂いは、残りますか。給食室ですので」

「残りません」

「本当に? 子供が食べるものを作る場所でして」

「カレーの匂いのほうが強いので、大丈夫です」

 校長は少し笑って、それから笑っていいのか迷う顔をした。

 私は本当のことを言っただけだった。


 夜の七時。

 校舎の図面を広げた。給食室、配膳室、廊下、配管の立ち上がり。

 私は糞の量を数字にしていた。

「栄養士さんが見たのは十数匹ですよね」

「はい」

「壁の中の糞から逆算すると、百は使ってます」

 沢渡がペンを落とした。

「百」

「ただ、ここには百匹ぶんの餌がありません」

 私は調理台を叩いた。

「この給食室、きれいすぎるんです。毎日洗って、残飯は当日に出して、蓋も閉めてる。ここで百匹は養えない」

「じゃあ、どこから」

「それを探します」


 戸田すずは、呼んでいないのに来た。

 白衣の上にリュックを背負って、正門を走って入ってきた。

「板橋って聞いて」

「誰に」

「ギルドの公開日報です。あれ、五分遅れで出るんですよ」

「趣味が悪いです」

「趣味です」

「あの、この学校、電源借りられますか」

「勝手に借りないでください」

「借りました」

「もう借りたんですか」

「配膳室のコンセントです」

 延長コードが、厨房を斜めに横切っていた。

 その先で、戸田すずは床に腹這いになっていた。巾木の高さに計器を置いて、目線を床につけている。そうしないと数字が読めないらしい。

 菊田さんが、私の横に来て、小声で言った。

「加納さん。あちらの方は」

「大学の方です」

「大学の……あの、寝ていらっしゃいますけど」

「寝てないです。測ってます」

「測ると、寝るんですか」

「寝ます」

 菊田さんは、それで納得したようだった。

 私は、納得していなかった。

 彼女は給食室の壁の穴に顔を突っ込んで、しばらく動かなかった。

「加納さん。糞の水分量、測っていいですか」

「どうぞ」

「乾き具合で、最後にここを通った時刻が出ます」

「何時ですか」

 すずはピンセットで粒を潰し、小さな計器に載せた。

「……たぶん、四時間前です」

 私は時計を見た。午後四時半。

 昼過ぎに、ここを百匹が通っている。

 菊田さんが調理台に手をついた。

「昼、私、ここで作業してました」

「見てないですよね」

「見てません」

「壁の中なので、見えません」

 私はコンセントの蓋を戻した。

「見えないから、まだ誰も刺されてないんです」


 私は校舎を出た。

 配管の図面を持って、敷地を歩く。

 給食室の排水は、地下の管を通って、敷地の東側へ抜けている。その途中に、汚水桝がいくつかある。蓋を順に開けた。

 三つ目まで、異常なし。

 四つ目の蓋を開けたとき、匂いが違った。

 腐った水の匂いではない。もっと青い、藻の匂いだった。

「ここ、雨水と繋がってますね」

「合流式です」校長が答えた。「古い学校なので」

 私は懐中電灯を桝の中へ入れた。

 水面に、油の膜が浮いていた。

 その膜に、細かい足跡のような波紋の跡が、乾いて残っている。

「この先、何がありますか」

 校長が図面を覗き込んだ。

 指が止まった。

「……プールです」


 プールサイドに立った。

 二十五メートル。水は入ったままだ。

「夏の後、抜かないんですか」

「抜くと、コンクリートが傷むと言われまして。それに、消防の防火水槽も兼ねてるので」

 水は緑色だった。落ち葉が浮いている。底が見えない。

 郁が横に並んだ。

「ここ?」

「たぶん」

「でも、水の中よ」

「水の中です」

 私はプールの端にしゃがんだ。

 排水口の格子に、白いものが引っかかっている。ピンセットで摘まみ上げた。

 脱皮殻だった。

 給食室で見たものより、ずっと小さい。生まれて間もない個体のものだ。

「加納さん」

 郁の声が低くなった。

「水の中って、薬撒けるの」

「撒けません。希釈されて効かないし、排水が川に出ます。水質汚濁防止法に引っかかります」

「じゃあ」

「潜って一匹ずつ殺しますか」

「……何匹いるの」

 私はプールを端から端まで見た。

 二十五メートル、六コース、水深一メートル二十。三百トン。

 落ち葉と藻と、夏のあいだの有機物が、全部沈んでいる。

 これ以上の餌場は、そうない。

「給食室の百匹は、たぶん出稼ぎです」

「出稼ぎ」

「本店はここです」

 沢渡がプールの柵を握っていた。

「加納さん。これ、報告書の分類はどうすれば」

「まだ終わってないので、先に考えなくていいです」

「いや、あの、今のうちに」

「課長」

 郁が言った。

「あなた、そういうところあるわよね」

 すずがプールサイドにしゃがみ込んで、水を小瓶に汲んでいた。

「窒素とリン、たぶんすごいことになってます」

「それは何がわかるんですか」

「餌の量です。この水、栄養がありすぎます」

 彼女が瓶を光に透かした。

「加納さん。この学校、夏のあいだプールの授業は」

「六月から七月です」校長が答えた。

「じゃあ、二か月誰も入ってません」

「入ってません」

「二か月です」

 すずが私を見た。

「二か月あれば、二世代いきます」


 校長が、プールの柵を握ったまま動かなくなっていた。

「あの、加納さん」

「はい」

「うちの子たちは、来年の六月に、ここで泳ぎます」

「泳げます」

「本当ですか」

「水は全部入れ替えます。そちらのほうが金はかかりますが、そのぶんは見積に入れます」

 校長は、ようやく息を吐いた。

 この人が一番怖かったのは、たぶん今夜のことではない。

 このプールが使えない学校になることだった。

 私はプールの水面を照らした。

 風もないのに、水面が一か所だけ揺れていた。

 揺れは、こちらへ近づいてきた。

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