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樫村泰三

 秘書が名刺を出した。

 厚い紙だった。金の箔が押してある。衆議院議員 樫村泰三。裏に、委員会の役職が六行並んでいた。

 私は自分の名刺を出した。

 加納防除サービス 加納誠一。電話番号。父が作った古いロゴ。紙は普通のやつだ。千枚で三千円。

 樫村はそれを両手で受け取って、じっと見た。

「立派な名刺です」

「安いやつです」

「電話番号が一つしかない。最近は五つも六つも刷る人が多い」

 彼は名刺を胸のポケットに入れた。

「一つで足りる仕事は、いい仕事です」

 三隅が計量カップでお茶を出した。

 秘書が一瞬、手を止めた。

 樫村は何も言わずに受け取って、一口飲んだ。

「熱いですな」

「すみません」

「いや。熱いお茶は久しぶりです。私のところは、必ずぬるく出てくる」

 彼はカップを両手で持った。

「こぼしても火傷しないように、だそうです。年寄り扱いですよ」


 椅子は三隅が譲った。

 樫村は座って、部屋を見回した。

 視線が、スチール棚で止まった。

「これは、記録ですか」

「施工記録です」

「何年分ですか」

「三十二年です」

「拝見しても」

 私は一冊出した。今年の分だ。

 彼は老眼鏡をかけて、ゆっくりめくった。

 読み方が、ただの社交ではなかった。数字の列を、上から下へ追っている。

「隙間の寸法まで書いてあるんですな」

「二年後に比べるので」

「なるほど」

 彼は綴りを閉じて、両手で返した。

「私の事務所にも、こういうものがあります。三十年分の陳情書です。字は汚いですが」

「読み返しますか」

「読み返します。読み返さないと、何を約束したか忘れますので」

 郁が、部屋の隅に立ったままだった。

 樫村は彼女を見た。

「ギルドの方ですな」

「緋山です。第三討伐班」

「A級の」

「はい」

「四年前、新宿の第七層でお名前を拝見しました。班員を全員連れて戻られた」

 郁の表情が、少しだけ動いた。

「……なぜ、それを」

「殉職者が出なかった月は、報告書が薄いんです」

 彼は湯呑みを置いた。

「三十年、毎月それを読んでおります。薄い月は、覚えます」


 矢代教授が、膝の上の封筒を握っていた。

 樫村はそれを見た。

 見て、表情を変えなかった。

「大隅先生のお弟子さんですな」

「……ご存じですか」

「覚えています。三十一年前、私に二度会いに来られた」

 彼は背を伸ばした。

「二度目は、雨の日でした。傘を差さずに来られた」

 部屋が静かになった。

「先生。私は、あなた方の報告を読んでいます」

 矢代教授の手が、震えた。

「読んで、実施しないと決裁しました」

 誰も何も言わなかった。

「加納さん」

 樫村がこちらを向いた。

「お父上の書いたものも、読みました。三億八千万円の計画です」

「読んだんですか」

「読みました」

 彼は膝の上で手を組んだ。

「よくできていました。今でも、そう思います」


 私は聞いた。

「では、なぜやらなかったんですか」

 樫村は、すぐには答えなかった。

 窓の外を見た。市川の、何もない駐車場を見ていた。

「加納さん。あの年、迷宮は全国で百十四か所ありました」

「はい」

「そのうち、周辺に集落があったのが三十二か所です。志渡町で防除をすれば、残りの三十一か所からも同じ要望が出ます」

「出るでしょうね」

「三億八千万の三十二倍で、百二十億です。それも初年度だけだ。維持には毎年かかる」

 彼は指を組み直した。

「当時、国の迷宮対策予算は、年間四百億でした。そのほとんどが、討伐の装備と人員に消えていた」

「足りませんね」

「足りません」

 樫村はこちらを見た。

「私は、三十二か所ぜんぶを諦めました。区域を閉じて、人を出した。閉じれば、金は一度で済みます」

 彼の声は、言い訳をする声ではなかった。

