予算の話
沢渡の開示請求が返ってきたのは、樫村が来た三日後だった。
封筒が厚い。彼は事務所に来て、机の上で紐を解いた。
「志渡町ゲートの鍵、持ち出し記録です。過去一年ぶん」
私は最初のページを見た。
月に一回。同じ日付の並びだ。毎月第二水曜。
持ち出し名義の欄に、こう書いてある。
——秩父出張所 保守点検
「秩父出張所が、千葉のゲートを開けてるんですか」
「おかしいです」
沢渡は次の紙を出した。
「うちの規定では、ゲートの鍵は所在地の支部が管理します。千葉のゲートなら、千葉支部です」
「千葉支部は」
「六年前に、関東支部に統合されました」
すずがペンを止めた。
「じゃあ、関東支部が管理してるんですか」
「そうです。そして、秩父出張所は関東支部の下部組織です」
沢渡は三枚目を出した。
決裁欄の写しだった。
判が一つ。
「関東支部長。鵜飼です」
十二回とも、同じ判だった。
すずが、その日の午後、別の紙を持ってきた。
国の予算書の写しだった。三十年分ある。
「加納さん。数字で見ると、すごくはっきりします」
彼女はホワイトボードに、三本の折れ線を書いた。
「一本目、迷宮の素材の年間搬出量。五年前から落ちてます。去年は最盛期の四割です」
「はい」
「二本目、討伐件数。同じ形で落ちてます」
「三本目は」
「迷宮対策予算です」
三本目だけ、途中から形が違った。
「予算は、三年前まで横ばいでした。でも、去年から落ち始めてます」
彼女はマーカーで、最後の二年を囲った。
「財務省の資料に、理由が書いてあります。『発生件数の減少に伴う所要額の見直し』」
「仕事が減ったから、金も減らす」
「そうです」
すずは、もう一本、点線を引いた。
「それで、これです。迷宮外案件の件数」
点線だけが、上がっていた。
「去年から、三倍です」
部屋が静かになった。
「加納さん。迷宮外案件は、討伐でも防除でもない、新しい区分です」
「区分がないと言ってましたね」
「今はないです。でも、件数が増えて、被害が出て、世論が動けば」
彼女はマーカーを置いた。
「新しい予算科目が、できます」
郁が壁から背を離した。
「……待って」
「はい」
「じゃあ、あの人は」
彼女の顔が歪んでいた。
「あの人、防除の予算を作ろうとしてるってこと?」
「そうなります」
私は椅子に座り直した。
三十年、討伐の欄しかなかった。沢渡が四回出して、やっと欄が一つ増えた。
欄を一つ増やすのに、二十年勤めた人間が四回出し直した。
予算の科目を一つ作るのに、何が要るかは、私にはわからない。
ただ、欄より重いのは確かだ。
「加納さん」
三隅が言った。
「それ、俺たちがやろうとしてることと、同じじゃないですか」
「同じです」
「同じなんですか」
「行き先は同じです」
私は帳面を閉じた。
「やり方が、逆なだけです」
すずがホワイトボードの前で、マーカーを振っていた。
「加納さん。私、これ全部書き直したいです」
「なんでです」
「悔しいからです。図がきれいすぎます」
「きれいだと悔しいんですか」
「向こうの理屈がきれいだと悔しいです」
彼女は右下に、小さく何か書き足した。
「何を書きました」
「『ただし卵を置いた』です」
「小さいですね」
「大きく書くと、図が汚くなるので」
鵜飼に会いに行った。
出入り禁止なので、支部には入れない。御茶ノ水の駅前の喫茶店に呼び出した。
彼は約束の時間ちょうどに来た。スーツは前と同じくらい仕立てがいい。
「加納さん。契約の件は、申し訳ありません」
「そのことではないです」
私は鍵の持ち出し記録を、机に置いた。
鵜飼はそれを見た。
見て、コーヒーを注文した。
「志渡町のゲートですね」
「十二回、開けてます。決裁は全部あなたです」
「そうです」
彼は否定しなかった。
あっさりしすぎていて、私は一度言葉を止めた。
「認めるんですか」
「記録に残っているものを、否定しても意味がありません」
コーヒーが来た。彼は一口飲んだ。
「加納さん。あなたは、私を悪人だと思っておられる」
「思ってないです」
「では、何だと」
「焦ってる人だと思ってます」
鵜飼の手が、カップの上で止まった。
「群馬と栃木が統合されました」
彼は言った。
「来年は、秩父が新宿に吸収されます。その次は、関東支部です。本部直轄になって、支部長のポストは消えます」
「ポストのためですか」
「職員が四百人います」
彼はカップを置いた。
「四百人のうち、三百人は冒険者資格を持っていません。事務です。二十年、書類を回してきた人たちです。支部が消えたら、その人たちは行き先がありません」
沢渡の顔が浮かんだ。
参考書を買って、解けないまま毎晩やっていた人だ。
「加納さん。あなたが神田で言ったことを、私は本気で聞きました」
「そうですか」
「討伐ではなく防除だ、と。三十年、うちに欄がなかったものです」
彼は少しだけ笑った。
「欄を作りました。沢渡くんが四回出して、私が通しました」
「通したのは、あなたですか」
「私です」
私は何も言えなかった。
「ですが、欄は欄です。予算が付きません。予算を付けるには、国に新しい科目を作らせる必要がある。科目を作らせるには、件数と、被害と、世論が要ります」
彼はカップの縁を指でなぞった。
「件数は、作れます」
私は聞いた。
「何人死にましたか」
鵜飼が顔を上げた。
「……一人です」
「深沢和樹さんですね」
「私は指示していません」
「では、誰が運びましたか」
「知りません」
彼は目を逸らさなかった。逸らさないことが、答えになっていた。
「加納さん。私は、卵を置けと言ったことはありません。予算の資料を作れと言っただけです。資料に必要な数字を作るために、現場の人間が何をしたかは」
「知らない」
「知りません」
私は立ち上がった。
「支部長」
「はい」
「うちの父は、三十一年前に同じものを作ろうとしました。防除の科目です」
「存じています」
「作れませんでした」
私は伝票を取った。
「それでも、父は卵を置かなかったです」
事務所に戻ると、郁が双眼鏡のデータを広げていた。
昨夜、もう一度柵の外へ行ったらしい。
「加納さん。数が出た」
「はい」
「県のカメラと、うちの赤外を合わせて、面積から推定した」
彼女は紙を滑らせた。
私は数字を見た。
二度見た。
「戸田さん」
「はい」
「これ、卵鞘に直すと何個ですか」
すずが電卓を叩いた。
叩く手が、途中で止まった。
「……三万個です」
神田が三百十二個だった。
板橋が二百三個だった。
志渡町は、その百倍ある。
そのとき、私の携帯が鳴った。
画面に、知っている番号が出ていた。
「加納です」
「鵜飼です」
さっき別れたばかりの声だった。
「志渡町の立入許可を出します」
私は受話器を持ち替えた。
「うちは出入り禁止です」
「解除しました。県にも話を通します」
「なぜです」
少し間があった。
「三万個を止められる人間が、この国にあなたしかいないからです」




