六度目のゴキブリ
「ゴキブリの業者さんですよね」
電話の向こうで、冒険者ギルドの職員がそう言った。
「害虫防除です」
私はそう答えた。
その現場でA級冒険者が五回討伐に失敗していたことを、このときはまだ知らない。
◇
日本に迷宮が出たのは、三十年前の四月だ。
最初は新宿だった。次に千葉。今は全国で二百十二か所ある。
地面に穴が開いて、中から生き物が出てくる。
最初の数年は、それなりに混乱した。自衛隊が出た。株が落ちた。捨てられた町が三つある。私は当時十三で、学校が二か月止まったのを覚えている。
だが、迷宮の素材が金になるとわかった途端、世の中はあっさり適応した。
人は、怖いものには慣れない。儲かるものには慣れる。
五年で冒険者という職業ができた。国が資格を作り、ギルドが等級を振り、討伐した数で金が出るようになった。装備の会社が三社上場して、迷宮の素材で打った包丁が通販で売られている。
三十年だ。
迷宮のない世界を覚えている人間は、もう職場にほとんどいない。
慣れきっているから、誰も根っこを考えない。
私の商売のほうは、何も変わっていない。
加納防除サービス。従業員は私ひとり。軽バンが一台。
親父が迷宮の出る前から続けていて、私が二十年やっている。
厨房のゴキブリと、床下のシロアリ。三十年前と同じ相手だ。
迷宮には入らない。潜らない。
出てきたものだけを、殺す。
床に膝をつく。
懐中電灯を、床と平行に近い角度で当てる。
真上から照らすと影が消える。斜めに当てると、床が喋り出す。
シンク下、巾木の合わせ目。黒い点が列になって落ちていた。
「ここですね」
「そこ? 毎日拭いてるよ」
店長が屈んで覗き込む。四十代。白衣。腕に古い火傷の跡。
「拭ける場所は問題ないです。問題は、拭けない場所です」
ヘラを差し込む。巾木が一ミリ浮いた。奥に、焦げた米粒のようなものが詰まっている。
「卵です。一つで四十匹」
店長が黙った。
「……四十」
「これが六つ見えます。見えているのは、だいたい全体の一割です」
ベイト剤を打つ。
米粒ほどの量を、点で置いていく。三十箇所。噴霧はしない。厨房で霧を撒けば食材にかかる。それに、殺虫剤で追い出すと散らばる。散らばれば壁の中に入る。壁の中では殺せない。
だから、食わせる。
食った個体が巣に戻って死ぬ。死骸を仲間が食う。糞を食う。それで連鎖する。
「これで終わり?」
「明日から減ります。二週間で見なくなります。それから」
巾木の隙間にコーキングを打った。
「塞ぎます。これが一番効きます」
薬はいつか効かなくなる。塞いだ穴は、塞いだままだ。
「加納さんはさ、なんでこの仕事なの」
店長が伝票を書きながら言った。
「親父がやってました」
「継いだんだ」
「継ぎました」
それ以上は言わなかった。
継いだころは、この仕事を人に説明するのが嫌だった。今はそうでもない。説明したい相手が、いなくなっただけだ。
三万円。
領収書を切って、軽バンに機材を積む。蓄圧式噴霧器、ULV機、ヘラ、粘着トラップの箱、コーキングガン。二十年、中身はほとんど変わっていない。
携帯が鳴った。知らない番号だった。
「加納防除サービスです」
「——冒険者ギルド関東支部の沢渡と申します」
切ろうとした。いたずらだと思った。
「防除の業者さん、ですよね。害虫の」
「害虫です」
「では、そちらでお願いできるかと」
「報酬はどのように」
「あ、討伐報酬の規定がございまして、C級相当ですと一体あたり」
「一体あたりでは出しません」
「え」
「うち、頭数で請求したことがないので。ゴキブリを一匹いくらで数えたら、破産します」
沢渡は少し黙ってから、わかりました、と言った。
わかっていない声だった。
神田の雑居ビル。八階建て。一階から三階が飲食、四階以上が事務所。
迷宮から出た個体が街で見つかるのは、珍しいことではない。
年に何百件もある。通報が入って、ギルドが行って、たいていは半日で片が付く。新聞にも載らない。
片が付かない現場がある、という話は聞いたことがなかった。