 説明をする声だった。三十一年、同じ説明を何度もしてきた人の声だ。

「加納さん。あなたのお父上の計画は、正しかった。ただ、正しいことを三十二回やる金が、この国にはなかった」


「先生」

「はい」

「一つだけ、聞いていいですか」

「どうぞ」

「三十一年前に、追加調査だけはできませんでしたか」

 樫村の眉が、少しだけ動いた。

「調査は、三百万円です」

 私は言った。

「父の計画は三億八千万です。やるかやらないかは、先生の言うとおり、金の話だと思います。ただ、調査は三百万です」

「……」

「調査をしていれば、三十一年前に、迷宮の外で虫が増えることが記録に残りました。記録に残っていれば、三十年かけて、どこかで誰かが使えました」

 私は自分の棚を見た。

「うちの様式が三十二年変わらないのは、そのためです。書いたものは、あとの人が使えます」

 樫村は答えなかった。

「先生。追加調査をやらなかったのは、金ですか」

 長い沈黙があった。

「……やれば、次が来ます」

 彼は、初めて視線を落とした。

「調査をすれば、報告書が出る。報告書が出れば、対策の要望が出る。要望が出れば、断る理由が要る。断る理由を作るのに、また金と人が要ります」

「では」

「調べなければ、断らずに済みます」

 私は椅子に座り直した。

「先生」

「はい」

「虫は、決裁を待ちません」

 樫村泰三は、その言葉を聞いて、目を閉じた。

 三秒ほどそうしていた。

 それから、笑った。

 選挙のポスターの笑い方ではなかった。もっと疲れた、年寄りの笑い方だった。


「加納さん。今日は、お願いに来ました」

「お願い」

「志渡町のことを、これ以上お調べにならないでいただきたい」

「理由を聞いても」

「三十一年前の決裁が問われると、この国の迷宮行政は、三十年ぶんまとめて止まります」

 彼は帽子を取り上げた。

「止まっているあいだに、出る現場があります。その現場に、誰も行かなくなる」

「それは、脅しですか」

「事実の説明です」

 彼は立ち上がった。

 小柄な老人が立ち上がるのには、時間がかかった。秘書が手を貸そうとして、断られた。

「ただし」

 彼はドアの手前で振り返った。

「私は、あなたの仕事を邪魔しません。契約を切ったのも、保健所を入れたのも、私ではない」

「では、誰ですか」

「それは、ご自分でお調べなさい」

 樫村は帽子をかぶった。

「お父上は、いいお仕事をなさった」

 彼は少しだけ頭を下げた。

「三十一年前に止められたものを、今から止めてご覧なさい」

 ドアが閉まった。

 階段を降りる音が、ゆっくり遠ざかっていった。


 誰もしばらく動かなかった。

 最初に口を開いたのは、すずだった。

「……あの人、悪い人じゃないんですか」

「わからないです」

「わからないって、何ですかそれ」

「三十一年前に、三十二か所を諦めた人です。そのぶん、金は別のところに行ってます」

 私は樫村の名刺を、机の端に置いた。

「行った先で、助かった人もいます」

「加納さんの町は、助かってません」

「助かってないです」

 すずが唇を噛んだ。

「じゃあ」

「じゃあ、で終わらないんです。そこが厄介なところです」

 私は窓の外を見た。公用車はもういなかった。

「悪い人がやったことなら、止めれば済みます。うちの商売と同じです。巣を見つけて、絶てば終わる」

 私は窓から離れた。

「ちゃんとした人が、ちゃんと計算してやったことは、止め方がわかりません」

 矢代教授が、計量カップを両手で持ったまま言った。

「加納さん」

「はい」

「止め方が一つだけあります」

 彼は八枚の紙を、机に置いた。

「三十一年前の計算が間違っていたと、示すことです」

「どうやってです」

「やって見せるしかない」

 教授は、私を見た。

「三億八千万の代わりに、いくらでできるかを、あなたが出すんです」

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