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床下の先生

 一週間、ギルドから電話は来なかった。

 来たのは、八王子の個人宅からだった。


「市に電話したら、魔物被害は担当が違うって言われて」

 玄関先で、おばあさんが両手を膝の前で重ねていた。八十は過ぎている。

「ギルドさんにも電話しました。等級が足りないから出動基準に入らないって。あの、等級って何でしょうね」

「規模です。小さいと来ません」

「小さくないんですよ、うちは」

「ギルドさんは、電話には出てくださったんですよ」

 おばあさんは湯呑みを二つ持ってきていた。

「ただ、規定でって。写真を送ったら、被害額が基準に届かないそうで」

「基準」

「三百万円だそうです」

 私は湯呑みを置いた。

 三百万円というのは、たぶん家が壊れてからの金額だ。

「今なら、十万円かかりません」

「そうなんですか」

「壊れてからだと、二百万円です」

 言ってから、少し言い過ぎたと思った。

「壊れる前に来るのが、うちの仕事なので」

 おばあさんは湯呑みを両手で持ったまま、何度か頷いていた。

 彼女は廊下を指した。

 畳が一枚、沈んでいた。中央が二十センチほど落ちている。座布団が斜めに滑り落ちていた。

「おじいさんが、ここで転んで」

「骨は」

「大丈夫でした。次は、わかりませんけど」


 床下点検口を開ける。

 顔を入れて、ライトを当てた。

 基礎のコンクリートに、茶色い筋が這っていた。指の太さ。土と分泌物を固めた道だ。

 蟻道という。

 シロアリは光と乾燥に弱い。だから、地面から木まで、自分でトンネルを作って移動する。

 この蟻道は、太かった。私が知っているものの、四倍ある。

 そして、先客がいた。


 白衣の足の裏が、床下から突き出ていた。

「……もしもし」

「しっ」

 足が喋った。

「今いいところなんです。蟻道の分岐、第三分岐まで来てて、ここで方向が変わってるんですよ。ということは主巣は北側じゃなくて、東です、東。だってこの角度で曲がる理由が他にないでしょう」

「あの」

「あ、ごめんなさい、業者さんですか。すみません勝手に。私、戸田と言います。大学で、迷宮外個体の生活環を、あの、やってます。神田の報告書を読んで、ここの依頼が似てたので、それで」

