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昔の話です

 看板屋から電話が来たのは、朝の八時だった。

「加納さん。できたぞ」

「何がです」

「軽バンの文字だよ。指定業者ってやつ。型抜きに手間取ってな」

 私は事務所の窓から、駐車場の軽バンを見た。

 側面に、二日前に貼られた文字が入っている。

 冒険者ギルド関東支部 指定業者。

 父の同級生は、字を大きくすると言って、本当に大きくした。遠くからでも読める。

「先週、契約が切れました」

 電話の向こうが静かになった。

「……切れた?」

「切れました」

「じゃあ、あれ、嘘になるのか」

「なります」

「剥がすか」

 私は少し考えた。

「貼っといてください」

「いいのか」

「金を払ったので」

 看板屋は笑って、それから「そういうとこが親父さんだ」と言って切った。

 三隅が窓から軽バンを見ていた。

「加納さん。あれ、走ってたら普通に嘘ですよね」

「嘘です」

「警察に止められたりしないですかね」

「止められたら、切れたと言います」

「言うんですか」

「言います。嘘は面倒なので」

 三隅は少し笑って、湯を沸かしに行った。


 すずは、事務所のソファで寝ていた。

 パソコンが点いたままだった。県の文書の写しを、三日かけて打ち込んでいる。ファイル名に通し番号が振ってあって、四百を超えていた。

 九時に起きて、彼女はいきなり喋り始めた。

「加納さん。昨日の分で、業者の一覧が出てきました」

「おはようございます」

「おはようございます。業者の一覧です」

 彼女は画面を回した。

「避難区域内の調査を請け負った業者。十七社あります。ほとんどが建設と測量です。防除業は一社だけ」

「うちですね」

「うちです」

 すずがスクロールした。

「それで、住所が載ってて」

 彼女の声が、そこで止まった。

 画面を見たまま、止まった。

「……加納さん」

「はい」

「この住所」

 三隅が後ろから覗き込んだ。

「千葉県印旛郡志渡町……あれ、これ、会社の住所ですよね。今、市川ですよね」

「昔は、そこでした」

 事務所が静かになった。

 すずが、ゆっくりこちらを向いた。

「昔って」

「三十年前です」


 郁が来たのは、その十分後だった。

 彼女は封筒を持っていた。中身は、志渡町の現況資料だ。謹慎が明けてから、こういうものを持ってくるのが早くなった。

「加納さん。町は県の管理下にある。全域が立入制限区域よ。柵とゲートで囲ってあって」

 彼女はそこで、部屋の空気に気づいた。

「……どうしたの」

 誰も答えなかった。

 すずが画面を指した。

 郁はそれを読んで、二度読んで、それから私を見た。

「加納さん」

「はい」

「あなた、あそこで生まれたの」

「昔の話です」

 私はそれだけ言って、資料の続きを受け取った。

「ゲートの鍵は、どこが持ってます」

「県と、ギルドの両方」

「ギルドが持ってる理由は」

「迷宮があるからよ。千葉の迷宮は、まだ閉じてない。封鎖されてるだけ」

「入るには、両方の許可が要りますね」

「要る」

「うちは、片方から出入り禁止をもらってます」

「……そうね」

 私は資料をめくった。

 地図があった。三十年前の町の図面に、赤い線でゲートの位置が書き込んである。

 線の内側に、私の知っている道が全部あった。

 国道から入る一本目の道は、両側が畑だった。春になると風で土が飛んで、洗濯物が茶色くなった。

 二本目を右に曲がると、緩い坂がある。自転車で登れなかった。

 坂の上に商店があって、その隣が床屋で、その先がうちだった。

 図面には、何も書いていない。

 番地と、道の線があるだけだ。

 私はその線を、指でなぞらなかった。


「加納さん」

 すずだった。

「なんでですか」

「何がです」

「なんで、言わないんですか」

 声が震えていた。

「私、三日かけて打ち込みました。加納さんの町の、避難の記録を。何世帯出て、いくら払われて、何年で廃止になったか。全部打ちました」

「ありがとうございます」

「そうじゃないです」

 彼女は立ち上がった。

「知ってたら、私、もっと別の読み方をしました。加納さんが、どの紙を見て何を思ってるのかを、気にしながら読みました」

「気にしなくていいです」

「気にしますよ!」

 彼女はテーブルを叩いた。ペン立てが倒れた。

「私、加納さんに全部言ってきました。落ちた査読も、予算も、親のことも。全部です。加納さんは何も言わない。ずっと何も言わない。ずるいじゃないですか」

 誰も動かなかった。

 三隅がペン立てを起こした。それだけだった。

「加納さん、何か言ってください」

「……昔の話です」

「それはさっき聞きました」

「それ以上は、ないです」

 すずの顔が歪んだ。

 郁が彼女の肩に手を置いた。

「戸田さん」

「離してください」

「離さない」

 郁は強い力で、すずを椅子に座らせた。

「私、十三年冒険者やってる」

「なんの話ですか」

「班で四人死んでる。私はその話を、誰にもしない」

 すずが顔を上げた。

「したほうがいい?」

「……」

「したほうがいいと思う人は、たぶん、しないで済んだ人よ」

 郁は手を離した。

 すずは何か言おうとして、口を閉じた。

 それから、両手で顔を覆った。

「……すみません」

「いいです」

「すみません、私、ほんとに」

「戸田さん」

 私は資料を閉じた。

「怒ってくれて、助かりました」

 彼女が指の隙間からこちらを見た。

「私、あそこの話を三十年してないです。してないと、しないのが普通になります」

 私は立ち上がった。

「普通になると、行かなくなるので」


 すずは、それから三十分ほど何も言わなかった。

 昼前になって、こちらを見ずに言った。

「加納さん」

「はい」

「私、さっき、ずるいって言いました」

「言いました」

「取り消します」

「いいです」

「よくないです。取り消します」

 彼女はキーボードを叩き始めた。

「取り消して、代わりに、もっと打ちます」

「無理はしないでください」

「無理はします。私、そういう人なので」


 午後、私は四つの電話をかけた。

 一つ目は県の管理事務所。立入許可の申請様式を聞いた。

 二つ目は久住刑事。志渡町で異常が出ていることを伝えた。

 三つ目は矢代教授。三十一年前の中間報告のことを聞いた。教授は少し黙ってから、「その調査の名前は、聞いたことがある」と言った。

 四つ目は、沢渡だった。

 彼は川口の家から出た。

「加納さん。私、辞表を出しました」

「受理されましたか」

「保留です。事情聴取が終わるまで、と」

「ちょうどいいです」

「といいますと」

「まだギルドの職員なら、書類が出せます」

 私は資料の地図を見ていた。

「志渡町のゲート、ギルド側の鍵の持ち出し記録を請求してください。過去一年ぶんです」

 沢渡が息を吸う音がした。

「……やります」

「手続きどおりでお願いします」

「手続きどおりでやります。それ以外、できないので」


 夕方、すずが冷たいタオルを目に当てながら聞いた。

「加納さん。許可、いつ下りますか」

「県は二週間だそうです」

「二週間」

「ギルド側は、たぶん下りません」

「じゃあ」

 私は机の上の鍵を取った。

 軽バンの鍵だ。父が使っていたキーホルダーが、まだ付いている。

「柵の外までなら、誰でも行けます」

 三隅が立ち上がった。

「今からですか」

「今からです」

 私は上着を着た。

「下見に行きます」

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