毒餌です
「突入して殲滅します」
沢渡が言った。歩道にホワイトボードを立てて、ビルの断面図を描いている。
「第三討伐班に加えて、第一班を呼びました。合計十八名。地下から順に制圧して」
「入ったら負けますよ」
私は軽バンの後ろで、防護服の脚を通していた。
「……は?」
「十八人で入って、何匹殺せます」
「二百は」
「三百います。殺しきれなかった分は、どこへ行きますか」
沢渡の口が止まった。
「壁の中です。上に行きます。四階から上は事務所ですよね。人がいます」
私はファスナーを首まで上げた。
「殺すのは最後です。まず、逃げ場をなくします」
緋山が沢渡の前に立った。
「課長。この人の段取りでやります」
「班長、責任の所在が」
「私です」
それで終わりだった。
段取りは三つ。
一つ、餌を断つ。
一階から三階までの飲食店、全部の厨房に入った。生ゴミ、冷蔵庫の中身、排水管の残渣。全部出す。グリストラップは業者を叩き起こして、バキュームで抜かせた。二週間分の油が、白い塊のままホースを上がっていく。
沢渡が鼻を押さえながら言った。
「これ、必要ですか。魔物ですよ」
「食ってるから増えたんです」
「魔物が、生ゴミを」
「食ってます。ピットの底に、鶏の骨がありました。齧った跡が付いてた」
沢渡は何も言わなかった。
二つ、経路を塞ぐ。
配管の貫通部。一階から八階まで、全部で四十二箇所。
金網を隙間の形に切って押し込み、その上から発泡ウレタンを吹く。膨らんで固まるまで九十秒。私はそれを四十二回繰り返した。
緋山が途中から、金網を切る係になった。
「これ、地味ね」
「地味です」
「五回、私は三時間で終わらせてた」
「三時間で終わったから、六回目が来たんです」
緋山の手が止まった。
私は言い方を考えなかった自分を、少しだけ悔やんだ。
「……そうね」
彼女はそれだけ言って、また金網を切り始めた。
三十六箇所目で、緋山が口を開いた。
「五回目のとき、変だと思ったのは、匂いだった」
「匂い」
「一回目の個体は、外の匂いがした。土とか、鉄とか。五回目のは、油の匂いがした」
私は手を止めた。
「それ、報告書に書きました」
「書けるわけない。匂いが違いましたなんて」
「書いてください。次から」
「笑われる」
「笑うやつは、現場に来てないです」
ウレタンが膨らんで、金網の目から溢れ出した。九十秒。私はそれを見ていた。
「加納さん」
「はい」
「私、あなたのこと、最初は当てにしてなかった」
「そうでしょうね」
「今はしてる」
「助かります。金網、あと六枚です」
三つ、出口を一本だけ残す。
地下の機械室から、裏口へ上がる階段。そこだけ塞がずに開けておく。
全部塞ぐと、奴らは壁の中に散る。散ったら終わりだ。
だから、逃げられる道を一本だけ残す。
その先に、剣を置く。
「毒は使わないの」
緋山が聞いた。
「使います。ここでは撒きませんが」
私はベイト剤のチューブを見せた。ケチャップのような容器だ。
「これ、毒餌です。食わせる薬です」
沢渡が振り返った。
「毒餌? 六十センチの甲殻種にですか」
「生き物なので」
「いや、あの、そういう問題では」
「口から入れば効きます」
沢渡は口を開けたまま、私を見ていた。
緋山が横を向いた。肩が少し揺れていた。
午後十一時。
照明を落とす。奴らは明るいところに出てこない。
ピットの蓋を開けて、ULV機のノズルを差し込んだ。
霧が落ちていく。殺すための霧ではない。嫌がらせるための霧だ。ピレスロイド系は、虫に「ここは嫌だ」と思わせる。追い出しと呼ぶ。
三十秒。
音が来た。
乾いた、細かい、無数の音。
ピットの中で、何かが一斉に壁を登り始めた。
「来ます」
私は蓋を閉めずに、脇に退いた。
最初の一匹が縁から出た。
白い。まだ殻が固まっていない。脚が長い。体長は三十センチほど。それが二匹、五匹、十匹、床を埋めていく。
奴らは光を避けた。避けた先が、階段だった。
私が開けておいた、一本の道。
階段の上で、鞘が鳴った。
私は階段の下から、それを見ていた。
階段の幅は、九十センチだった。
彼女はその真ん中ではなく、手すり側に寄って立っていた。二体が並んで上がれない幅に、自分で絞っている。
剣は、振り下ろしていなかった。
横に振っていた。刃の高さが、私の腰くらいで固定されている。壁を叩かない高さだ。一度でも壁に当てれば、刃が止まる。止まれば次が来る。