「出てください」

「え、まだ」

「そこ、真上に人が立つと抜けます」


 出てきたのは、小柄な女だった。

 白衣は茶色く汚れ、髪に蜘蛛の巣がついている。目が赤い。何日も寝ていない顔だ。この一週間で、そういう顔を二回見た。

「戸田すずです。二十六歳です」

「年は聞いてないです」

「あ、はい」


 床下に潜った。

 蟻道を三本見つけた。北の基礎に一本、東に一本、浴室の配管沿いに一本。

 東の道が一番太い。戸田の言う通りだ。

「合ってましたね」

「え」

「東です」

 戸田が這ったまま固まった。

「……今、合ってるって」

「合ってます」

「初めて言われました、それ」

「あの、他にも聞いていいですか」

「作業しながらでいいなら」

「脱皮回数、何回だと思いますか」

「六回か七回です」

「なんでわかるんですか」

「神田で殻を拾ったので。大きさが六段階ありました」

「拾った」

「拾いました。軽バンに入ってます」

 戸田が床下で頭を打った。


 床下は高さが四十センチしかない。

 仰向けになって、肘で進む。土が襟から背中に入る。二十年やっているが、これに慣れることはない。

 東の蟻道を、指先で崩した。

 中に、白い個体がいた。米粒よりずっと大きい。私の親指ほどある。

 働きアリだ。目がない。土の中しか歩かないから、要らないのだ。

「これ、通常種の何倍ですか」

 戸田がすぐ横で這っていた。四十センチの隙間に、大人が二人いる。

「体積で八十倍です。でも構造は同じですよ。触角の節の数まで同じ」

「同じなら、同じ薬が効きます」

「そこなんです」

 戸田の声が跳ねた。

「そこを、誰も試さないんです。魔物だから討伐するものだって、最初から決まってるから。私が学会でその話をしたら、何て言われたと思います」

「非科学的」

「なんでわかるんですか」

「そういう顔をされたことがあるので」


 柱を叩く。

 東側の通し柱が、軽い音を返した。中が空だ。

 ドライバーを当てて押すと、三センチ沈んだ。表面の一層だけ残して、中身が全部なくなっている。

 シロアリは表面を残す。光と風が入るのを嫌うからだ。だから外から見ると、家は無傷に見える。

「これ、いつから」

「去年の秋に、羽蟻が出ました」

 おばあさんが点検口の上から言った。

「気持ち悪かったけど、すぐいなくなったので」

「羽蟻は、巣が出来上がった合図です」

 私は柱から手を離した。

「出ていくほど増えたから、外へ分家に行くんです」


 やり方は決まっている。

 まず、三本のうち二本を潰す。土壌処理剤を注入して、道を使えなくする。

 残すのは、東の一本。

「一本残すんですか」

 戸田が横で膝をついていた。ノートを出している。

「潰すと、別の道を作ります。どこに作るかは、こっちで選べません」

「ああ」

「一本残せば、そこを通ります。通る道がわかってるほうが、扱いやすい」

 その一本に、ベイト剤のステーションを設置した。地面に埋めた筒に、薬を練り込んだ餌を入れる。

「即効性はありません。効くまで二か月かかります」

「二か月」

「シロアリは、仲間に餌を口移しします。その習性で、巣の奥まで運ばれます。女王まで届かないと終わらないので」

 戸田のペンが止まった。

「……栄養交換で、薬剤が巣内に拡散する」

「はい」

「私、それを論文に書きました」

「知ってます」

「なんでそんなもの見るんですか」

「業界の動向なので」

「動向じゃないです、私の傷です」

「傷でも、読めば書いてあることは同じです」


 戸田が顔を上げた。

「知ってる?」

「報告書を読んで来たと言いましたよね。こっちも読みました」

 私は作業の手を止めなかった。

「『迷宮外個体の生活環に関する予察』。査読、三回落ちてますね」

「な……なんで、そんな」

「学会誌の不採択一覧、公開されてるので」

「見ないでください、そんなの!」

「合ってますよ、これ」

 戸田が黙った。

「産卵周期も、食性の転換も、脱皮回数も。現場で見た通りです」

 私はステーションの蓋を閉めた。

「サンプル数が足りないと言われたんでしょう」

「……はい」

「足りるようにすればいいです。俺は年に二百件入ります」

 返事がなかった。

 ライトを向けると、戸田は四十センチの隙間で仰向けになったまま、両手で顔を押さえていた。

 肩が揺れている。

 声が漏れて、それを止めようとして、余計に大きくなった。

「すみません」

「いえ」

「すみません、ほんとに、こんな、床の下で」

「よくあります」

「ないですよ!」

 彼女は起き上がろうとして、梁に額をぶつけた。

「痛い」

「そこ、低いです」

「先に言ってください!」

 私はウエスを一枚、彼女のほうへ滑らせた。

 戸田はそれで顔を拭いて、それが油まみれのウエスだと気づいて、それからもっと泣いた。


 見積は八万円だった。

 おばあさんが封筒を持ってきて、途中で手が止まった。

「あの、年金が来月でして」

「来月で結構です」

「……あの、まけてもらうことは」

「できません」

 私は請求書を置いた。

「すみません。安くすると、次に困ってる家に行けなくなるので」

 おばあさんは少し笑って、封筒をしまった。

「そうですよね。商売ですものね」

「商売です」

 おじいさんが奥から出てきて、私の顔を見た。それから戸田の白衣を見た。

「先生も、ご一緒に」

「違います」

「違います」

 二人同時に言った。

 畳を上げて、下地を補強した。合板を渡して、束を足す。その日のうちに、床は沈まなくなった。

 おじいさんが縁側から出てきて、そこを二回踏んだ。

 二回とも、何も起きなかった。

 それだけのことで、二人とも長いこと畳を見ていた。


 軽バンに機材を積む。

 戸田がまだいた。白衣のまま、後ろに立っている。

「加納さん」

「はい」

「見てほしいものがあります」


 結局、駅まで乗せることになった。荷台に乗ると言うので、助手席に押し込んだ。

「なんで、この仕事なんですか」

「親がやってたので」

「それだけですか」

「それだけです」

 戸田は窓の外を見ていた。

「私、親に、そんな研究はやめろって言われてます」

「でしょうね」

「慰めないんですね」

「慰めても、査読は通らないので」

「そういうとこですよ」

「どういうとこですか」

「加納さん、今、人の話を聞いて、一ミリも同情しなかったでしょう」

「しました」

「してないです」

「口に出さないだけです」

「出してください」

「……大変ですね」

「棒読みですね」

 戸田が笑った。声を出して笑った。

 この一週間、誰かが笑うのを見たのは初めてだった。 タブレットを差し出された。

 関東の地図。赤い点が打ってある。この三十年、迷宮の外で魔物が確認された地点だ。

「去年までは、ダンジョンの周りにばらけてました。でも今年は」

 彼女が指で拡大した。

 点が、散らばっていなかった。

 北東から南西へ、まっすぐ並んでいる。等間隔に近い。

 私は地図を見た。二十年、配管と蟻道ばかり見てきた目で見た。

 こういう形を、私は知っている。

「これ、道ですね」

「え」

「誰かが、通ってます」

 携帯が鳴った。

 緋山だった。

「加納さん。次、出た」

 声が硬い。

「どこですか」

「板橋。……小学校よ」

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