最初の記録
矢代教授は、退官式の格好のまま来た。
紺のスーツに、胸に花を挿している。杖をついて、事務所の三段の階段を三分かけて上がった。
三隅が支えようとして、断られた。
「自分で上がります。今日くらいは」
段ボール箱は、タクシーの運転手が運んでくれた。
六畳の事務所に、五人。
椅子が足りないので、私は薬剤の箱に座った。
湯呑みが三つしかなかった。
三隅が台所から、計量カップを持ってきた。目盛りの付いた、耐熱のやつだ。
「すみません、これでいいですか」
「構いません」
矢代教授は、計量カップでお茶を飲んだ。
「二百ミリリットルですな」
「はい」
「正確でいい」
「戸田くん」
「はい」
「今日は、私の話を聞いてください。君が怒ることを言います」
すずが背筋を伸ばした。
「はい」
「怒っていい。ただ、最後まで聞いてください」
矢代教授は、箱の蓋を開けた。
「三十一年前、私は二十九でした」
彼は封筒を一つ取り出した。茶色い、大きいやつだ。
「国立の研究所で、助手をしていました。師は、大隅という人です。故人です」
「調査の責任者ですね」
「そうです。志渡町の、生物発生状況調査。私は現地担当でした」
彼は封筒を膝に置いた。
「加納さん。私は、あなたのお父さんを知っています」
私は何も言わなかった。
「毎日、軽トラックで来ておられた。町の家を一軒ずつ回って、床下に潜って、数を数えていた。私は彼の横で、ノートを持っていました」
「ノートを」
「持っていただけです。潜ったのは、彼です」
教授は少し笑った。
「私は一度、潜りました。三十分で出てきました。腰が抜けて、彼に引っ張り出してもらった」
「父は何か言いましたか」
「『先生は上で書いててください』と」
彼は計量カップを両手で持っていた。
「あれから三十一年、私はずっと上で書いていました」
教授の指が、封筒の口を撫でた。
「正直に言います。当時、研究者のあいだで、彼の仕事は評価されていませんでした。訓練を受けていない業者の観察だ、と」
すずの手が、膝の上で固くなった。
「私も、最初はそう思っていました」
「最初は」
「三か月で、考えが変わりました」
彼は封筒を開けた。
「彼の数字は、私たちの数字より正確でした。理由は簡単です。私たちは週に二回行った。彼は毎日行った」
封筒から出てきたのは、八枚の紙だった。
万年筆の字だ。
一枚目の上に、表題が書いてある。
——志渡町における継続的防除の可能性について
私は読んだ。
一枚目から三枚目までが、現状だった。町内の発生箇所と、その分布。下水本管との関係。
四枚目から六枚目が、方法だった。
下水の本管を三区画に分け、区画ごとに封鎖する。各家屋の床下の通気口に金網を打つ。共同井戸を埋める。町の外周に、土壌処理帯を作る。
七枚目が、日程だった。十四か月。
八枚目が、費用だった。
当時の金額で、三億八千万円。
「……加納さん」
すずが横から覗き込んでいた。
「これ、町を捨てなくていいって書いてあります」
「書いてあります」
「三十一年前に」
「三十一年前にです」
すずが八枚目の見積を、指でなぞっていた。
「加納さん。この項目、今と全部同じです」
「同じですか」
「土壌処理帯、通気口の金網、本管の区画封鎖。今日、加納さんが書いても、同じ順番になります」
「そうでしょうね」
「三十一年、進歩してないってことですか」
「進歩してないんじゃないです」
私は八枚目を裏返した。
「やってないだけです」
矢代教授は、次の紙を出した。
今度は印刷物だった。国の様式だ。
「これが、その回答です」
私は受け取った。
一枚きりの、短い文書だった。
——標記調査に係る追加調査の要望について(回答)
本文は四行だった。
——当該地域については、住民の安全確保を最優先とし、区域の恒久的な立入制限をもって対応することが適当である。よって、継続的防除に関する追加調査は、これを実施しない。
決裁欄に、印が三つ並んでいた。
一番右が、樫村泰三だった。
「先生」
「はい」
「これ、父は見ましたか」
「見ていません」
矢代教授は、初めて目を伏せた。
「私が、渡さなかった」
誰も動かなかった。
「加納さん。私は当時二十九で、任期付きの助手でした。この回答を見て、師に相談しました。師は、こう言いました。『これは、我々が争う話ではない』」
彼は杖の柄を握っていた。
「私は、それに従いました。そして、あなたのお父さんには、追加調査は難しそうだ、とだけ伝えました」
私は紙を持ったまま、しばらく黙っていた。
「三十一年、持っていたんですね」
「捨てられませんでした」
教授が顔を上げた。
「捨てたら、なかったことになります」
その言い方を、私はどこかで聞いたことがあった。
うちの物置で、三万六千円分の産廃が、二十年捨てられずにいる。
すずが立ち上がった。
拳を握って、口を開いて、それから何も言わなかった。
言わないまま、座った。
「戸田くん」
「……はい」
「怒っていいと言いました」
「怒ってます」
「そうでしょう」
「怒ってますけど」
彼女は自分の膝を見ていた。
「先生が持っててくれたから、今日、これがあるので」
矢代教授は、しばらく彼女を見ていた。
それから、深く頭を下げた。
「私は、君に同じことをさせるところでした」
「先生」
「予算を切られたとき、私は教授会で何も言わなかった。三十一年前と同じです」
彼は頭を下げたままだった。
「同じ人間は、同じことをします。だから、記録だけは残そうと思ったんです」
そのとき、窓の外で車のドアが閉まる音がした。
三隅が窓に寄って、すぐ振り返った。
「加納さん。黒い車が二台、停まりました」
郁が立ち上がった。
彼女は窓の外を三秒見て、一言だけ言った。
「公用車よ」
階段を上がってくる足音がした。
二人分。いや、三人分。
ノックはなかった。
ドアが開いて、先に若い男が二人入ってきた。どちらも黒いスーツで、片方が名刺入れを持っていた。
その後ろから、老人が入ってきた。
小柄で、背が丸い。銀色の髪をきれいに撫でつけている。顔に、選挙のポスターで見る笑い方が乗っていた。
「突然、失礼いたします」
彼は事務所を見回した。
六畳。机が一つ。スチール棚が三つ。壁に、脱皮殻の額と、切れた契約書。
「加納誠一さん」
老人は、帽子を取った。
「樫村泰三と申します」