入口に規制線が張られていた。ギルドの職員が三人、タブレットを見ている。
その手前に、女がひとり立っていた。
背が高い。私より高い。革の防具の上に、支部のジャンパーを羽織っている。背中に布で巻いた大剣。腕を組んで、ビルの上を睨んでいた。
「緋山です」
名乗って、それで終わりだった。
横から沢渡という職員が割り込んでくる。
「第三討伐班の班長です。A級。……加納さん、でしたね。あの、一応確認なんですが」
等級は五段階ある。下からD、C、B、A、S。
A級は上から二番目だ。国内に四十人いない。
「はい」
「ゴキブリの業者さんですよね」
「害虫防除です」
「今回、対象はアーマーローチという甲殻種です。体長六十センチ。分類上は魔物です」
「聞きました」
「ですので、その、殺虫剤とかでは」
「見てから決めます」
緋山が初めて私のほうを見た。
目の下が黒い。何日も寝ていない顔だ。
「五回入った」
「はい」
「五回、全部殺した。数も合わせた。報告書も出した。そのたびに掃討完了と書いた」
彼女は一度だけ、ビルを見上げた。
「六回目が湧いた」
「湧いたと」
「上は、私の掃討が甘いと言ってる」
沢渡が咳をした。
「班長、それは」
「甘くない」
緋山の声が低くなった。
「私は一匹も見逃してない。見逃してないのに、また出た。だから」
言葉が止まった。
「……だから、理由がわからない」
「加納さん、防具は」
沢渡が私の足元を見ていた。
「これです」
私は防護服の袖を引っ張って見せた。
「……薄くないですか」
「薬が染みないようにできてます」
「魔物は」
「魔物は想定されてないです」
「え」
「噛まれたら痛いと思います」
緋山が、初めてこちらを正面から見た。
何か言いかけて、やめた。
わからないなら、見るしかない。
私はヘッドライトを点けた。
一階の裏口から入る。
中華料理店。厨房は片付いている。営業停止から二週間、誰も入っていない。
まず、床を見た。
それから、天井を見た。
それから、壁の貫通部を見た。
配管が壁を抜けている場所。その周囲の隙間が、指が入るほど開いている。よくある施工だ。どの建物にもある。
「ここ、通ってますね」
「通ってる?」
「壁の中を上に行ってます。一階から八階まで、この配管で繋がってます」
「魔物が? 六十センチの魔物が、こんな隙間を?」
「六十センチのは通れません」
私は膝をついて、貫通部の下を照らした。
白い、細い脱皮殻が落ちていた。指の太さもない。
「これは通れます」
緋山が屈んだ。彼女の息が止まったのがわかった。
「……小さい」
「幼虫です」
二階へ上がった。
居酒屋。カウンターの裏、ビールサーバーの脚元に黒い粒が落ちている。糞だ。乾いている。十日は前のものだ。
三階。焼肉屋。ダクトの中を覗いた。固まった油の層に、線が一本引かれている。何かが通った跡だ。幅は五センチ。
四階。
「ここは飲食じゃないですよね」
「違います」沢渡がタブレットを見た。「設計事務所です。被害報告はありません」
私はコピー機の裏を照らした。
段ボールが積んである。その一箱の角が、丸く齧られていた。
「報告、ないんですよね」
「ないです」
「上がってますよ」
緋山が箱を引き出して、裏返した。
齧り跡の下から、薄い脱皮殻が落ちた。
「……四階まで来てる」
「五階から上はまだだと思います。ここで止まってるのは、餌がここまでだからです」
「段ボールが餌なの」
「糊がでんぷんなんで」
緋山は、脱皮殻を拾って掌に乗せた。
彼女が十三年で拾ってきたのは、たぶん死骸だけだ。
裏口を出る。
店の裏に、コンクリートの蓋があった。グリストラップ。厨房の排水から油と残渣を分けるための槽だ。
蓋が、五センチ浮いていた。
バールで開ける。
匂いが上がってきた。二週間分の腐敗。油が固まって白い層になっている。その下に、黒い塊が沈んでいた。
「餌です」
「餌」
「餌と、水と、隠れる場所。この三つが揃うと、どんな生き物でも増えます。ここには三つ揃ってます」
