親父の道具
市川の実家に、物置がある。
二畳ほどのプレハブで、三十年前に引っ越してきたときに建てたものだ。中を全部出したことは、一度もない。
日曜の朝、私は三隅とすずを連れて、扉を開けた。
埃と、油と、防虫剤の匂いがした。
「加納さん。これ、全部お父さんのですか」
「半分は私のです。使わなくなったやつ」
手前から出していった。
蓄圧式の噴霧器が四本。うち三本は、うちでもう使っていない型だ。長柄の網。ヘラが十七本。木の柄が手の形に減っている。
奥から、一斗缶が出てきた。
蓋を開けると、薬剤の瓶が並んでいた。ラベルの色が褪せている。
私は一本取って、成分を読んだ。
「これ、今は使えないやつです」
「壊れてるんですか」
「法律です。二十年前に失効してます」
すずが瓶を覗き込んだ。
「捨てられないんですか」
「産廃です。うちで出すと一本三千円です」
「……十二本ありますよ」
「三万六千円です」
三隅が笑った。
「親父さん、お金好きじゃなかったんですか」
「好きでしたよ」
私は瓶を箱に移した。
「捨てるのに金がかかるものを、捨てられなかっただけです」
すずが別の箱を開けた。
「加納さん、これ、何ですか」
中に、木の柄の付いた道具が入っていた。先が平たく、少し曲がっている。
「へらです。父が自分で削ったやつです」
「売ってないんですか」
「売ってます。ただ、卵鞘を剥がすときは角度が要るので」
私は一本取って、手に馴染ませた。
柄が、私の手より少し小さい。
「父のほうが、手が小さかったんですね」
言ってから、初めてそれに気づいた。
帳面は、一番奥にあった。
みかん箱が三つ。中に、紐で綴じた冊子が詰まっている。
一冊目を開いた。
万年筆の字だ。日付、現場、隙間の寸法、薬剤、二週間後の結果。
私が今日書いた様式と、同じだった。
三隅が横から覗いて、しばらく黙っていた。
「加納さん」
「はい」
「これ、字以外、加納さんのと区別つかないです」
「そうでしょうね」
すずは箱を抱えるようにして、年度を確かめていた。
「加納さん。三十一年前、あります」
「はい」
「二冊あります」
彼女が両手で持ち上げた。
「一冊は、普通の営業の分です。……もう一冊、表紙に何も書いてないです」
その冊子は、他のものより厚かった。
開くと、様式が違った。
日付と、現場と、数字。
現場の欄に、町の中の地名が並んでいた。私の知っている地名だ。
大字宮下。大字谷津。志渡小学校。志渡町立保育所。志渡診療所。
数字の欄は、卵鞘の個数だった。
私はページを繰った。
一ページに、二十件。それが六十ページ続いていた。
「加納さん。これ」
「うちの父が、一年かけて数えたものです」
最後のほうに、地図が貼ってあった。
手描きの町の図に、赤い点が打ってある。
点は、町の南から北へ、線状に並んでいた。
私は自分の鞄から、すずの作った関東の地図を出した。
神田、川崎、練馬、錦糸町、府中。
並び方が、同じだった。
「……三十一年前に、同じことが起きてます」
すずの声が震えていた。
「同じというか、これ」
「今やってる人間が、これを真似してます」
私は地図を指でなぞった。
「水の流れです。下水の本管に沿って打ってある。父は、下水を追って点を打った。今の人間も、下水を追って場所を選んでる」
「加納さん」
「はい」
「教科書が、あるってことですか」
私は答えなかった。
答えは、たぶん手の中にある。
三隅が、地図をじっと見ていた。
「加納さん。この点、数が多い場所がありますよね」
「町の北です」
「なんで北なんですか」
「下水の本管が、北から南へ流れてるからです。上流の家が先に出て、下流の家があとから出ます」
「じゃあ、北から順番に」
「そうです。父は、それを一年かけて確かめてます」
三隅は地図から目を離さなかった。
「……一年って、毎日ですよね」
「毎日です」
「誰にも頼まれてないのに」
「頼まれてました。三百万円で」
私は帳面の最初のページを開いた。
請負金額の欄に、そう書いてある。
「一年で三百万です。当時でも安いです」
冊子の最後は、破られていた。
綴じ紐のところに、紙の切れ端が残っている。
私は数えた。八枚だ。
破り方が乱暴ではない。定規を当てて、まっすぐ切ってある。
父の仕事だ。
この人は、破るときも定規を使う。
昼に、母が呼びに来た。
父が起きているという。
私は冊子を持って、部屋に入った。
父はベッドを起こして座っていた。話せる日だ。
「物置、開けたのか」
「開けました」
「散らかってるだろう」
「散らかってます」
私は冊子を膝に置いた。表紙が見えるようにした。
父の目が、それを見た。
見て、何も言わなかった。
「親父」
「うん」
「最後の八枚、どうした」
父はしばらく天井を見ていた。
それから、言った。
「あれは、渡した」
「誰に」
「先生に」
「先生?」
「国のほうの、調査の先生だ。若い人だった。名前は……忘れた」
彼は手を額に当てた。思い出そうとしている動きだった。
「あの人だけは、俺の数字を見てくれた。他の連中は、見もしなかった」
「渡して、どうなった」
「知らん」
父の手が、膝に落ちた。
「知らんのだ。町が閉まって、それきりだ」
それ以上は、聞かなかった。
聞いても出てこないのがわかったからではない。
父の呼吸が浅くなっていたからだ。
帰り際、母が玄関で冊子を見た。
「それ、持っていくの」
「借ります」
「持っていきなさい」
彼女は少し考えてから、言った。
「あの人、あれを三十年、開けてないよ」
「開けてない?」
「一度も。でも、捨てろとも言わなかった」
母は玄関の戸に手をかけた。
「捨てるのに金がかかるからじゃないと思う」
事務所に戻ると、すずが電話を切ったところだった。
顔が白い。
「加納さん。矢代先生からです」
「はい」
「明日、来るそうです。こっちに」
「退官の日じゃないですか」
「そうです。式のあと、そのまま来ると」
彼女は受話器を置いた手を、まだ離していなかった。
「先生、こう言いました」
「なんと」
「『加納さんのお父さんの原稿を、預かったままだ』って」