風の音だけがして、そのあとに落ちる音がする。それが繰り返された。
十体目のあたりで、一体が三段飛んだ。
彼女は退がらなかった。退がると、次の一体ぶんの間合いが詰まる。
前に出た。
踏み込んだ足が、死骸を踏んで滑った。滑った勢いのまま、下から斬り上げた。
それを、私は見ていた。見ていて、意味がわかったのは、たぶん半分もない。
わかったのは一つだけだ。
この人は、一度も同じ場所に立っていない。
半歩ずつ、ずっと動いている。動きながら、階段の幅を自分の側に保っている。
五十を超えたあたりから、音が変わった。
剣の音ではない。息の音だ。
吸って、止めて、振る。それを一定の間隔でやっている。間隔が、少しずつ短くなっていく。
百八十で、彼女は膝をついた。
滑ったのではない。自分でついた。低い姿勢のまま、下から三体を処理して、また立った。
私は数えるのをやめようかと思った。
やめなかった。数えるのが、私の仕事だからだ。
一匹が、列から逸れた。
私のほうへまっすぐ来る。頭が動いていない。逃げているのではなく、光に向かっている個体だ。ときどきこういうのが出る。
私は噴霧器のレバーを二度引いて、口元に直接かけた。
原液に近い濃度で作ってある。厨房では絶対に使わない濃さだ。
脚が縮んだ。ひっくり返って、腹を上にして震える。
それでも十秒かかった。
「加納さん!」
「大丈夫です。倍量入れてあるので」
「倍」
「六十センチなんで」
私は数えていた。
百二十。百五十。百八十。
流れが細くなる。止まる。
二百十四。
彼女が階段を降りてきた。
鞘に納めるのに、二回失敗した。
三回目で入った。
「班長」
「なに」
「手、見せてください」
「見ない」
「開かないでしょう」
郁は答えなかった。
右手が、剣を握った形のまま止まっている。指が伸びない。
私は自分の手を出した。彼女は一度、私の顔を見た。
それから、右手を差し出した。
私は指を一本ずつ、外側から開いた。人差し指が一番硬かった。
「痛いですか」
「痛くない」
「痛いですよね」
「……痛い」
五本開くのに、二分かかった。
「あんた、慣れてるわね」
「床下で腕を伸ばしたまま三時間やると、同じことになります」
「同じなんだ」
「たぶん、同じです」
彼女は開いた手を、何度か握り直した。
私は階段を上がって、各階の踊り場を見て回った。
一階に一枚、二階に一枚、三階に一枚。粘着トラップを置いてある。塞ぎ損ねた穴があれば、そこを通った個体が必ず乗る。
二階のトラップに、二匹いた。
まだ動いている。三十センチの脚が、糊の上で空を掻いていた。
「二匹、抜けてます」
「四十二箇所、全部やったでしょう」
「やっても抜けます。抜けるものとして置くんです」
板ごと袋に入れて、口を縛った。
「完璧にやる方法はないので。抜けたやつを拾える形にしておくだけです」
緋山は、袋をじっと見ていた。
「五回とも、私はそれをしなかった」
「今日はしました」
「終わり?」
階段の上から声が降ってきた。
「まだです」
私は長靴を履き替えて、ピットの縁に足をかけた。
「ちょっと」
緋山が階段を駆け下りてきた。
「何してるの」
「降ります」
「今、二百匹出てきた穴でしょう」
「卵鞘が残ってます。あれには薬が効きません」
私はマスクを直した。
「殻が硬いんです。中まで染みない。だから、薬を撒いても卵は生きてます。二週間後に孵ります。それが、六回目の正体です」
「じゃあ、どうするの」
「取ります。手で」
緋山が私の腕を掴んだ。
強い力だった。
「私が行く」
「班長が取れますか。壁に貼り付いてるやつを、割らずに」
「……」
「割ると中身が出ます。出たら床に散ります。散ったら終わりです」
私は腕を外した。
「これが仕事です」
「加納さん」
「はい」
「もし、下でまだ生きてるのがいたら、どうするの」
「叫びます」
「……それだけ?」
「それだけです」
私は噴霧器のレバーを確かめた。
「班長。私は、あれを一体も殺したことがないです。今夜が初めてです」
「今夜、二百十四体殺したでしょう」
「殺したのは、薬と、あんたです」
私はピットの縁に足を掛けた。
「私がやったのは、逃げ道を一本にしただけです。そこは自信があります。そこだけです」
三時間かかった。
へらを殻の縁に差し込んで、根元から剥がす。一つずつ。
膝まで水に浸かって、腰を曲げたまま、三百回。
途中から緋山が上でバケツを受け取る係になった。彼女は一度も急かさなかった。