私は蓋を戻さずに、緋山を見た。
「討伐記録、見せてもらえますか。体長が書いてあるやつ」
沢渡がタブレットを差し出した。
一回目。一体。六十二センチ。
二回目。四体。四十一、三十八、四十四、三十九。
三回目。九体。三十センチ台が七、二十センチ台が二。
四回目。十六体。
五回目。二十四体。
私はタブレットを返した。
「班長」
「なに」
「小さくなってますよ」
緋山が固まった。
「……小さく」
「最初に出たのが一番大きい。そのあとは、どんどん小さくなって、どんどん数が増えてる」
私は言った。
「ダンジョンから来たのは、一回目の一匹だけです。二回目からは、全部このビルで生まれてます」
沢渡が声を上げた。
「そんな、迷宮外で繁殖なんて記録は」
「記録がないんでしょうね」
「ありません。三十年間、一件もです」
「見てないだけだと思いますよ」
私は自分の軽バンに戻って、産業用の懐中電灯と、長靴と、防毒マスクを取った。
「湧いてるんじゃないです。産んでます」
緋山は動かなかった。ビルを見上げたまま、低い声で言った。
「……私は」
「はい」
「私は十三年、出てきたものを倒してきた」
「そうでしょうね」
「出てくる前のことを、一度も考えたことがない」
私はマスクの紐を締めた。
「考えるのは、うちの仕事です」
言ってから、正直なことを一つ付け足した。
「ただ、殺すほうは、自信がないです」
「え?」
「私が二十年やってきたのは、三センチのやつです」
私は指で大きさを作った。親指の先ほどだ。
「三センチなら、踏めば終わります。六十センチは、踏めません」
緋山が私を見た。
「加納さん。あなた、迷宮外個体を処理したことは」
「ないです」
「一度も?」
「一度もないです」
彼女はしばらく黙っていた。
「……よく来たわね」
「呼ばれたので」
「班長」
「なに」
「見積、今日は出せません」
「なんで」
「まだ、どこまで行ってるか見ていないので」
私は懐中電灯を一度消した。
「うちは、殺す前に必ず一周します。一周しないで薬を撒くと、逃げた先で増えます。五回やって駄目だったのは、そこです」
「一周に、どれくらいかかるの」
「このビルなら、六時間です」
緋山は腕時計を見た。それから、支部のジャンパーを脱いで職員に渡した。
「手伝う。何を見ればいい」
「隙間です」
「隙間」
「指の入る隙間を、全部です」
地下に降りた。
機械室。ポンプの音は止まっている。壁際に、鉄の蓋があった。排水ピット。建物の一番低い場所で、水を溜めて外に押し出すための穴だ。
南京錠がかかっていた。
新しい錠だった。錆が一つもない。
「これ、誰が付けました」
「うちじゃない」沢渡が首を振る。「管理会社に確認します」
「開けてください」
ボルトカッターで切った。
蓋を持ち上げる。
中を照らした。
壁が、動いていた。
コンクリートの内壁に、黒い米俵のようなものが、びっしりと貼り付いている。表面に筋の入った、硬い殻。大きさは私の握り拳ほど。
それが、数えきれないほど並んでいた。
「……何なの、これ」
緋山が背後で言った。
「卵鞘です。卵の入った鞘。ゴキブリと同じ形をしてる」
「何個」
「三百は見えます」
私は一つの表面に、ひびが入っているのを見た。
隣の一つにも。
その隣にも。
ぱき、と乾いた音がした。
白いものが、殻の縁から押し出されてくる。
濡れた、柔らかい、指ほどの脚。
膝が、勝手に半歩下がった。
下がってから、下がったことに気づいた。
二十年、私はこの仕事で怖いと思ったことがない。床下の暗さも、浄化槽の匂いも、慣れる。
慣れるのは、相手が小さいからだ。
小さいものは、こちらを殺さない。刺されても、痒いだけだ。
目の前の壁で、三百の殻が同時に音を立てている。
その一つから出てきた脚が、私の指より太い。
「班長」
声が、自分でも意外なほど普通に出た。
普通に出たのは、たぶん、そういう出し方しか知らないからだ。
「剣、抜いてください。今夜です」