二百個を超えたあたりで、足に何かが当たった。
泥だと思った。
ピットの底には、三十センチの泥が溜まっている。長靴で歩くたびに、何かは当たる。
二度目に当たったとき、動いた。
私は体を起こした。起こしきる前に、水面が割れた。
油を撒いた水面ではない。ここは撒いていない。撒く必要がないと、私が判断した場所だ。
白いものが、胸の高さに来た。
私は後ろに下がろうとした。泥に足を取られて、下がれなかった。
噴霧器は、縁に置いてある。手が届かない。
その距離を、私は正確に測っていた。一メートル二十。二十年、距離を測るのが商売だ。
届かない、と思った。
上から、水が落ちてきた。
水ではなかった。
郁が、飛び降りていた。
膝まで泥のある底に、防具のまま落ちて、着地の姿勢が取れていない。それでも、落ちながら振っていた。
音が、今までと違った。乾いた音ではなく、鈍い音だ。水の中で振ると、こうなるらしい。
一撃で落ちなかった。二撃目で落ちた。
彼女は膝まで泥に沈んだまま、肩で息をしていた。
「加納さん」
「はい」
「動かないで」
彼女はライトを泥の上に向けた。私のではない。自分のヘッドライトを外して、水面すれすれに構えた。
斜めから当てている。
私が厨房でやるのと、同じ角度だった。
「……いない」
「今のが最後です」
「なんでわかるの」
「泥の中で生き延びられるのは、脱皮直後のやつだけです。柔らかいので、殻が水を通す」
私は自分の手が震えているのを見た。
震えているのは、寒いからだと思うことにした。
「一匹だけ、殻が白かったです」
「見てたの」
「見てました」
「見てて、下がれなかったの?」
「泥だったので」
郁は剣を担ぎ直して、ピットの壁に背を預けた。
「……上で受け取ってるだけの係は、やめる」
「危ないです」
「あなたのほうが危ない」
その日から、彼女は私が潜るときに、必ず縁に立つようになった。
三百十二個。
ドラム缶に入れて、上からバーナーを当てた。殻が弾ける音が、花火のように続いた。
空が白くなっていた。
「加納さん」
缶の火を見ながら、緋山が言った。
「なんで、私に理由を言ったの」
「理由」
「繁殖してる、って。上に説明すればよかったでしょう。私は業者を呼んだだけの、失敗した班長よ」
私はバーナーを止めた。
「あんたが、五回目で違和感を持ったからです」
「え」
「五回目まで、誰も呼ばなかった。六回目で呼んだ。おかしいと思ったからでしょう」
缶の中で、また一つ殻が弾けた。
「おかしいと思った人がいたから、俺が呼ばれた。それだけです」
緋山は何も言わなかった。
しばらくして、小さく笑った気配がした。振り返らなかったので、顔は見ていない。
朝の六時に、ギルドの職員が交代で入ってきた。
階段に並んだ死骸を、袋に詰めていく。二百十四体。作業はほとんど無言だった。
沢渡が私の横に来た。
「加納さん。報告書の分類、どう書けばいいですか」
「分類」
「討伐なのか、その、なんと言うか」
「防除です」
「防除」
「討伐は、出てきたものを倒すことです。防除は、出てこない状態を作ることです。今日やったのは後ろのほうです」
沢渡はメモを取った。取りながら、途中で手が止まった。
「……うちの報告書には、三十年間、前者の欄しかありませんでした」
見積書を出した。
薬剤、機材損耗、産業廃棄物処理、深夜割増、人員手配。
二百二十万円。
昨日の中華料理店が三万円だった。
沢渡は数字を二度見てから、判子を押した。
「……正直、討伐報酬より高いです」
「討伐は五回やって失敗してます」
「痛いところを」
「六回目はありません」
私は控えを受け取って、軽バンに積んだ。
ドラム缶の灰を均していたとき、緋山が言った。
「加納さん。数、合わないんだけど」
彼女は壁の写真をタブレットに表示していた。私が最初に照らした、あの壁だ。
「三百十二個、回収したのよね」
「はい」
「写真を数えたら、三百四十一ある」
私はタブレットを受け取った。
壁の一角だけ、卵鞘が剥がされた跡があった。
剥がした跡ではない。切った跡だ。縁がまっすぐに残っている。へらではなく、刃物で。
「二十九個、先に持っていかれてます」
私が言い終わる前に、沢渡の携帯が鳴った。
彼は数秒聞いて、こちらを見た。顔から色が抜けていた。
「管理会社に、確認が取れました」
「はい」
「地下の南京錠。……あれ、うちの備品です」




